外面的には、ブーローニュの大会は、なによりもまず、宣伝を目的にした祭典であった。しかし、言語の普及に関しては、正式の集会がいくつも開かれ、興味ある討論が行なわれたのである。話し手の主張や答弁がよどみなく、軽妙にひびいた。中立の基礎を足場にして、みんなは、お互いに平等であり、自由であると感じたのだ。ほかの大会出席者がみんなそうであったように、ザメンホフも、このことに非常な感銘をうけた。かれがワルシャワにかえったときは、言語だけでなく、精神的にも、なんともいえぬ幸福な経験をしていた。
「多くの演説や討論を聞き、大会の全参加者の間の、完全なくつろぎと感動的な友愛を目にしたものが、自分でもなかなか信じられないほどだったのですが、これらの人びとはいずれも、ついきのうまでは、まったくお互いに知らぬものどうしだったのです。かれらを一致団結させたのは中立語で……そのやさしい学習が奇跡を生みました。そしてかれの生まれた祖国、言語、ないし宗教からだれをも引きはなすことなく、実に多くの民族と宗教の人びとに、最も平和的で誠意ある友好のうちに、みんなが生きる可能性をあたえたものなのです」
かれは思った。あの夢は、それでは実現することができるのだと。そして実際に、世界語の学習は、最も効果的な第一歩であることがわかったのである。
その冬、身近な事実が、それ自体雄弁で野蛮なコントラストをもたらした。ロシアと日本の両帝国が、戦争をしたのである。一方、ロシアの国内では民衆が、ツァール制の統治に対して、反抗を始めた。たくさんの、貧しい労働者たちが、ペテルスブルグの宮殿のまえで、政治の基本的権利に関する請願をしていた。近衛騎兵は発砲の命令をうけた。男、子ども、女たちが、雪の上に血まみれになってころがった。
西部および南部の諸州では、反乱はもはや民族的なものとなった。レット人、ウクライナ人、コーカサス人たちが、祖国の解放のために、たたかいを始めた。この危険を鎮圧するために、為政者が用いたのは、伝統的な方法、すなわち「Divide ut imperes」であった。異民族間の競争心を、かれらはすぐに利用し、特務機関をつかって、口翰を激化させた。いわゆる「黒百人組」は、警察におけるそれを目的にした一課であった。それはあちこちの町へ、よからぬ連中を送りつけ、ポグロムを誘発した。ワルシャワでは、ポーランド人の社会主義者たちが、武装した青年たちによって、あらゆる通路を守り、これを阻止した。恐怖は目前にせまっていた。リトワニアの国とオデッサでは、もっと容易であった。そこには、非常に大多数のユダヤ人が住んでいるのである。商店の破壊、強奪、虐殺が、やがて起こった。コーカサスでは、ほかの名まえをもつ民族、ロシア人とグルジア人、タタール人とアルメニア人の間に、同じことが起こった。
いまわしい光景である。ブーローニュとは、いかに違っていることか! 胸を押しつぶされる思いで、ザメンホフは、新しい一歩をふみだすべき、自分の義務を感じた。あのような策略に対して各民族は、自衛するすべを学ばねばならぬ。無益な競争をさけ、憎しみから解放されることを、学ぶべきである。かれはヒレリズムの題で、ユダヤ人に提案したものを、一般的に役だたせる決心をした。
どの民族のものであろうと、あらゆる人間に、かれはいま、呼びかけようというのである。どこかの国民であるということのほかに、かれらは、自分が人類人であることも感じるべきだ。それで、一九〇六年ペテルスブルグで、著者名なしで刷られた小冊子の題は、『人類主義[ホマラニスモ]』となった。その内容は、家庭、民族、人類間の関係についての、新しい教えであった。十二節からなる宣言が、その信条を形成していた。短いまえがきが、それを明らかにしていた。
「人類主義とは、こういう教えである。すなわち、人間をその生まれた国からも、言語からも、宗教からも、引きはなすことなくして、その人に、自分の民族的宗教的諸原則における、あらゆる虚偽や矛盾をさける可能性をあたえる。また、中立的人間性の基礎に基づき、相互の友愛、平等および正義の諸原則に基づいて、あらゆる言語や宗教に属する人びとと、意志を通じあう可能性をもたらす教えである」
このまえがきは、そのような友愛が可能であるということの証明として、ブーローニュ大会の経験を暗に示しているのだった。けれども、それは、人類主義とエスペラント主義とを、混同してはならないと注意している。
「この二つの思想は、たがいに、きわめて類似してはいるが、同一物ではない。人は、すばらしいエスペランチストであり、しかも同時に人類主義の反対者でもありうるのである」
