それから四十年ののち、一九〇五年、ロシア軍人の暴徒は、最も恐ろしいポグロム——ユダヤ人の大量虐殺——をやって、ビャリストクを血に染めたのである。
「わたしが生まれた不幸な町の街頭では、野蛮な人たちがおのや鉄棒を持って、平和な住民たちにむかい、まるでもう野獣のように飛びかかっていったのです。住民の罪のすべては、これらの野蛮人とは違ったことばを話し、ほかの民族の宗教を信じているという、ただそれだけのことでした。これだけのことで、男や女、よぼよぼの老人、幼い子ども……などの頭蓋骨[ずがいこつ]をたたき割り、目をえぐり出したのです……
人びとはいまはまったくはっきりと知っています。悪いのは一団の憎むべき犯罪者たちなのだ。そいつらが、最もずるい、そして最も卑劣なさまざまな手段によって、そして大量にまき散らされたデマと中傷とによって、諸民族の間に恐ろしい憎しみを人工的につくり出すのです。しかし、もし各民族がお互いによく知りあっているならば、いかに大きなうそや中傷でも、どうしてあのような恐るべき結果をもたらすことができたでしょうか。各民族の間には、高くて厚いかべが立っているのです。そのかべが、互いに自由に意思を通じあうことを禁じているのです。ほかの民族に属する人びとも、自分の民族に属する人びととまったく同じく人間であり、かれらの文字も、なにか恐るべき罪悪を説くものではなくそれどころか、自分らと同じ倫理をもち、同じ理想を負うものだ、ということをみるのを禁じているのです。ぶちこわそう、人びとの間の壁をぶちこわそう!……」
ザメンホフは、一九〇六年になって、ジュネーブの大会でこのように演説した。これとほとんど同じことを、かれは、ビャリストクの気だてのよい少年のころから考えていたのである。同じ土地の住民たちの間の仲のよそよそしさを、かれは痛ましく思った。世界じゅうの惜しみを、かれは痛ましく思った。かれの、ものを思う幼い頭には、「もっとして」、自分が「おとな」になったら、この悪はきっと取り除こう、という計画と意志が、早くから形づくられていたのである。
高校生時代のザメンホフ(左側植木鉢によりかかっている)
いろいろのユートビア的な空想を、かれは、次々に投げすてていった。けれども、一つの重要なものが、かれにとって、常に考えてみるべきこととして残っていたのだ。それは、「一つのの人間のことば」という考えであった。「人びとの意思が通じさえしたらなあ!」と、ため息をつき、子どもながらに、全世界のためには、どの言語が採用できるだろうかと、あれこれあたってみた。ポーランド人はロシア語をきらうだろうし、ロシア人はドイツ語を望まないだろうし、ドイツ人はフランス語にがまんできないだろうし、フランス人は英語を受けつけないことだろう。では、どうしたらいいのだ? ただ中立語だけが、みんなを満足させ、侮辱もせず、妖妬も起こさせないだろう。このような国際語を、だれもが自国語のほかに学ぶようにすれば、かれらは、人びとどうしで、お互いに親しく知りあうことができるだろう。直接につきあうことができるだろう。隣の民族についての一般的な信条をきめるにあたって、政治雑誌や外交上の挑発を、盲目的に信用することはなくなるだろう。
ビャリストクの小学校から、両親といっしょに、ポーランドの首都ワルシャワに移ると、ルドビーコ・ザメンホフは、古典を勉強するために、ワルシャワの中等学校にはいった。官製の歴史も、かれのはっきりした理解力は、底の真相まで見通してしまった。教えることといったら、戦争や政治の駆け引きばかりだ。諸民族がお互いに知りあわず、お互いに憎みあっているのは、不幸なリトワニアの土地だけにはかぎらなかった。正体の知れぬ煽動が、盛んに入り乱れるのも、そこばかりではなかった。列強では、政府がそれをやっているのだ。何世紀もまえから、政府は、ある民族に対する世論をそのときの政策上の目的に合わせて、導くのを習慣としてきたのだ。大砲がつくられる間に、排外主義のジャーナリスト、弁論家、果ては詩人までもが、一般感情をつくるべく、すでに動いていたのである。
政府の手先は、いたるところで作り話、疑念、興奮などを広める。絵や印刷物によって、かれらは婦人の心を動かし、民衆の憤慨を呼びおこし、怒りさえつくり出したが——すべては、わずかばかりの土地や、アフリカの植民地を手に入れるためなのだ。戦争が勃発[ぼっぱつ]する。若い男たちがおびただしく倒れた。女たちは喪に服した。荒らされた村の住民は悲惨だ。平和になった。国家は自国民を十万人失い、五万の黒人を併合した。将軍は栄光に包まれ、太鼓がなり、音楽がひびきわたる。すばらしい偉業だ。敗戦国は同盟を願う。これで、いさかいもすんだのだ。これからは、いい面はかりをみて、罪はすべて忘れよう! ところが、昔の友好国は嫉妬して、「代償」を要求する。今度はこれにむかって、さあ進め、報道機関、そしてなにもかも同じように、また始めるばかりだ!……等々。
