ザメンホフの生涯 (3)

第二章 ビャリストクの少年

 母から心、父から頭脳、土地から刺激。この三つが、主としてザメンホフの天才を形づくった。
 良心的な教育者であった父マルクス・ザメンホフは、そのころツァールの支配下にあったポーランドとリトワニアとの国境の町ティコチンで、一八三七年一月二十七日、ユダヤ人を両親として生まれた。はたちのとき、かれは、隣の町ビャリストクに私塾を開き、そこのユダヤ商人の娘、一八七三年生まれのロザリア・ソフェルと結婚した。生徒の数は少なく、夫婦の暮らしは、豊かではなかった。
 一八五九年十二月十五日、長男のルドビーコ・ラザロが生まれた。下に、男の子が四人と娘が三人できた。喜びは大きいが、世話もたいへんだ。そのうちに父は、官職を得て、国立中学校の地理と現代語の教師になった。一八七三年には、かれは家族を連れてワルシャワに移った。それからは獣医学校と実科中学で、ドイツ語を教えることになった。

 

ザメンホフの母、ロザリア・ザメンホフ

 

ザメンホフの父、マルクス・ザメンホフ

 

 子どもは大きくなるし、給料は足りない。家には、十五人から二十人もの寄宿生をおいた。その収入も、たいして足しにはならなかった。やがて、子どもたちは、父が生徒の作文をなおすいつもの仕事のほかに、また別の仕事をかかえこんだことを知った。かれは、今度は検閲の仕事を引き受けたのであった。父は毎晩ランプの下で、外国の新聞をどっさり広げた。それから赤鉛筆を手にとると、新聞を一つ一つ読んでいった。そういう、たくさんの仕事を頼まれたのは、かれは外国語が特別によくできたからだ。しかし、教育者の仕事のほうが、かれの性質にはぴったりしていた。かれはロシア語で、たいへん実用的な地理の教科書を、何冊も出していた。
 毎日、休まずに苦労して、この両親は、子どもたちには中学と大学の教育を、完全に施すことができた。三人はのちに医者となり、ひとりは薬剤師になった。
 父親は頭がよく、きびしかった。夢には疑い深く、それだけに仕事には頑固な男だった。かれには、宗教的信念はたった一つしかなかった。それは、日々のつとめに対する最も忠実なきちょうめんさということであった。
 母親はやさしくて、天使のような性質の人だった。親切で、感じやすく、なにかにつけてつつましい彼女は、子どもたちと家事のために、ひたすら尽くしていた。彼女は夫の知恵と正義には、盲目的に信頼していたが、それでも、かれが子どもを罰するときには、やはり制裁をやわらげるように、つとめていたのである。
 父の書斎から、かわいそうに小さな罪人が出ていくと、ほとんどいつでも、偶然のように、ひょっこり母親に出会う。自分でも、「きびしく」叱るもりだったのに、目には涙を浮かべて、かれの頭をなでているのだ。「父の手よりも、母のキスのほうが、確かにききめがあった」と、ルドビーコの弟のひとりが、何年もしてから、書いている。「だれかが、父の言いつけで、昼ご飯をもらえないでいると、家長が午後の昼寝をしているすきに、目には見えない天使が、年取った料理女の手を通じて、かれにもひとり分の食事を届けてくれるのであった。そうして、いつでも、これが『きょうかぎりのこと』であるのは、もちろんであった」
 こういう冒険は、しかし、いたずらっ子の弟や妹たちにだけあったことで、ルドビーコにはなかった。それは父も、家族のものも、かれをおとな扱いにしていたからである。賢くて、つつましく、考え深く、研究熱心で、けっして大声を出さず、ちょっと意地っぱりではあったけれど、かれはいつでも、人に迷惑をかけないようにしていた。学校では、早くも、非凡な学力と、文才を表わしはじめていた。教師たちも、かれには感心していた。仲間は、落ち着いた態度と、ていねいな作法のかれを、「男爵」と呼んでいた。だからといって、家や学校でにこりともせず、超然としているわけではなかった。幼児のときこそ、かれも顔色が悪く、弱かったけれど、いまではもう、活発で気さくな少年になっていて、ちょっとした催し物や遠足では、すばらしい世話役であった。遊びの大将、中心人物として、弟や妹、級友などが、かれをとりまいていた。ダンスがいちばん好きであったが、宿題のむずかしい問題についても、かれはとてもよく、みんなの相談にのっていた。
 かれは、母親からは、感じやすい親切心を受け継いでいた。そうして彼女を、ありがたい天使のように、あがめていた。病気がちの母を、見るものが心うたれるほどに気をつかって、よく看病した。そして、母のわずかな望みも、あらかじめみてとり、かゆいところに手がとどくように、その望みをかなえてやっていた。母親はかれを、もちろん、早くから、いちばんたいせつな宝とみなしていた。かれを、ひとみのように愛していて、この世にはどこにも、かれにまさるものは、存在しないというのであった。まことに、もっともである。母性愛にまさるものがあろうか。心痛にあってゆるがず、理解が深くて忠実な母の愛は、身を尽くし、尽くしつづけて死に至る……それからあとも、それは、まだ力になるのだ。
 むすこと母親の、このような愛情は、多くの天才たちにおいて、しばしば見られるものである。ポープ、ミュッセ、ラマルチーヌらは、みな母親をあがめていたし、母親に多くのもの負うていた。ザメンホフも、同じだ。母は、かれを理想家にした。そして、変わらぬ希望をもって、わが子の偉大さを信じていた。彼女は、この心のほのおを、神聖なランプのまたたくあかりのように、うやうやしく守っていたのだ。彼女は、ただの女であった。それだから、かれに、人間はみな兄弟であり、神のまえには平等であると教えたのである。

