ところが、いつの間にか「なかまの少女」は、その神秘をかぎあてた。コブノの商人の娘、クララ・ジルベルニクは、義兄のところで、ザメンホフに出会った。クララは気転がきいて、陽気で、エネルギッシュで、そうして親切であった。彼女は、ことば少なく、おどおどしているこの青年を、注意深く見守っていたのだ。広い額は清潔で考え深く、めがねの奥には明るくて深い視線がある。
ふたりの間に、愛が生まれた。ある日かれは、彼女にむかって、自分の二つの秘密を打ち明けた。クララは理解した。そしてかれと献身的な生活を共にする決心をした。
彼女には、生活の困難さが予想できた、だから、たいへん勇敢に行動したことになる。ルドビーコ・ザメンホフは、これより二年もまえに、医師の免状を得ていた。ところが、一八八五年から一八八七年の間は、当面の生計費を得ようとさがしたが、むだであったのだ。あっちこっちと、じゅうぶんの患者をうるためにさがしてまわるのは、とてもつらいことだった。最初はあまりはやらなかった。かれが控えめなことや、感じやすいことも、妨げになったのだ。貧しい病人たちから、ことのほか好まれるかれは、大きな金額をもうけることができなかった。ブロックでは、ある晩、金持ちの家に呼ばれたことがあった。寝ていたのは老婦人で、かたわらには三人の医者がいた。容体は絶望的だった。二日して、夫人はなくなった。このとき呼ばれていた四人の医師には、夫人の子どもたちから、高額の支払いが送られた。ザメンホフは自分の分を断わった。病人が死んだというのに、どうして金がとれよう。
リトワニアの小さな町、ヴェイセィエにいたときには、女の子の死に立ちあった。熱がこの子を焼きつくしたのだ。苦悩のあまり、母親はあわれ狂せんばかりであった。その後、何か月もの間、彼女の泣き声、うめき声が耳について、はなれなかった。ザメンホフは全科医をやめて、眼科専門になる決心をした。
そこでザメンホフは、ウィーンに出かけて行き、専門課程について眼科学を研究した。一八八六年の秋に、かれはワルシャワの家にかえり、ここで、眼科医として開業した。この冬、かれは許婚者[いいなずけ]と知りあい、そうして自分の著作を世に問うよう、励ましをうけたのである。
かれは何年もまえから、出版者をさがしてはいた。かれの努力は成功しなかった。だれも、自分の金で一か八かやってみようとは思わなかった。この点でも、かれは、世の中の金銭的な面での、苦い経験をしはじめたことになる。新しい責め苦が始まったのである。
しかし、かれの言語を発表することが急務となっていた。かれが、黙って、それを改良していた間に、コンスタンツのシュレィアー師の「ヴォラピュク」が、西方でもてはやされだしていたのである。その語彙はむずかしく、でたらめであった。長い間、ザメンホフは、この試みのことはなにも知らなかった。その評判がかれに達したとき、はじめはたいへん喜んだ。しかし、やがて確認したことは、この解決案そのものが、適当ではない、というものだった。そのうちに、ヴォラピュクの運動は、もう下火になりだした。多くの人たちが、がっかりして、この事業をはなれたのである。だが、その目的は正しいのだ、ということを、世間に示すのが急務となったのである。ただ、ヴォラピュクの体系がいけなかっただけである。言語は、ほんとに国際的で生きたものであるべきで、頭からこしらえるものではない。
すると、非常に協力的な人間が、そこへあらわれた。クララ・ジルベルニクの父親である。かれの娘は、その春ザメンホフ博士のフィアンセになっていた。この若い学者で理想家は、たいそうかれの気に入った。ザメンホフのプランについて、かれは尋ねた。これは、どえらい計画だ! 目的は気高い! かれ自身は、ただの商人であったが、思想には理解があった。金をもうけて、小金をためるのは、いったい何の役にたたせるためだろう? 自分より頭がよくて、人類にとって価値のあるひとりの男に、その道を進みやすくしてやるためではなかろうか。
多くの父親たちは、かれの立場にたてば、娘に意見をすることだろう。こういうばかりであろう。「金もうけのできる、現実的なちゃんとした男を選ぶんだよ、空想家はだめだ!」くちひげをひねりながら、かれらは、そのように話してきかせることであろう。ジルベルニクは、違っていた。「おまえのルドビーコは天才だよ」と、かれは言った。「娘や、おまえは神聖なつとめをもつんだよ。かげながら、わしもあの男の力になるつもりだ」