若者の天才的な頭脳には、この光景がめざましくも精細に、くりひろげられていた。ぶちこわそう、民族の間のかべをぶちこわそう! と少年のザメンホフは思った。かべは、日に見えない指導者たちの、手のうちにあるゆりかごなのだ。お互いが知りあわぬことによって起こる無理解は、なくならねばならぬ! それで得をしているのは、陰謀家ばかりである。国民はみずから、外政をコントロールせねばならぬ。かれらは、自分で他国民と関係をもたねばならぬ。事を好む少数者による独占は、なくならねばならぬ! 国民が無知なばかりに、かれらは全勢力を保持しているのだ。かべよ、倒れろ。かれらもいっしょに倒れるだろう。暗闇でしか、吸血鬼は生きられないのだ。太陽よ輝け。かれらは姿を消すだろう。
ザメンホフは熱心に、ギリシア語とラテン語を勉強していた。もうこのときから、かれには世界じゅうをまわって、人びとがこのような古代の言語を復活させ、共通の目的に使用するようにと、熱弁をふるって説いている自分が目に浮かんでいた。アレキサンダー大王の代には、すべての文明世界は、ギリシア語を話していたではないか? あの輝かしいルネサンスの数世紀にわたり、ヨーロッパでは学者や識者はみんな、ラテン語によって議論をしていたではないか? カルビンやエラスムスは、二十もの国民のために、ラテン語で本を書いたのではなかったか?
それにしても、ラテン語はむずかしい。用のない古くさい形にはみちていても、現代の表現には欠けている。夢のことばは、もっと簡単で、もっといまの用途に役にたたねばならない。それは知識人ばかりでなく、一般大衆によってこそ、すぐに学ばれ、また使われるようでないといけない。
終日あくせくしている労働者や、貧しい人びとのことを、中学生のザメンホフは、ますます考えるようになっていた。一家だんらんの席で、かれはゴーリキーの先師、ロシアの詩人ネクラーソフの詩句を、声を出して読むのが好きだった。苦労について、悩みについて、死と貧困とが連れだって踊っているわびしい家について、その大好きな作家は歌っていたのだ。一生の間ザメンホフは、働きものの民衆を愛し、上流社会を離れたこれら民衆のいる区域に住むのを好んだ。
これらの人たちが、けっきょくは、民族間の争いの場合、そのおもなる犠牲者となるのだ。殺しあいとなれば、かれらはいつでも、おのれの血と平安とを、まっさきに支払わねばならない。世界じゅうどこへ行っても、貧しい者たちは、平和と進歩にあこがれているのだ。かれらが夕方、疲れて灰色の家に帰るときには、その思いは光をもとめ、かれらの気持ちは海を越え、国境を越えて、わが手に兄弟のようにしてにぎるべき手を、思い描いている。「万国の労働者よ、団結せよ!」というのが、しばらくのちには、大衆のスローガンになっていた。だが、かれらの間には、かべが立ちふさがっているのだ、厚くて高い、主としてことばのかべが。ぶちこわそう、これらのかべをぶちこわそう!と、若いザメンホフは思いつづけた。人類の助けになる言語は、だれにとっても、やさしいものでないといけない。スピード、論理が、その基礎を支配せねばならないのだ。
そのころから、かれは人為的な試みによる、なにか新しいものをさがしはじめた。
言語は論理だけに基づいて、人工的に構成することができるであろうか。この青年は自問して、語彙の材料をさがした。たとえば、ba, ca, da, be, ce, de, ab, ac, ad, eb, ec, ed,といった、極度に短い小単語をつくって、これらに一定の意味を、かってにあてがうことにしたら、どうだろうか。これではだめだと、ザメンホフはすぐにさとった。このような単語は、かれ自身ですらも、学ぶことができなかったのだ。これらを覚えることは、人間のカを越えている。
言語が、みずから生きることを目ざすならば、それは生きた単語をもたねばならぬ。ヨーロッパの諸言語に共通することばの泉からくみ出す。これが解決である。ラテン・ゲルマン系の語彙が、いちばん国際的であろう。イギリス人、フランス人、スペイン人にイタリア人、オランダ人、ドイツ人、スカンジナビア人、さらにスラブ人さえも、そのなかの要素なら、おそらく、可能なかぎり多くを知っているであろう。horo(時間)、karto(カード)、vino(ブドー酒)、bruna(褐色の)、その他の単語なら、十三から二十もの言語に、同時にはいっている。語の選定は、あたかも多数決投票のようなものであるべきだ。しかし、人間の言語は、巨大な事象である。豊富な文法、部厚い辞書、何万という表現、これらが若いザメンホフをおじけづかせるのだ。どうやって、完成までこぎつけたものか?
