ザメンホフの生涯 (2)

第一章 リトワニアの諸民族

 東ヨーロッパと西ヨーロッパの中間に、リトワニアの国がある。ミツキェビチは「パン・タデウシュ」で、こう歌っている。

 

リトワニア! わが祖国よ、
リトワニア人が、健康に似たおまえの偉大な価値を知るのは、
おまえを失ってからだ。おまえの美しさをたたえ、
見、また描くのは、ふるさとが恋しいからだ……
ゆったりと、るり色のニェーメン河のほとりにのび広がる、
こんもりとした丘々、緑なす草原が……

 

 この豊かな土地には、アリヤン人種の最も古い一民族が、すでに何千年の昔から住んでいる。北部ではサンスクリットに近い、古代のリトーバ語が、いまなお話されている。昔ながらの風習や民謡は、なんとなく、太古のインドを思わせるような影響をうけて、神秘的な雰囲気[ふんいき]にみちている。
 このおとなしい民族は、十三世紀まではキリスト教にも接触せず、長い間平和に暮らしていた。外界からは、沼や、野牛がいまだに走っている大森林によってかくまわれている民衆は、神々の生きた神殿である巨大なカシの木の下で、大自然の力をあがめてきたのである。
 ところが、西方の意志と東方の忍耐とが、この地で戦端を開いた。中世には、チュートンの騎士がこの国を侵略し、ポーランドの貴族がここを自国領に結びつけ、モスコビアの皇帝はここを攻撃した。そのうちにも、迫害されているユダヤ人たちが、国王の招きに応じて、筋肉労働や商売をするために、全世界からくり込んできていた。こうして、非常に古いもう一つの民族が、この土地に新しいパレスチナを見いだした。かれらは都市を建設し、あるいはそこに住みついていった。
 ユダヤ民族は、工業と商業を同時にもち込んだ。しかしまた、独自のイディッシュ語、特有の信仰と安息日[サバト]、さらに独特の衣装までもち込んだのである。ユダヤ人というのは、常に迫害されているために、表には、親譲りの臆病[おくびょう]さを表わすが、内には、予言者の言い伝えに誇り高い忠節をいだいている。


義を知る者よ、
心のうちにわが律法を保つ者よ、わたしに聞け。
人のそしりを恐れてはならない、
かれらのののしりに驚いてはならない。
主のかいなよ、
さめよ、さめよ、力を着よ。
さめて、いにしえの日、昔の代にあったようになれ。
ラハブを切り殺し、
海をかわかしたのは、あなたではなかったか。
(「イザヤ書」五十一章の七、九、一〇より)

 

 リトワニア・ポーランド共和国が崩壊したのは、十八世紀の末であった。このときはすでに、リトワニアの貴族階級はほとんどすべて、ずっと以前から祖先伝来の言語をすてていて、心もことばもポーランド人となっていた。リトーバ語を使ってきたのは、北部の村びとたちであった。南部の人たちは、白ルテニア語を使っていた。ポーランド語は、城内やカトリック教会、ビルナの高等学校、それから上流家庭において聞かれた。都会ではドイツ人でさえ、独自の居留地をもっていたが、商店街では、主としてユダヤ語が話されていた。この雑多のところへ、ロシア帝国が十九世紀の百年間は、クマの手をのしかけていたのである。都市という都市には、どこへ行っても大ぜいの兵隊、将校、あらゆる等級のロシアの官吏がひしめいていた。宮殿にはロシア人の総督が住んでいた。町でいちばんの広場には、ロシア教会の金色の塔が輝いていた。
 ポーランド人とリトワニア人は、二度ほど武器をとって、外国の圧迫を払いのけようとした。一八三一年と一八六三年に、勇敢なる反抗者たちの血をしぼるような訴えが、全世界にひびいたのである。二度とも、勝利者の残忍な報復行為が、この国にますます重苦しく、下された。それどころか、ロシア語が学校で強制されるようになったのだ。
 ビャリストクの町のザメンホフ少年が六歳のときには、第二の革命が終わったところで、いたるところに、血、涙、とげとげしい感情を残していた。ロシア政府は、民衆の怒りをはぐらかすために、諸民族がお互いに反目して、たたきあいをするように、八方手を尽くした。「Divide ut imperes」(分割して統治せよ)が公式の体制となった。すでに各民族が、ほかのものたちから非常に離れて生活していたので、この種の煽動は、なおさら容易に行なわれたのである。物質的条件によっても、政府は民族の違いを激しくした。巧妙な法律によって村びとを、地主に対する奴隷状態から解放した。しかし同時に、自分の畑としては何も与えずに、かれらをほうり出したのである。それで、かれらは相変わらず自分の労働で借地料を支払わねばならず、金持ちの地主たちを、さらにねたましく思いながら、あくせくせねばならなかった。リトーバ人や白ロシア人は、いずれも農民であったのに、主人たちはポーランド人であったから、口論になると、たちまち民族感情を毒するのであった。
 そのうちに、この国ではリトーバ人の国民運動が復活し、その文学と独自の愛国心は熱烈に開花した。これは、まもなく猜疑[さいぎ]と嫉妬[しっと]のために、ロシア人が迫害し、ポーランド人の軽べつするところとなった。さらに悪魔的に狡猾[こうかつ]なのは、ユダヤ人に対するツァールの政策であった。ロシアのいろいろの地方から、ありとあらゆる法律や規則によって、かれらを西へ追いはらったのである。その目的はポーランドの諸都市をユダヤ人によってあふれさせ、レジスタンスを弱めることであった。むちで追われるヒツジの群れのように、何千という不幸なユダヤ人が、毎年ポーランドに住みついた。かれらはロシアで教育されたので、この国の習慣やことばには無縁であり、商売熱心で、飢え死にはすまいと悪あがきする。かれらは、ポーランド人社会からは、ロシア人に対する防衛の重大な妙害であるかのように、つまはじきにされるはかりであった。
 圧迫にあえぐ国民にあっては、絶えざる苦しみが、天からのインスピレーションのようにして、思想に対する最も強力な熱望を生むことが多い。ロシア政府によって、ビルナから追放されたリトワニアのポーランド人の詩人、ミツキェビチは、世界のすべての民族を救うため、自国の民衆が神聖になるように、天才的な呼びかけをヨーロッパじゅうにひびかせた。神秘家トビアンスキーとの不可思議な出会いよりもまえに、かれはすでに完全な救世信仰をポーランド人に説いていた。キリストが人間の罪のために十字架にかけられたように、ポーランドはわが身を引き裂かれて、諸国家の罪の償いをしたのである。しかし、この国にとっても肉体の復活のときが告げられようとしているのであり、そのときには地上に平和がみちはじめることであろう。

