ザメンホフの生涯 (9)

第八章 大会演説

 東ヨーロッパでは、事実そのものが、人類人の真髄を説いていた。そこでは、言語的、宗教的なショービニズムが、諸国間ばかりではなく、それらの国内においても、住民が入りまじっているために人命をおびやかしてやまなかった。そこは、「民族間の憎しみによって飽和した大気が、さけがたい自然の反応で、エスペラント主義の運動を生んだ」地方であった。だから、そこの「同志[サミデアーノ]」たちが、ほとんどみんな、たとえ人類主義の申込書には署名しなくても、ザメンホフの思想の意義を理解したのは、しごく当然のことである。事実、署名したものは、ごくわずかであった。
 世界大戦まえの西ヨーロッパ人には、それは、あまりはっきりとは、わからなかった。東ヨーロッパにおけるなまなましい経験も、縁が遠いように思われていた。エスペラントを学んだものは、それでも理解を示すようにはなったが。ブーローニュの感情、「希望[ラ・エスペーロ]」の感情、そしてザメンホフのその他の詩の心、かれらはこれを、運動の「内在精神[インテルナ・イデオ]」であると、愛情をこめて名づけた。でもそれは、やや一般的で、ばくぜんとしたものである。ほんとは文法趣味による言語の面にしか、興味のないものもあった。かれらの中で、目だっていたのは、フランス第一の宣伝家ルイ・ド・ボーフロン侯爵であった。
 かれはブーローニュには行かなかった。「内在精神」が気にくわなかったのだ。この傾向に反対して、かれはすでに論文をいくつも、自分の雑誌「レスペランチスト」に発表していたのである。人類主義のパンフレットが、無署名で出たのをいいことにして、ド・ボーフロンは、それをまず笑いものにした。それから、エスペラントが成功するためには、それは、たいへんに危険なものであると指摘した。
 この告発は、ザメンホフの心を傷つけた。けれども、かれはいつでも、たいそう慎重に行動していたのである。すでにブーローニュ・シュル・メールでは、みずから大会に、一つの宣言を提案して、満場一致で可決されていた。この宣言は正式に、エスペラント運動を次のように定義している。

 

「エスペラント運動とは、中立的な人間のことばを全世界に普及する努力のことである。中立語は諸国民の国内生活に干渉することなく、また現存する諸国語を押しのけることを少しも目的としない。それは異なった民族の人びとに、互いに意志を通じあう可能性をあたえる。またそれは、いろんな民族が言語上の争いをしている諸国では、公共機関の調停的言語として役にたち、さらに、いずれの国民にとっても、同等に興味のある作品が発表できるような言語である。
 特定のエスペランチストが、このエスペラント主義に結びつける、そのほかの思想や希望は、すべて、その人の純粋に私的な事がらであって、それに対してエスペラント主義は責任を負わない」

 

 この文でじゅうぶんのはずであろう。しかし、「私的」なもの、という表現を、「禁止されている」にとってかえたい人もいるであろう。ド・ボーフロンとか、だれかの影響をうけて、フランス人のなかには、恐れをなし、すすんでザメンホフにむかい、忠告の手紙を書いたものもあったのである。エスペラントは、単なる[・・・]言語である、とかれらはいった。まったく私的にせよエスペラント運動を、なにかの思想[・・]と結びつけるのはさけよ。というのは、われわれがみんな、その思想をいだいていると思われて、それを好まない人びとに、われわれがきらわれることになるからだ、と。

 

「ああ、なんということばでしょう!」とザメンホフは激怒して叫んだ。一九六年、ジュネーブにおける第二回エスペラント大会の演説のときである。

 

「……わたしたちが、エスペラントをただ単に自分らに有利なことだけに使用したいという、それらの人びとの気に入らぬかもしれないという心配から、わたしたちの心からエスペラント運動の思想を、みんながむしりとらねばならぬとは! この思想は、運動の最も重要で神聖な部分、エスペラント事業の主要な目的であります。エスペラントを思うすべての戦士たちを、常に導いてきた星であります。そんなことは、断じて許しません! わたしたちは、力いっぱい抗議して、この要求をはねつけます。わたしたち、エスペラントの最初の戦士が、この運動においては、思想的なものはすべて、さけよと強制されることになれば、エスペラントのために書いてきたことは、憤りをもって引き破ります。なにもかも焼いてしまい、一生の仕事と壊牲を、つらくてもなきものにしてしまいます。この胸につけている緑星章を遠くへ投げすて、そうしていまいましい思いでわたしたちは、こう叫びます。もっぱら商売や実益の役にたたねばならぬというような、そんなエスペラントなら、わたしたちはいっさい、かかわりをもとうとは思いません!」