それで、この義父は、ふたりがこの夏結婚すること、そのまえに、かれの費用で世界語の小冊子も印刷できるようにすることを提案した。それは実行された。二か月の間、校正刷は検閲官のところにあった。さいわい、この人はザメンホフの父の知人であった。ついに、一八八七年七月十四日、かれは印刷人に許可を下した。この著書は、おそらく無害で、子どもだましのものだと、かれには思われたことだろう。著者は不安であった。一面では待ちきれなさが、他面では心配が、ザメンホフをいらいらさせた。
「出版を目前にして、わたしは非常に興奮していました。わたしはルビコンをまえにして立っているのであり、小冊子が世に出たら最後、その日からもはや、あとへ引くことはできないのだと感じました。人びとに依存する医者が、もしもこの人びとによって、空想家、『つまらぬこと』をしている人間、とみられたならば、かれを待っているのがいかなる運命であるかは、わたしにもわかっていたのです。わたしは、一枚のカードに、わたしと家族のこれからの安定と、生存のすべてを託しているのだ、と思いました。けれども、わたしのからだと血液にはいっている思想を、すてることはできなかったのです、それで……わたしはルビコンをわたりました」
このような日々を送っているころ、ザメンホフは、ごく短い詩を書いた。「ああ、わたしの心ぞう!」と題して。それは、階段を五階も駆け上がって、ドアのまえに立ちどまった人の、ハアハアという呼吸を、いくらか思わせるところがある。
ああ、心ぞうよ、不安げに打つな、
胸からいまとび出さないでくれ!
もう、立っているのも楽ではないのだ、
ああ、心ぞうよ!
ああ、心ぞうよ! 長年の仕事のはてに、
わたしは決定的なときに勝てないのか!
たくさんだ! 鼓動よ静まってくれ、
ああ、心ぞうよ!
最初の小冊子はロシア語で出版された。それからまもなく、ポーランド、フランス、ドイツ、イギリスの各国語版が、つづいた。いずれも、同一の序論、次のような国際語で書かれたテキストを含んでいた。それは、主の祈り、バイブルから、手紙、詩、十六か条の全文法、語根が九百ほどの対訳単語集などであった。それに、千万人が同じように約束したときには、学習をただちに始めることを約束するという、申込票がついていた。二ページめに掲げた宣言によって、著者はすでに、あらゆる個人的権利を放棄していた、というのは、「国際語は、すべての国語と同じく、共有物である」からである。この著書は「ドクトーロ・エスペラント」という、すてきな意味の匿名によって、署名がしてあった(エスペラント[・・・・・・]は「希望する人」を意味する)。
一八八七年八月九日、ザメンホフは結婚し、ワルシャワのプシェヤズド街九番地にある、たいへん質素なアパートに住まいをもった。かれは、ここで妻といっしょに、新聞雑誌や各国の有名人にあてて、冊子の発送を始めた。彼女は、あて名を書き、広告を新聞に出す手配もした。こうして、始まった共同生活の何か月かが過ぎていった。共通の理想をただちに種まくことによって、自分の愛を永遠にすることを知っているものは、幸福である。
この冊子は、どのように受けとられるのであろうか? 単に沈黙と忘却にしずむばかりだろうか? 人びとには、見る目がなくて、十年の苦心の結果も、読まれずに終わるのだろうか? 絶望的な疑いが、かれをおびやかすのである。こういうときには、信頼のほのおに、励ましの風を吹きつけるか、それとも、つまらぬ不平、泣きごとでそれを消すかは、女性の手に任せられていることが多いのである。このほのおを守りとおせたら、彼女は偉大である。
一つ、また一つと、返事がきはじめた。質問、助言、賛成、熱心な手紙。しかもなかにはこの新しい言語で書かれたものさえあったのだ。それは生きたものになった、使われたのだから。そのうちに、多くの参加申込者があらわれた。家族的なまどい[・・・]ができたのだ。ザメンホフの孤独は二重におさまった。