 

キリストが墓にうちかったように、
  ポーランドもよみがえるのだ、
永遠の正義のために人民を救い、
  かれらの盟約を固くして。
(ミツキェビチ)

 

 リトワニアの諸都市における、ポーランド人の集まりでは、このような希望でかれらの心がまた熱を帯びてきた。一方、離れ離れに住んでいるユダヤ人たちにも、メシア信仰の夢が感じられていた。外界から、さげすみ、反撃、苦痛しか受けないものは、自分自身のうちに、精神のためのなんらかの喜びをもとめ、わが身に対して、独自の内面生活を創造するものである。
 こうして、ポーランドおよびその付近のユダヤ人たちの間に、パレスチナの祖国と約束の地においてモーゼの一家がついに再会することに対するあこがれが、広まっていった。また、かれらの間には、神に選ばれ、受難によって未知の大きな任務にそなえられた人民という、ヘブライ人の神聖な役割に対する、ゆるぎない信念が支配していた。それはすでに、古代の予言者たちが告知していたことであり、うちひしがれた心には、希望する権利があるというものである。

 

すべてエルサレムを愛する者よ、
彼女とともに喜べ、彼女のゆえに楽しめ、……

 

見よ、わたしは川のように彼女に繁栄を与え、
もろもろの国の富を与える。……

 

わたしは来て、
すべての国民と、もろもろのやからとを集める。
彼らは来て、わが栄光を見る。
(「イザヤ書」六十六章一〇、一二、一八より)

ビャリストクのザメンホフ生家

 

 思考の大気のなかには、すなわち偉大なメシア的インスピレーションが飛びつづけていたわけで、それらは精神に種まかれたのであった。強烈なあこがれの、このような土地では、天才が最も恵まれて成長するものである。しかし大部分は、インスピレーションの最も高い意義が、大衆に理解されないために、種も砂中に失われてしまうのである。民衆にはっきり見えるのは、民族的な面ばかりである。
 ユダヤ人たちは、キリストを当時、単なる王様の候補者に引き下げてしまった。ただポーランド国家のことしか、ポーランド人たちは考えない。だから、ミツキェビチがロシア人にむかって、友好的に話しかけたときには、びっくりしてしまったのである。かれの、インド・リトーバ人の祖先からくる、人類愛の精神については、かれらはほとんど盲目であった。
 ヨーロッパでは、国家的な目的のために戦争が絶えなかった。いわく、イタリア解放のため、ドイツ統一のため。ロシアのツァールはコーカサスでは諸民族を圧迫し、バルカンでは支援した。かれをフランスの皇帝がたたき、これに今度はプロシア王が勝つ。ポーランド人の最後の反抗は、ロシアの将軍たちが血に沈めた。どこでも、戦争の技術は進歩を続け、民族的ないがみあいは鋭くなった。それでも、西ヨーロッパでは民族を分けているのが自然の境界であるのに、東では、かれらは、入りまじって生活しているのである。
 リトワニアの土地では、四つの異なった民族が、対立する目的、さまざまな言語、敵対する信仰をいだいて、町々に住んでいた。この通りからあの通りへと、不信、猜疑があふれていて、どの広場でもけんか口論は毎日のことであり、恨み、迫害、憎しみが絶えなかった。この不幸な土地にザメンホフは生まれた。民族的なエゴイズムを越えて純粋に人間的な世界観へと、その目がより深く見通し、より高く行き届いたような、この天才が、どの土地において、ここよりも自然に成長することができたであろうか。