 

 ジュネーブのビクトリア・ホールで、ザメンホフは声を高め、きっぱりと、そう言明しながら、顔を青くして立っていた。揺れるような大拍手が、大多数のものはかれを理解し、衷心から賛同していることを示している。かれは、これまでエスペランチストは利益をうるものではなく、単に、たたかうものであった、といったが、実にもっともなことである。実際、もうけようとか、実益になるかどうかを思って、かれらは、やってきたのではないのだ。かれらの目的と行動を起こさせた主要な思想は、異民族間の友愛と正義であった。それで、この話し手は、すべての心のうちにある気持ちを表現するのだという確信をもって、先を続けることができたのである。

 

「この思想は、エスペラントが生まれたそのときから、現在に至るまで、それについてきて、離れたことはないのです。これは、エスペラントの著者が、まだ幼い子どものとき、かれを動かしたものです。二十八年まえ、いろんな民族の中学生が集まって、未来のエスペラントの生命の最初のしるしを祝いました。このとき、かれらは一つの歌をうたいましたが、その歌の一節が終わるごとに、次のことばが、くり返されていました。『諸民族の敵対心よたおれよ、たおれよ、時はきた』わたしたちの讃歌は、『世界に生まれた新しい感情』のことを歌っています。エスペラントの創始者と、最初のエスペランチストたちの、すべての作品、ことば、そして行動は、常にその同じ思想を、まったくはっきりと呼吸しています、わたしたちは、この思想を隠したことはけっしてありません。そのことでは、いかに小さな疑いもありえなかったのです。といいますのは、すべてはそのことを語っているからです。
 どういうわけで、それでは、エスペラントのうちに、『単なる言語』しかみない、それらの人びとが、運動に参加して、献身的に、また利益もないのに、共に仕事をしてきたのでしょうか。どうして、それらの人たちは、世間がかれらを大犯罪、すなわち、人類が少しずつ、一つになることに、手をかそうというかど[・・]で、罪することを恐れなかったのでしょうか。かれらは、自分がいうことと、気持ちとは相反していること、そうしてくだらぬ攻撃者に対する、不当な恐れから、このことを否定しょうとしてはいるけれども、かれらも無意識のうちには、わたしたちの夢みていることと同じことを、夢みていることが、わからないのでしょうか……
 初期のエスペランチストたちは、絶えまない嘲笑ばかりか、大きな犠牲にさえも、しんぼう強く身をさらしてきました。そうしてたとえば、ひとりの貧しい女の先生が長い間、エスペラントの宣伝のために、わずかでも節約ができたらと思うばかりに、ひもじさに苦しんだりしたのは——かれらは、みんな、それがなんらかの実益になるから、そうしたのでしょうか。死の床にくぎづけになった人たちが、しばしばわたしに、エスペラントは、かれらの、いままさに終わらんとする生命の、唯一のなぐさめです、と書いてきたのは——かれらがそのとき、なんらかの実益を思ったからでしょうか。けっしてそうではありません! みんなは、エスペラント運動に含まれている、内在精神のことだけを思っていたのです。みんなが、エスペラントをよしとするのは、それが人間の頭を近づけるからではなくて、人のこころを近づけるからなのであります」

 

 大会の出席者の感じによって、ザメンホフには、最も賢明なのはどうすればいいかが非常によくわかった。エスペラント主義は、それ自体、この言語を学んだ者の大部分を、「内在精神」にひきつけていたのである。それは、人の心をつかんでいた。いずれは、人類人の組織のこまかいことを、討論するときもくるだろぅ。いまは、綱領に必要な精確さが、多くの人をおじけさせてしまうだろう。それはエスペラント運動のなかで、特別のセクションをつくるだけかもしれないのだ。いまは、それよりも、普通一般の仕事を目ざして、みんなに共通の感情を養うほうが、さしせまったことである。エスペラントはことばにすぎない、だが大会というものは、それ以上のものでありたい。大会は、「内在精神」の祭典として、続くようにしたい。

 

「古代のヘブライ人たちが、毎年三回、一神教の思想に対する愛を、心のうちにかきたてるために、エルサレムで会合していたように、わたしたちも、エスペラント主義の思想に対する愛を、わたしたちのうちにかきたてるために、毎年エスペラント界の首都に集まるのです。そうしで、これが、わたしたちの大会の真髄であり、主要な目的であります」

 

