母親から長いくちづけをうけて、学生はモスクワへ出発した。広大な都会。充実した大学。クレムリンの塔は輝き、街には雪が白い。そりが走り、鈴はシャンシャンと鳴る。毛の長いウマが急ぐ。どこへ行っても、生活はにぎやかで、はつらつとしている。
青年の暮らしは貧しかった。家庭教師をして、いくらかのかせぎはあった。だが、若いユダヤ人には、教える口すらも見つけるのがむずかしい。またかれは、「モスコウスキエ・ビェドモシティ」という新聞に、寄稿したこともあった。うちでは、両親が、どうなることかと心配していた。「月に十九ルーブルしかいらないのです」と、かれは両親を安心させるために書いてやった。しかし、どうして食べていたのだろう!
かれは、心をこめて医学の研究をしていた。かれも解剖実習室で、死体に身をかがめるようになっていた。かれは身につまされる思いで、人体内部のメカニズムをあばいていった。ここでも、かれの夢はついてまわる。人間はみんな、似たようなものではないのだろうか。同じ器官をもち、同じ要求をもち、一生同じ心配や欲望をもっているのだ。ことばや皮膚の色が違うことは、それを変えるだろうか。民族間の無知は、なくなるべきであろう。
ザメンホフは、しかし、あの約束は守っていた。「人類のことを考えるのは、四、五年待ちなさい!」という父の忠告が耳についていた。しかし、心がたいへん空虚で、つらかった。理想とする目的がなくて、どのように生きたらいいのか? かれの同情心は、同感すべき材料をもとめていた。それは、このとき、ユダヤ人の悩みにむけられた。新聞の読みものが、かれを注意させたのだ。シオニストの復活が、かれをひきつけた。かれの属する民族も、ほかの民族と同じく、認められ、尊重される権利があるのだ。どういう理由で、ユダヤ人だけが、自分の国籍を隠したり、恥ずかしく思ったりしなければいけないのか? かれらにも、独自の文化的中心地をもつ権利がある。モーゼの子孫たちは、いたるところに、散らばっている。不幸にあえいでいるものが多い。ギリシア人の青い海のかなたには、古代のパレスチナがある。労働、集結、忍耐の意志は、奇跡をもたらすことだろう。いつかは、そこ、予言者たちの地に、ユダヤ人の新しいふるさとができることだろう。学校、会議場などが、開かれることになろう。植民者たちが、まわりに住みつくのだ。このようなプランは、公明正大そのものであった。散り散りになった人民は、希望をとりもどすべきである。ずっと幼いころにも、ザメンホフは、ロシア語で詩を書いていた。ユダヤ人にあてた詩を、かれは、いまルスキ・イエブレーに発表した。
自由の祭壇へ、同胞よ、さあ急ごう!
わが家を建てるために、みんなれんがを運ぼう。
たとえ多くのものを風、水、無知が流しても、
きみの種や労働は、大地の下になくならぬ。
目をさませ、打撃になれた民衆よ、
こんなとき、眠っているのは恥だろう。
大衆の強い波によって
われらは、生命に旗をふろう!
金持ちが黄金のために
権力者の手に奴隷よろしくキスしても、
われら、貧しい者たちは、労働の賃金によって
手かせ足かせを打ちくだくのだ。
自由の祭壇へ、同胞よ、さあ急ごう……
青年らしい呼びかけは、雄弁にひびいた。けれどもザメンホフは、のちになっても、シオニストの間の指導者にはならなかった。ユダヤ人の功漬について語られる誇張はすべて、かれには苦痛であった。「すべてにまさって神聖な民族」という、常にくり返される言いぐさは、ほかの民族に対する侮辱のように思われ、かれの感情を害したのだ。ポーランド人、ロシア人、あるいはルーマニア人たちに対する、痛烈な非難は、かれの気に入らなかった。圧力をかける諸政府に不平をいうのは、かれにも正当なことと思われたけれど、各国民への憎しみは、そうでない。かれの同民族のものたちの間で語られる、ほんのちょっとした排外的なことばでも、かれを遠ざけたのである。
ユダヤ人たちも、他民族のことを、もっと身近に知ることが、非常に望ましい。かれらにとっても、国際語は早急に必要なのだ。かれらは、大衆と隠れた挑発者たちとの相違を見きわめ、他民族の歴史を知るべきであろう。ほかの民族も、やはり苦労をしたのだ。かれらをも権力者たちは圧迫したのだ、かれらをも少数の抜けめないやつが、搾取しているのだ。ユダヤ人は自分たちの律法を愛するがよい、その民族、そうして習慣を愛するがよい。だがかれらは、なにはさておいても、人類を愛し、そして同胞として、人類に奉仕すべきであろう。このように、この考え深い学生は感じ、自分の空想にもどってくるのだった。
例の「十九ルーブル」でさえも、月のはじめには、もうほとんどなかったし、また、それで足りるわけでもなかった。ザメンホフは、両親に仕送りを強いるのを、いさぎよしとしなかった。すでに二年は過ぎ去っていた。一八八一年の夏、かれは帰宅した。