そのためにこそ、ザメンホフは、その小冊子に公然と署名することをしなかった。混乱をさけたかったからである。この、一見して臆病なやり方は、非常にかれを苦しませた。一九一二年に、かれはエスペラントの事業における、公約な役目はすべて、自分から取り除いて、完全に自由の身となった。その後は、この冊子の新版には、自分の名を出すようになった。
東ヨーロッパでは、諸民族の間に、差別と憎悪の主要な要素が二つある。すなわち、言語と宗教である。ポーランド人はカトリック教徒で、ユダヤ人はユダヤ教徒であり、レット人はルーテリアンで、ロシア人はギリシア正教徒であり、アルメニア人はクリスチャンで、タタール人はマホメット教徒なのである。この相違を重大化するものは、異なったことばだけでなく、競いあう信仰もそうである。文学と教会には、民族感情が集中している。それで、ザメンホフの項目における主要な部分は、二つある。一つは、言語的政治的なもので、他は宗教である。
各自の家庭生活では、だれでも、気のむくままに、自分の母国語を話せばいい。ただ、それを他民族の人たちに強制することによって、かれらを困らせたり、侮辱したりしないように、ということである。集会の場合などには、エスペラントのような、中立語を使おうというのである。自分と同じ信仰をいだくものといるときには、伝統的に、または選択的にかれが望むような、それらの宗教的風習に従えばよい。けれども、別の信仰をもつものといるときには、ただ次の原則によってだけ、行動すべきである。「ほかの人には、あなたが、そうしてほしいと思うように、しなさい」
ことばの面で、国際語が気がねのいらない会合と友愛のための、中立の場を提供しているように、なにかそれに似たようなものが、宗教の分野においても、あってよさそうそうである。「神」あるいは、ほかの名のもとに、人類人たちは、あの、説明はできないが、多くのものによって、物質と精神の世界の、あるいは、他の人びとによって、単に精神の世界だけの、因果の原因だと感じられている、「力」を理解するとよい。かれらはけっして、だれかを、その「力」についての信仰が、かれらのいだくものとは、別のものだという理由から、憎んだり、あざ笑ったり、迫害したりしてはならないのだ。それと同じく、相手がだれであっても、言語や系統のことで、かれを非難するのは、ひどく野蛮なことである。人類人は、宗教が真に命じることは、各人の心のうちに、良心の形であるもので、たいせつなことは、お互いの尊敬と思いやりであると、自覚しなければいけない。宗教におけるその他のことは、ある人によれば、かれにとって強制的な神のことば、別の人によれば、人類の偉大な教師たちによってあたえられた注解、三人めの人によれば、人間によってうちだされた教訓や伝説ないし風俗の混合物、といったつけたしとして、見たらいいのである。
さまざまの色をしためがね越しに、人間たちは、一つの、同じ「力」を見ているのだ。ためにする説教は、自由にしたらいいだろう。しかし、人類人は、ほかの人に、自分の見たものの、民族的色彩を押しつけることがあってはいけない。知識人たちは、哲学者のように、他のインテリの違った信条を、尊敬はせぬまでも、大目にみていることが多いが、しかし、いろんな習慣のことになると、その衝突は、さらに重大なものとなる。
だからザメンホフは、単に思想的にだけではなく、中立的な「風俗」の基礎についても、主張したのである。東ヨーロッパの日常生活は、実際的な見方の必要なことを示している。事実がそれを要求しているのだ。公道にある石の十字架に十字をきるか、きらないか。強制的な祭日としての安息日[サバト]とか日曜日の、公式の強要。長いあごひげを、はやすかどうか。バイブルに手をおくか、それとも手を上げて誓うか。証言は帽子をかぶってするか、脱いでするか。こんなことは、いずれも、西ヨーロッパでは、たいへんおかしなことに思われるであろう。けれども、それが、東では、百年ものたたかいを引きおこしていたのだ。それは、すぐに、まるでののしるようにして、民族名をくちびるにのせるのである。
風俗や考え方だけではなく、申告でさえも、たいへんなものである。ガリシアでは、ユダヤ語は、公式の申告に、母語として示すことが、法律上できなかった。ユダヤ人は、自国語として、ポーランド語かドイツ語、またはウクライナ語を指定して、届けねばならなかったのだ。いろんな宗教によってしか、したがって、それぞれの民族を数えることは、できなかったわけである。ユダヤ教徒=ユダヤ人、ローマ・カトリック教徒=ポーランド人、ギリシア正教徒=ウクライナ人、プロテスタント=ドイツ人、ということになる。父祖伝来の信仰は、とっくにすてていたところで、人数のために、かれらは、みんな民族宗教に従って、届け出るのである。統計的、政治的な目的をもった、ひたすら民族的な見解ではある!