そのときから、熱心な同志たちに囲まれていることを感じるのは、かれにとって大きな喜びだった。この言語が、すでに仲間をもち、やがては自分ひとりの力で成長するようになるだろう、と思うことは、それにもまして、さらに満足な気分であった。かれの希望によれば、「著者はそのとき、舞台からまったく引きさがり、忘れさられることでしょう。そのあと、わたしがまだ生きていようと、死んでいようと、わたしが心身の力を保っていようと、失っていようと、この事業は、全然それとは関係がないでしょう。それは、ある生きた言語の運命が、だれかれの運命にまったく依存していないようなもの」である。
このように、かれが書いたのは、「第二書」においてであった。これは一八八八年のはじめに、もうこの言語だけで、刊行されたものである。たくさんの参加者たちと、ザメンホフは個別的には文通していた。しかし、ほとんどの場合、かれは同じことを何回もくり返さねばならなかったのだ。それで、かれは一般向きの冊子によって、まとめて解答をしたのである。
「人類に寄せる、わたしの深い信頼は、あざむかれませんでした」と、かれはそのまえがきで述べている。「人類のよき天才が目ざめたのです。四方八方から、全人類的な仕事に、老いも若きも参じています……男も女も、偉大な、重要な、そして有益な建設のために、急いで石を運んでいるのです」
ザメンホフ夫妻
新しい仲間たちは、ザメンホフとばかりではなく、お互いに文通していた。アントニー・グラボフスキーは、すでにゲーテとプーシキンの作品を訳していた。
一八八九年の十月には、最初の住所録が出され、各国にわたって千名の住所がのっていた。みんなが使っているうちに、この「エスペラントのことば」は、いつの間にか、ただ単に「エスペラント」と呼ばれるようになっていた。ニュールンベルクでは、レオポルド・アインシュタインと世界語(ヴォラピュク)クラブ全体が、エスペラントにのりかえた。かれらは、同じ年、「ラ・エスペランチスト」という雑誌を創刊した。これには、ソフィアとモスクワのグループのことが報じられていた。運動が国際的になったのだ。
同じころ、外的な事情からくるつらさに、博士はまたもや責められていた。患者たちは、かれの診察室につめかけてはこなかったのである。冊子を何冊か印刷するために、かれは義父から金をもらっていた。しかしザメンホフは、家計のことまで、世話になりたくはなかった。どうしても、生計費はかせぎだしたいと思ったのである。すでに、アダムとソフィアという子どもが生まれていた。妻はコブノの実家に帰った。この若い眼科医のほうは、また新しく、ほかの地方で開業できないものかと、さがすことにした。かれは黒海のほとりにあるケルソンで、いろいろ努力をしたけれど成功しなかった。一八九〇年三月には、ふたりとも、またポーランドの首都にかえってきた。
ここでザメンホフは、同志たちの願いをきいて、「ラ・エスペランチスト」誌の発行を引き受けた。ほとんどみんな、貧乏人であり、購読料を払ったのは、わずか百人にすぎなかった。そのうちに、かれは全精力と自力で出せる費用を、使いはたしてしまった。妻子をかかえて、かれはどうにも動きがとれなくなっていた。ちょうどまた、そのときに、衷心から愛していた母親が病気になったのだ。悲しみのために息がつまりそうだった。なにもかも、どす黒く絶望的のように思われた。運命はあがめている母親からも、生涯の目的からも、かれを引きはなそうとしている。たとえ、自分が消えてしまったところで、この言語は、やはり栄えつづけるだろう、とは考えていた。しかし、自分が中央機関誌の発行をやめてしまえば、まもなく、進展もすべて立ち消えになるだろう。「もし、幹が生きることをやめれば、」と、かれは最後の呼びかけで書いた。「あらゆる希望はなくなるでしょう。エスペランチストは、面倒をみなければなりません……わたしの状態は、どうにもならなくなっているのです」
すると、この語の最も高貴な意味における、味方があらわれた。働きもので控えめな測量師、W・H・トロムペータで、ベストファリアはシャルクの人である。エスペラントが発表された当初からのエスペランチストであるかれは、ザメンホフと、その目的の偉大さを理解していた。人類にとって、これほど重要な事業が、いまや大海にただよう木の実のようになっている。小さく、弱く、名もない存在なのだ。小波が沈めたところで、世間は知りもしないのである。しかし、もしそれに命があれば、小さな木の実から、いつかはきっとすばらしい植物が花ひらき、同胞となった人間たちの上に、いこいをもたらす青葉をさしのべるごとだろう!