あるとき、街で、さっとひらめくものがあって、かれを安心させることになった。「あるとき、わたしが中学の六学年か七学年にいたころですが、わたしはたまたま、それまでにもたびたび見ていましたシベイツァルスカヤ(門番所)という看板に、それからコンディトルスカヤ(菓子屋)という掛け看板に、注意をむけました。この——スカヤが、わたしをとらえ、そうして教えてくれたことは、接尾語は一つの単語から、ほかの単語をつくる可能性を与えるもので、これらを人びとは、いちいち学習しておく必要はない、ということでした。この考えが、わたしをすっかりとりこにし、わたしは急に、足が地についた思いがしました。あのおそろしく巨大な辞書の上に、光がさっとさして、それらは、わたしの目のまえで、みるみる小さくなりだしたのでした」(エスペラントの由来について、ボロブコにあてた手紙から)。
このときから、かれはいろいろの言語における接尾語と接頭語のシステムを研究することにした。なんという、豊かな泉だ! 成長と増加にとって、なんというすばらしい力であろう! 大多数の言語は、それらを盲目的に、無秩序に使っているのだ。この力のほんとに完全な、規則正しい活用によって、少数の語根から、まことに豊富な語彙が咲きほこることになるだろう。-ino(女性)、-aĵo(事物)、-isto(従事者)、-ema(傾向)、-igi(……にする)、-iĝi(……になる)、という接尾語だけでも、語彙を百倍にもするかもしれぬ。万という単語が、特に学ばなくても、ひとりでにつくられてしまうであろう。
学校ではかれの先生たちも、ルドビーコ・ザメンホフは注目すべき語学者だとみていた。ごく小さいころに、かれはもうフランス語とドイツ語をならっていた。中学の第五学年のとき、英語をはじめて学んだ。発音はむずかしく、つづりは不正確だ、しかし文章のなんという活力、スピードであろう! 文法は? 非常に少ない。ただ、いくらか不規則な古くさいものがあるばかりなのだ。豊かな言語は、そうすると、むずかしい格変化、人称変化、シンタックスなど、まったくいらないわけだ。動詞の時を表わすのには、いくつかの、いつも同じ指示語でじゅうぶんである。さらに、o, a, e, のような語尾が、動詞から名詞を、動詞から形容詞を、ほかのものから副詞をつくるのに、ただの接尾語みたいにして役にたてばいいのである。
<写真なし>
ザメンホフ(1878年)
ザメンホフ(1875年)
言語をしあげることとは別に、この年月のザメンホフは、同時にほかのことにも責められていた。母親は信仰が厚かったが、父親は無神論者だった。かれ自身は子どものとき、すでに宗教的信念をなくしていた。かれの論理は、かれが神父の教えを信じていることを、許さなかったのだ。ところが、十六のときに、かれは心が空虚で苦しんだ。人生には、なんらの意味があるのか、わからないのだ。なんのために、かれは勉強するのか? なんの理由で、自分は存在しているのだろう? 人間とは何か? なぜ、すぐに死なないのか? なにもかも、かれにはむなしく、いやらしかった。ザメンホフにとって、この時期は非常に苦しいものだった。当時の写真は、いくらか粗野でうっとうしく、この中学生の悲しみを表わしている。
内心の危機は、かれを救った。だんだんに、ザメンホフは自分自身のための真理を見つけていった。かれには、自然にはなんらかの意味があるのが理解できた。かれは人類的な目的への、よりはっきりした、高らかな呼び声を感じたのである。生と死について、かれは自分なりの信条を形づくった。十七歳になると、ザメンホフは新しい信念と、ドグマを離れた、心の幸福を獲得した。かれは、心のうちに、強力なインスピレーションを感じたのだ。まえより熱心に、かれはまた著作にかかった。このあとのポートレートは、目にあらわれた変化を示している。やさしさでいっぱいだ。