 

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ビャリストク、ザメンホフの街(もと緑通り)


 賢明な父は、夢からはなして、かれを現実に呼びもどした。少年は、ビャリストクの街頭で、自分のまわりのさまざまな事実をも見たのである。
 ザメンホフのいた木造の家の窓の外、緑街を一団のユダヤ人が、典型的な長いあごひげをはやして、通っていた……すると、雪投げのつぶてが顔に命中する。目の下にゴツンときた。頻に血が出る。老人はぼやく……「ほざくな、ユダっペ! イヌめが!」 キリスト教民族の男の子たちが、わめいては遠くへ散ってゆく。「フラ、フレ、フリ、フロ、フル」と、知りもしないユダヤ語をからかいながら。それを見て笑い、手をたたくのはロシアの中尉だ。「歩道から消えうせろ、きさまら、どろぼう人種め!……」と、軽べつのあまり、士官はつばを吐く。
 市場には民衆がうごめいている。足音や話声が、ガヤガヤとやかましい。かごや野菜の間の色彩があざやかだ。リトワニアの農村から来た女の、緑の肩かけ。ヒツジの毛皮。兵隊のグレーの服。ラクダの毛のマント。ロシアの役人の青い官服。白いバンド。赤いえり。金色のワシの紋章。銀ピカの飾りもの…… 女の物売りが、ドイツ人のひやかし客と口論する。人が駆けつける。やじうまが寄ってくる。憲兵がわってはいる。これに、女たちがリトワニアの方言で苦情を言う。警官にはわからない。「ロシア語で話すんだ! ロシア語でなきゃ、いなか弁はだめだぞ! ここはロシア人の国なんだ!……」と、その士官はどやしつける。群衆の中からポーランド人が抗議する……どこだ?……この男だ。かれは、憲兵たちにつかまってしまった。居合わせたものたちは、思わず身ぶるいをする。銃剣に囲まれて、かれは連行される。黙ってしまうのは村の人間だ。ポーランド人はみんな、礼をもって受難者を見送る。しかし、ドイツ人とユダヤ人は帽子も脱がない。「これであいつも、おれたちに悪口をいうのはやめるだろう」と、長いあごひげの男が、つぶやく。怒りが、ポーランド人の目にぎらりと光る。ロシア人の目にはあざけりが。
 この人たちは、お互いに、何を知っているのであろうか。かれらにも心があり、喜びも、苦しみも知り、妻と子どものいる家庭を愛しているのだということは? そんなことは、思いもよらない。あるのはユダヤ人、ロシア人、ポーランド人、ドイツ人ばかりだ……人間ではなく、民族しかいない。自宅には、だれでも、同民族のものしか、迎えないのだ。ポーランド人の娘が、ロシア人に将来を約束でもすれば、親にのろわれて、家から追い出される。リトーバ人は、「いや、たいしたいなかもんだ」と笑われる。かれらの詩や民族的自覚は? ポーランド人は、「ロシアの陰謀」だといい、ロシア人によると、「ドイツの買収」である。これ以上は、ことばがむずかしくて、もうだれにもわからない。ユダヤ人のことになると、つくろい物をするスラブ人の女たちの間で、日暮れの立ち話に、あやしげなミステリーめいた話がかわされる。「ユダヤの逾越節[すぎこしのいわい]がある二日前に男の子がひとり、いなくなったんだよ。ユダヤの教会堂のとびらにね、読めやしない字の下のところに、赤いしみがあんのさ。ぜんたい、あんなヘブライ文字なんか、だれに読めるってんだろうね。あれは気味が悪いからね……それにさ、あの教会堂の階段にいたユダヤ人たちなんだけど、目つきがどうも変だったよ。ユダヤ人だもの、秘密の儀式にいったら、血をとるのに男の子たちだって、殺さぬともかぎらないよ。そのために、パン屋がなにやら、妙なケーキを焼いてるっていうし……」そうして、うわさ話が伝わってゆく。あとから子どもは見つかる。ところがもう、あのうわさは広まっており、人の心に食いこんでしまっているのである。
 そのような、中傷を見て、ビャリストクの幼い少年ザメンホフは、憤りを感じるようになっていた。人びとが、こんなにいやなあやまちをしないようにするには、どうしたらいいのだろう。そういう思いこみや挑発から、いつかは、ほんとうの大破局が起きるのだ。