 その綱領をザメンホフは、あくる年の年次大会の開会演説で提案した。それは一九〇七年、ケンブリッジで開かれた。出席者は千五百人であった。弱小国民だけでなく、ブリテン人のような強大国の人間も、参加しているのを目にするのは、喜ばしい勝利であった。このことは、かれらがエスペラント運動のうちに、利己的な便利さばかりでなく、異民族間の正義と友愛という、たいせつな思想をみていることを示していたのだ……「ケンブリッジの人たちは、きょうわたしたちを、自分たちに利益をもたらす商人としてではなく、かれらが理解し、尊重する人類人思想の使徒として、迎えておられます」
 実際、この点について特に、市長や、この古い大学のほかの先生たちも、一言したものであった。「われわれは、新しいペンテコステを見ているのだ」と、一週間でこのことばを学んだ有名なラテン学者のメイヤー教授は叫んだ。どこへ行っても、二十周年記念を祝うエスペラントがひびいていたのだ。絵にしたいようなタワーのそばに、ゴチック風の門の下に、緑にもえる芝生の庭で、うねうねしている河の小舟の上で、彫刻がいっぱいある橋の間に。
 この大会は輝かしく、盛会であった。ザメンホフは、イギリスの理想家たちの人間性をたたえた。かれを感銘させたのは、運動の進展、各国出席者の多いことであった。大聴衆が讃歌「希望[ラ・エスペーロ]」を心を一つにして歌おうと起立したとき、かれは感激にふるえた。千人もの声のオルガンで、あの終わりの一節の予言が、とどろいたのである。

 

中立のことばを基礎に
お互いに理解しながら
諸国民は同意して
大家族のまどいをつくるだろう

 

 一八八七年以来二十年になっていた。エスペランチストの集団は、すでに真の民衆となっている。その声は、世界じゅうに聞かれるようになるだろう。その国際的な核心から、思想は広まることだろう。この民衆にむかってザメンホフは、未来の人類の、成長を始めた大衆に対するように、いまや話しかけることができるのだ。大会はかれにとって、長くて暗い一年のうちで、最も明るい時間であった。一週間、ザメンホフは実現された夢のうちに過ごしたのである。中立を基礎にして、友愛のうちに暮らしている、各民族の人びとのなかにいたのだから。これは予言者のような光景だ。心を励ますものだ。ワルシャワの眼科の診療室で、窓ガラス越しに雪が降るのを見ながら、疲れる昼間の仕事を終わって、考えごとをしている夕べには、この情景がしばしばかれを訪れるのだった。このころから、ザメンホフは、信頼感をいっそう強めたのである。ケンブリッジ当時の肖像では、希望にもえる喜びが、先生[マイストロ]の目やくちびるに浮かぶうれいに生色をあたえている。
 先生[マイストロ]とは、みんながそう呼んだものである。しかし、ザメンホフはこの呼び名を好まなかった。精神的に、ほとんど肉体的にさえも、このことばはかれを弱らせたのである。先生ではなくて、人間同胞であり仲間でありたかった。控えめなたちだから……そうだ。それに自由であるためにも。「先生である」ことに、かれは名誉の重苦しさと、奴隷のくさりを感じていた。完全に私人でありたかったのである。なによりも、かれの気に入ったのは、大会出席者のなかにいて、静かに話しあうことだった。日ごろの考えを、遠慮なく述べ、討論することにあこがれていたのである。公的な地位は、どうにも気づまりでしかたなかった。さきにブーローニュでザメンホフは、「言語委員会」を選ぶようにすすめておいた。そのメンバーが語彙のことなどは協議してきめたらいいのである。かれらに、この言語に関する配慮と権威を全部わたして、ザメンホフはたいへん満足していた。パリでは.金持ちの有名な眼科医ジャバルの客となっていたが、この人はかれに講座の開設と、運動を指導するために給料を出すことを申し出た。ザメンホフは断わった。控えめで自由なこと、これがザメンホフの好みであった。
 生涯の目的は、あの「内在精神」である。ブーローニュ宣言は、言語のことをいっているだけなので、かれは思想的なエスペランチストのモットーも、はっきり定義することが必要だと感じていた。ケンブリッジの演説で、ザメンホフはそれを実行したのである。

 