ザメンホフは、ワルシャワの大学で引き続き医学の研究を続けることになった。愛する母親に、かれには、父親にした約束が耐えがたいことを話した。かれの生涯の目的は、変わっていなかった。人びとは、ふたたび同胞とならねばならない。国際語の書類や試作品は、どこにしまってあるのだろう。休みの間に、それらに目を通して、また、なつかしい仕事にもどれるのだ。
母は涙を浮かべ、青ざめてすわっていた。母はだまっていた。彼女の白い手は、大きなむすこの頭を、やさしくなでている。もう二十二歳にもなっていたのだ。ほんとのことを聞いたら、どんな気持ちがするだろう。ある日、夫が、むすこの原稿は、みんな焼いてしまっていたのだ。賢明できびしい父は、子どもかわいさのあまり、そうしたのである。かれは、それが、わが子を「救う」ことだと思ったのだ。母は、これまでにもう何度も、このしうちに泣いていた。いままた、涙が出てきた。母は黙っていた。
ルドビーコには、母の気持ちがわかった。悲劇はすべて、見抜くことができた。さっそく父親に、約束のことばを返してくれるように、頼んだだけだ。自由がほしかった。どうしても、なすべき義務が、かれを呼ぶのである。かれは、大学を卒業するまでは、自分の目的や仕事については、だれにも話すまいと、みずから約束するしかなかった。
書き物が失われたことは、事実上たいしたことではなかった。実際、かれは空でみんな覚えていたのである。熱心に、ザメンホフは自作のやりなおしをした。
一八八一年八月のノートには、一八七八年のものとほとんど同じ言語が、再現されている。それでも、その間の進歩はあった。ハイネの「夢に」という、美しいバラードは、ドイツ語から、次のように訳してある。
Mo bella princino il sonto vidá
Ko žuoj malseŝaj e palaj,
Sul dillo, sul verda no koe sidá
Il armoj amizaj e kalaj.
"La kron' de ta padro fio pu mo esté,
La ora, la redža ra sello!
La skepro diantiza, rol mo ne volé,
Tol mem koj volé mo, ma bella."
"To et ne estebla", ŝo palla a mo,
"Kor et si la tombo kuŝé mo
E koj i la nokto vioné mo a to,
Kor tol fe prekale amé mo!"
それから六年の間、自分のことばを改良したり、ためしたりしながら、ザメンホフは毎日励んだ。かれは、いろんな国の作家のものから、翻訳をした。原作も書いた。何ページか書いては、音読していった。理屈では、いいものに思えた多くの語形も、実用してみると、不便なことがわかった。重苦しいのがあるかと思えば、こちらはまた、音がきたないとくる。
「多くのものが、前後を切りおとしたり、入れ替えたり、なおしたり、根本から変形したりせねばなりませんでした。単語と語形、原則と実際面、これらがお互いに、ぶつかっては邪魔をしました。しかも、理論的には、みな別個に短期間試用してみたかぎりでは、それらも、まったくりっぱなものに思えていたのです。たとえば、広く使える前置詞je、融通のきく動詞meti、それに中立的だが一定している語尾のaǔ、その他、この種のものは、理論だけでは、とうてい思いつかないことでしょう。わたしには宝とも思われた、いくつかの形式も、さて実際に使ってみると、無用の長物なのです。そういうわけで、たとえば、必要でない接尾語のいくつかは、すてねばならなかったのです」(ボロブコへの手紙より)
この整理作業で、いくつかのラテン語の語根が、この言語からはずされることにもなった。たとえば、annoやdiurnoで、それぞれjaro(年)および、tago(日)に変わった。実際、-anoというのは、違った意味(一員、メンバー)の接尾語として、すでにあったし、また、別の面からいうと、ザメンホフは、同じ字が重なる単語を好まなかったのだ。Diurnoというのは、Ĉiudiurne(毎日)とか、diurnmeze(正午に)のような、合成語になると、とても音がきたなくなるし、これらはまた、ラテン語を知っているとかdiurneなどのフランス語の単語を知っている少数の識者にとってしか、事実は国際的ではないし、民衆からはけっして使われることのないものだ。ところが、tagoになると、何か国もの民衆に、日常の使用によって、少なくとも、すぐに見当がつくから、うんと国際的な単語といえる。同じように、ギリシア語から採用された、音のきれいなkajが、ラテン語の、eにとってかわった。eは文を混同せずに聞き分けるのに、あまり明瞭ではない。
ザメンホフのノートの扉