木の実をたすけるのだ! トロムペータは決心した。自分の給料のなかから、金を出すことにしたのである。豊かではないが、名を秘して、これから三年間、雑誌を出していくために、なにがしかの金額を出すことを申し出た。編集人には、月給として百マルクをあてた。一八九四年までは、いのちが確保されたわけである。「トロムペータがいなければ、われわれの事業はまったく存在していなかったことでしょう」と、ザメンホフはブーローニュで語ることになる。「けっして自分のことは語らず、いかなる感謝も要求することのない」かれは、最も忠実で、誠意ある助言者であった。トロムペータは、天才をたすけるためには、自分に必要なものの一部すら、犠牲にすることを知っている、数少ない男たちのひとりであった。
ザメンホフは、そういうわけで、三年間は落ち着いて仕事をすすめることができた。しかし、新しい不幸がかれを見舞ったのだ。一八九二年の八月には、あんなにたいせつにしていた母親が死んでしまったのである。かれを元気な子どもに育て、少年のころ頭をなでて、かれを感じやすく人を愛するようにしてくれた、その人は、いまやいなくなった。この不幸は、ザメンホフに、いやすことのできない傷を残した。一八九四年には、物質的な問題が、ふたたび、急を告げてきた。家族を連れて、博士はグロドノに移住せねばならなかった。
かれは四年の間、そこに住みついていた。そこには大きな喜びと悲哀が待っていた。かれは青年時代ずっと熱心に、トルストイの新作を次々に読んできた。いまや、この偉大なロシア人の名声は、世界じゆうに広まっていた。トルストイは嫉妬[しっと]や暴力に反対するよう、人類に忠告していた。かれの気高い声は、すべての人間が愛と同胞化にむかうよう呼びかけていた。輝かしい小説家としての経歴がありながら、この金持ちの伯爵は、ザメンホフが幼いころからずっと、そのために生きてきたような理想に改宗した。貴族階級をはなれ、簡素にむかったのである.村びとたちが、かれの兄弟となった。諸国民や宗教団体に対しては、お互いの憎しみを非難した。
この人をおいて、ビャリストクの謙遜家と共感することのできる人が、ほかにあるだろうか? もちまえの臆病[おくびょう]で、ザメンホフはトルストイに対して、押しつけがましくする勇気がなかった。ただ、ほかへといっしょに、かれにも一八八八年に、あの小冊子を送ってはあった。返事はなかった。種は、それでも、まかれていたのである。六年たって、それは人びとのまえにあらわれた。民衆的なロシアの出版社「ポスレドニク」が、エスペラントに関心を示し、この有名な思想家の意見をもとめた。「六年まえ、エスペラントの文法、辞書、それにこの言語で書いた文章を受け取り」と、トルストイは返事をした。「わたしは、二時間かそこらやってみただけで、書けないまでも、このことばで、自由に読むだけのことは、もうできるようになった……わたしは、相互理解にあたって、資料不足という障害があるばかりに、人びとがいかに非友好的な態度をとるものか、何度も見てきた。エスペラントの学習と普及とは、したがって、疑いもなくキリスト者的なことであり、人生の主要にして唯一の目的である、神の国の創造をたすけるものである」(ヤスナヤ・ポリヤナにて、一八九四年四月二十七日)
このようなことばは、大きな励ましをあたえた。この手紙は、「ラ・エスペランチスト」誌に発表され、熱情をかきたてた。それからのちにも、一八九五年の第二号には、トルストイの「信条と英知」の翻訳がのせられた。そのために、ロシアの検閲は、この雑誌の帝国内へのもちこみを禁止した。ひどいしうちである。というのは、ここにその雑誌の購読者の大部分がいたからだ。発行は停止せざるをえない。官制の巨象が、ただの小ネズミをふみつぶしたまでだ。だが、そのようにして、エスペランチストたちのきずなが、たたれたのだ。悲しみと暗闇とが、この小さな集団を押しつつんでしまった。それはザメンホフもまた、生活の苦労にあえいでいるときであった。
別の土地で、さいわいにも、まいてあった種が成長していた。同じ年の十二月には、もう「国際語」誌が発行されたのだ。ウプサラ・エスペラント・クラブが、スウェーデンでこの雑誌を出すことにしたものである。これからあとは、エスペラント運動全体が、とまるようなことは、もはやなくなった。