「わたしたちは中立の基礎をつくろうと願っています。この上に立てばいろんな民族のものが、お互いに自分の民族的特性を押し付けあうことなく、平和に、友好的に意志を通じあうことができるでしょう。……そのモットーの細部に至るまで、はっきりした形を与えるには、また時機がきていません。けれども、それは、わたしたちの毎年の集会と共同生活によって、少しずつ、おのずからまとまってくるものと思うからです……まず、はじめはつまらぬことから、重要な事がらにうつってゆき、純粋に物質的なことから始まって人間の精神と道徳のあらゆる面に至るまで、人びとは民族間のかべをこわし、人間の友愛に役だついろんな方法をこれからはますますわたしたちに提案してくるでしょう——そして、これらのことはすべて、わたしたちが検討して受け入れるかどうかを考えることはできます。けれども、むやみにそれを、頭からなげてかかってはならないのです。といいますのは、諸民族の友好と、国民の間の敵対するかべをこわすことに役だつものはすべて、もしそれが、他民族の内面生活に立ち入らないかぎりは、緑の旗に属することだからであります……
 心の奥底に、あなたがたはすべて、この緑の旗を感じています。それは、単にエスペラントのしるし以上の、なにものかであると、みなさんは感じているのです。そして、毎年の大会に参加すればするほど、わたしたちはますます友好を深め、緑の旗の諸原則は、いっそう深く、わたしたちは心にしみこんでいくことでしょう。多くの人たちは、エスペラント運動に、単なる好奇心から、楽しみから、あるいは利益さえも期待して参加してきます。けれども、それらに人びとが、エスペラント国[・]に最初の訪問をする瞬間から、自分にいかなる意図があったにしても、かれらもだんだんに、この国の諸法別に引きこまれ、それに服するようになるのです。少しずつ、エスペラント国[・]は、将来同胞化せられた人類の教育の場となることでしょうし、ここに、わたしたちの大会の最大の功績が存することになりましょう」

 

 ケンブリッジでの大会後、サー・T・Ⅴ・ストロング氏を代表とするロンドンの市議会は、ザメンホフと大会全員を、有名な市庁「ギルド・ホール」へ公式に招待した。この広い大寺院を思わせるホールには、これまでにザメンホフよりずっと光栄ある客が、ひとりならず迎えられていた。外国の王様、凱旋将軍、共和国の大統領。古い会堂の高い円天井のもとに、いまはじめて、目的によって偉大な、天才によって偉大な、ただの目医者の、あの控えめだが非常に決然とした声が、ひびいたのである。かれは、いかなる力、武器によるいかなるたたかいも、讃美したのではない。かれは、愛国心と憎しみという、燃えつつあるテーマについて、微妙に、しかしはっきりと、エネルギッシュにさえ、敢然と話したのである。
「わるい愛国者どもだ」と、ザメンホフに従う者たちに対して、あらゆる国でショービニストの責めたてる声がやかましかった。それに対してザメンホフは、この厳粛な場所で、適切に答えたのである。もし愛国心が憎しみを意味するものなら、その攻撃はもっともであった。逆に、それが愛を意味するものとしたら、かれは衷心から抗議する。
 祖国愛、人類愛、家庭への愛は、互いにささえあうものである。けれどもあの、単に「異国間ばかりか、自分の国でも、人間に人間をけしかけてやまない」、不気味なデーモンたちは、愛の何たるかを知っているのであろうか。こういうたぐいの説教者たちから、ザメンホフは激怒して顔をそむける。

 

「おまえたち、不和の種をまく腹黒いものたちは、おまえたちのものでない、すべてのものに対する、憎しみだけを語るがよい。エゴイズムを語るがよい。しかし、『愛』ということばは、けっして使ってはならぬ、おまえたちの口にかかると、この神聖なことばも、けがれるからである!」

 

 このとき、かれの思いは、リトワニアの国ビャリストクヘ、夕陽が丘を赤くそめ、森の一線を黒くいろどるころ、散歩した少年の日の光景へと、舞いもどっていたのだ。妹といくたび花の咲いた草原を通って、さまよったことだろう。芳香、こん虫のブーンとなく声。たちこめるあかね色の光。村のはるかな鐘。かれらはすべてを愛し、自分のものと感じていたのだ……町では、四つの民族が、憎しみあっていた——

 

「おまえはいま、わたしの目のまえに浮かぶ、なつかしいリトワニアよ、子どものころ別れたけれど、いつも忘れることのできない、わたしの不幸な国よ。わたしが夢でよく見るおまえ、わたしの心のなかでは、地上のいかなる他の部分も、とってかわることのできないおまえ、おまえは、だれがおまえをより多く、心から、より真剣に愛しているかを証言するのだ。おまえの住民すべての友愛を夢みていた思想的エスペンチストのわたしか、それとも、かれらにだけ、おまえが属し、そして、おまえのほかのむすこたちは、よそものとか奴隷にみられるように願っている、あの者たちか!」