のちに、部外者が語彙を「完全に」しようとしたとき、かれらは、しばしば最初の形にもどるばかりであった。それは、もっと経験があり、より周到な男が、すでに歩いてきた道を、引き返しているにすぎなかったのだ。理論的にかれらは言った、「その形のほうが、こちらのよりも、たしかに科学的なのに」と。ザメンホフも、やはり同じことを、かれらよりさきに、気がついてはいたのだ。しかし多年の実用が、はじめの形ではとてもだめで、よりよいものによって、それにかえる必要を、かれにさとらせたのである。「天才とは長い忍耐である」というのは、ビクトル・ユーゴーが歌ったことだが、試作に試作を重ねながら、絶えまない推敲をした六年間は、そのことを示している。子どものころ、ザメンホフは音楽に熱心だった。かれはピアノをひき、歌うのも好きだった。それで、ハーモニーが、常にかれの嗜好[しこう]を支配していた。
言語を生かすためには文法書と辞書があればたくさんだとは、かれには思えなかった。文章のごつごつしたところ、重苦しいところ、これが、ひどくかれを悩ませていた。長いことザメンホフは、この言語がじゅうぶんには「流れ」ないといって、自分に不平をならしていたのである。そこで、かれは、あれこれの言語から、逐語訳をするのは、やめることにした。そして、新しいことばで、直接考えるように努力した。
だんだんに、それは自力で進みだした。軽くなった。スピードが増した。もはや、ほかの言語の影であることをやめた。それは自分のいのち、精神、それに独特の性格をもつにいたった。いまや、外部からの影響をやさしく払いのけ、それはもう、流れるようになり、しなやかで、優美なものとなり、そうして「生き生きとした母国語のように、まったく自由」なものとなったのだ。
このときが国際語の真の誕生であった。というのは、生命のない単語を収集しただけで、どうして人類の役にたつであろうか? たとえ九十人の学者が賛成したところで、それにどれはどの価値があるのだろう。みんな我田引水になるだろう。基礎が欠けていよう。なんらの共通の文体もないだろう。自由きままさを規制する、なんの習慣も存在しないだろう。それとは逆に、ザメンホフの忍耐と天才によって、この言語は、世に出たときには、すでに生きていたのである。自分のうちに、すでにある力をかかえこんでいたのだ。偉大な人間が使ってきたからである。文法と語彙は、それこそ科学的であり、それゆえ非個人的であった。語尾と小辞の選択や好みを別にすれば。しかし、結合する精神、文体の基礎は、すでに非常に個性的な手によって、封をされていたのである。その中に、ザメンホフは、自分自身から多くのものをつぎ込んだのだ。それによって、かれは新しい感情、新しい人間的なあこがれを、表現したのであった。
自分には控えめで、しかし目的に対してはねばり強いかれの人がらは、印象的だった。それは、たくさんの未知の心の夢を象徴するものだった。そのために、のちにそれが、この新しい言語における、執筆者たちの最初の仲間に、影響することになったのである。
国民文学は、戦争の詩歌によって始まるのが普通である。その文体と精神は、戦いをうたう有名な歌人がうちだす。ザメンホフの言語には、反対のことが起ったのだ。平和の歌声のうちに、それは人びとのまえに出て行ったのである。人間がふたたび同胞となることについては、先生[マイストロ]に続く者たちも書いた。
ザメンホフは、自分自身の心情をも表現した。六年の間、かれはひたすら沈黙していたのだ。それは困難な時代であった。だれにも、自分の仕事のことは、話さなかった。ひた隠しにすることは、苦しかった。それで、ザメンホフは外出をきらった。どこにも顔を出さず、なんにも参加しなかった。社交の集まりでは、自分がよそものの感じがした。そのようにして、人生の最も美しい年月である学生時代は、寂しく、苦悩のうちに、過ぎ去っていった。沈黙のうちにあった熱情と悩みとを、かれは当時、次の詩句に表わした。
わたしの思い
世俗はなれた野にあって、夏の夕ぐれ
なかまの少女は希望の歌をうたう。
また、こわされた生活を同情して語る——
わたしの傷はまた血を流して痛みかえす。
「ねむっているの? おや、あなたはなぜ、そんなにじっとしているの?
あら、きっと、なつかしい子どものころの思い出ね?」
なんといおう! 泣いてなんかいては、
夏の散歩のあと休んでいる娘さんとは話ができない!
わたしの思い、この苦痛、なやみと希望!
これまでに、どれほどの犠牲が沈黙のうちにおまえたちに
ささげられたことか!
もっていたいちばん貴重なもの——青春——を、泣いてわたしは自分から、命ずる義の祭壇にささげたのだ
火を感じる、心のうちに、生きたいわたしもねがう。
だが、にぎやかな友にまじっても、わたしをなにかが永遠に追いたてる……
もし、わたしの努力と仕事が運命の気にいらなければ、
すぐさま死よ来たれ、希望のうちに——苦痛なく!