それでザメンホフは、申告についても、明らかな配慮をして、中立的な基本線を用意した。人類人は正直さになれるべきである。この冊子の最後のページには、志のある参加者のために、回答欄がつけてあった。次のような欄に分かれている。家庭、祖国、民族、母国語、自分の国語、信じている宗教。このような質問こそ、悩んでいる同民族の人たちを裏切ることなく、各人に対して、完全な真実を述べることが、できるようにすることであろう。
ザメンホフの親たちのことばはロシア語で、自分のはポーランド語だった。民族はユダヤで、宗教は自由信仰だった。このことを、人類人の申込書に明言することなら、できるのだ。しかし、これを帝国のパスポートに書きこむとしたら、かれはさっそく、一民族のものに数えられるであろう。ポーランドの圧迫者ロシア人か、それとも、ユダヤ人に対立しているポーランド人といっしょに。
それで、人類人の書式は、将来の国勢調査の質問事項にとっては、非常に実際的なモデルとでもいうべきものを、提示しているのだ。同じように、この冊子の十二の項目は、ほとんどみな、二つの効果をねらっているといえる。一面では、ただちに、個人の行動を指導することで、他面では、人びとの間の、より公正な法則のために直接指示をすることだ。ウィルソンのりっぱな十四条の原則は、要路にある外交官たちに、かれらは何をなすべきか、ということを示しているにすぎなかった。協定がくずれたら、その原則も、いっしょにくずれるであろう。書類の引きさかれたものが、緑のテーブルの下に、飛び散ることであろう。諸国がそれを拾い、各国はそれぞれ、新しい戦闘開始を正当化しようとして、自分の紙きれを、ふりまわすことになろう。
ところが、ザメンホフの綱領は、人びとをすぐに指導することができるし、そのあとでは、立法者にも影響することができるのだ。かれの十二項目は、平和のたねだけ、まくものである。それは、人類を一つの家族としてみよ、というものだ。この理想が、あなたの行動を支配するように。どんな人でも、民族によってではなく、その行動によって判断すること。国土は、一民族ではなくて、住民すべてのものである。あなたの民族語も、信仰も、ほかの人に強要しないこと。あらゆる民族名より優位に、「人間」の名をおくこと。愛国心とは、人間同胞のすむ郷土への奉仕であり、けっして他人への憎しみであってはならないのだ。言語は目的でなく、手段であるように。他民族のものとは、中立語を使うこと。あなたの信仰は、伝来のものではなく、まごころのこもったものであるように。ほかの信仰をもつ人とは、中立的人間の、協力的な倫理に従って、行動すること。人類人たちとは、分散ではなく統合的な感情を養うようにすること。
はじめの冊子でザメンホフは、人類人は、あらゆる国を、民族名でない中立の単語をもって呼ぶように提案した。カナダ、スイス、ペルー、ベルギー、のようにである。あるいは、接尾語-io「国」を首都の名につけて、ベルリン国、ペテルスプルグ国、コンスタンチノープル国というように。しかし、あとでは、この一節は実用的でないとして、けずったが。また、終わりの項目からも、多くを切りとった。はじめ、ザメンホフは、どの都市にも、人類人の寺院を建立することさえ、提案していたのである。参加者たちは、
「……そこでは友愛をもって、ほかの宗教の人類人たちと集会をもち、かれらといっしょに、中立的人間の風俗や祭式をつくりあげ、そういうふうにして、哲学的には純粋だが、同時に美しく、詩的であたたかな、生活を規則的にする、共同的、人間的な宗教を、少しずつ完成するために協力すべきであろう……人類人の寺院では、生や死について、わたしたちの『自我』と宇宙や永遠性との関係について、人類の偉大な教師たちの作品がきかれ、また、哲学・倫理的な会話や、精神を高めるような、気高い讃美歌などが、きかれることであろう。この寺院は、青年たちを真、善、正義、およびみんなに対する友愛のための闘士として教育し、かれらのうちに、まじめな労働への愛と、弁舌ばかりさわやかなことや、あらゆるあさましい悪徳に対する嫌悪の情を、つちかわねばならない。この寺院は、老人には心の安らぎ、悩める者には慰めをあたえ、良心の重荷を取り除く可能性をあたえねばならない、etc」と。
あとではザメンホフも、このような共同体をつくろうという提案は、いまある教会では自分の精神的満足が得られない、自由信仰家の間にだけ、限ることにした。かれの目的と希望によると、人類人は世界じゅうに、常に増加することであろう。コンスタントなコミュニケーションが、中立語、中立の風俗および宗教的諸原則の上に、かれらを教育するであろう。会合は多くなり、この波は流れてゆくだろう。影響はあまねく広がるだろう。少しずつ、破壊も侮辱もなく、まったく自然に、すべての人は、諸国民からなる人間の一大人民のうちに、とけあうことだろう。
この夢のために、ザメンホフは、全生涯をささげつくした。