一八七八年になり、ザメンホフは、中学校の最終学年にいた。まだ、いまのエスペラントにはたいして似ていなかったけれど、そのころには、かれの言語の構想は、もうできていたのである。学友の幾人かは、かれの長年の労作に興味をもった。この人たちに、ザメンホフは喜んで、この新しいことばの手はどきをした。これほど簡単で、やさしいものとは、かれらのうち、だれも予想していなかった。熱心に、六、七人のものが、その体系をマスターした。
ノボリピエ街にある両親の家では、ルドビーコは一階に離れた自室をもっていた。そこに、友人たちが、好きなリーダーのもとに、集まっていた。みんなは、いっしょになって、人類がふたたび同胞となることについて、熱中したのだ。望みは高く、仕事は偉大だ。十二月五日、かれらはこの言語の開眼[かいがん]を祝った。母が心をこめてこしらえたお菓子を囲んで、ルドビーコは、熱狂する学友たちとすわっていた。はじめて、かれの「lingwe universala」(世界語)は話されたのだ。希望あふれる話がいくつかなされてから、かれらは友愛の讃歌をうたったのである。
Malamikete de las nacjes
Kadó, kadó, jam temp' está!
La tot' homoze in familje,
Konunigare so debá.
(諸民族の敵対心よ
たおれよ、たおれよ、時は来た!
全人類は家族になって
一致団結せねばならぬ)
一八七九年の六月、中学校の課程が終わり、学友はみんな、別れていった。かれらのいちばんの友だちの人がらが、とても強い印象を残していたので、かれらは、ザメンホフの考えを宣伝し、その新しい言語について、話すことを始めさえしたのだった。ところが、のちになってザメンホフが、さびしくも認めていたように、「おとなたちのあざけりに出あって、かれらはすぐに、この言語をいそいで否認しましたので、わたしはまったくのひとりぼっちとなりました」ということになったのだ。このようなことは、人類史の全体を通じて、偉大な精神にあっては、ほとんど例外なしに起こっている。わが家においても、ザメンホフは、もっとひどい打撃をうけたのである。そのころまで父親は、かれのしていることに、みたところは、不賛成ではないようであった。というのは、この少年は、試験はみんな、すばらしくよい成績であったからだ。しかし、中学校を卒業し、専門を選ぶ時期になって、危急の風が吹いたのである。
これまでにもしばしば、マルクス・ザメンホフの教授仲間や知人たちが、かれのむすこのことでは、かれに忠告してはいた。「ああいう、青年の頭にやどる固定観念というのは、気が狂うもとだよ。あれほどの才人を、妄想にふけらしておくなんて、惜しい話だ。あのままでいくと、いまに病気になるね」というように、善意の助言者たちはいうのである。
この少年の将来のことは、主として父親が心配していた。もしも、みんなが、むすこを不まじめな男、ただの「空想家」とみなすようなことでは、一生暮らすのに、どうしたらいいのだろう? 医者になることが、ロシア帝国内で当時、ユダヤ人に許されていた数少ない専門職の一つであった。夢のような話ではなく、役にたつ研究が、このとき、なによりも、急務となっていたのだ。そこで、ルドビーコは、たとえ一時的なものにせよ、世界語の仕事は放棄すると、約束することすら、せざるをえないことになった。この犠牲は、重くて苦痛であった。
そこには祭壇があった。テーブルの上には、字引、文法、詩、それに翻訳がいくつか、この新しい言語で書いてあるノートが、数冊のっていたのである。貴重ないくたの原稿、多年の思索と探究の成果なのだ。このすべてを、ささげよというのか? 父はそれを要求している。なにもかも、父のたんすに消えさってしまった。太い綱が、その包みを縛っていた。とびらがしめられた。