ザメンホフの生涯 (14)

世界の人間像月報
エスペラントとザメンホフ
三宅史平

 一九六五年の七月三十一日から八月七日までの八日間、東京で世界エスペラント大会が開かれる。この大会は、一九〇五年、フランスのブーロニュー・シュル・メールで第一回大会が開かれてからちょうど六十年、回数にして第五〇回の記念大会である。
 二度の世界大戦のあいだと直後の数年とをのぞいて、毎年かかさず、各国まわりもちで開かれており、最近では、毎回四十数か国から二千五百から三千五百ぐらいの参加者があるが、東京大会は、東洋ではじめて開かれるものである。エスペランチストがもっとも多く密集しているヨーロッパから遠く離れているため、例年ほどの参加者は期待できないが、海外からの参加者五百人、国内から七百人、合計一千二百人という、最初のみこみ数の線はかたいようで、海外からの参加申込者は、十一月現在では四百五十人近くに達している。
 近年は、日本でも、毎年、いろいろな国際会議が開かれているが、どの会議でもかならずぶつかる困難に使用語の問題がある。多くの国際会議に共通の目的のひとつは、国際理解と国際協力とであるが、言語の壁のために、その目的を十分には果たせないのが一般の実状のようである。
 世界エスペラント大会の大きな特色は、この使用語についての困難のないことで、通訳もインターホーンもいらない唯一の国際会議である。数十か国から集まった数千人の参加者は、ただ一つの共通の言葉エスペラントだけで、おたがいによく理解しあっている。
 この大会の内容は、広い範囲にわたっており、専門、職業、趣味、宗教などの、いろいろな文科の会合が開かれるが、他にあまり類のないと思われることは、国際盲人大会や、幼少年のつどいまで開かれることである。
 幼少年のつどいは、六歳から十三歳までの子供の集会であって、例年は、各国から百数十人の児童が集まり、父母の参加する本会議の会場から離れた、別の会場に合宿して、エスペラントだけで、たのしく一週間をすごすことになっている。これらの児童の多くは「デナスカ・エスペランチスト」(生まれつきのエスペランチスト)と呼ばれるもので、普通、国籍の違う夫婦から生まれ、家庭用語としてのエスペラントで育てられたものである。
 科学者や医学者などの各専門分科会のほかに、大会の期間中、毎日、国際夏期大学が開かれ、自然科学、社会科学、文学などの専門学者による講演がおこなわれることも、この会議の特色の一つである。
 アメリカの言語学者マリオ・ペイ教授の著書には、世界のエスペラントの数を約一千万人としてある。エスペラントを学習したことのある人の数は、この数とあまりちがわないと思われるが、現在、実際にエスペラントを話す人の数は、だいたい、五十万人前後と推測される。この数はあまり多いとはいわれないが、数の不足は、組織の力でおぎなわれており、たとえば、世界の主要な都市約一千五百には、世界エスペラント協会の代表がいて、いろいろの調整や旅行の世話などをしているので、エスペランチストは、海外旅行をするばあいなどには、大きな便宜を得ている。
 エスペラントで書かれた文献の数は、今日では正確な数をつかむことはできないが、数万にのぼっていることは確実である。(文献ののうち、特に多いのは文学書であって、エスペラントの弾力性を利用した、各国の文学作品のエスペラント訳が、毎年多数出されている)
 エスペラントが人工語であるというところから、それを機械的な、ぎこちない言葉であろうという先入観を持つ人が多いが、エスペラントは、イタリア語に似た、ひびきの美しい、表現のニュアンスに富んだ言葉であって、作詩にも適しており、すぐれた原作詩や翻訳詩も、つぎつぎに出されている。
 たとえば、三十年ばかりまえに、ダンテの『神曲』の「地獄」篇の翻訳が出て、原詩どおりのテルツァ・リマの韻をふんだ、原作さながらの訳として高く評価されていたが、最近、別な人によって、「神曲」の全訳が完成し、ミラノのル・モニエ書店から、A4版七百十ページの豪華版として出版された。新訳では、テルツァ・リマの脚韻形式はあきらめてあるが、原詩と同じリズムの、内容的にも、ほとんど逐語的に訳した原作に忠実な、格調の高い翻訳である。
 この美しい国際語エスペラントを創造したザメンホフは、一八五九年十二月十五日、ポーランドのビアユストク市に住む、語学教師のユダヤ人の家に生まれた。その当時、ポーランドは、ロシア、プロシア、オーストリアの三国に分割されており、ビアユストク市は、ロシア領にあった。古くから知られた町であったが、ザメンホフの生まれたころは、新興の工業都市として発展をつづけていた。歴史的に見れば、ヨーロッパ中にひろがっていた産業革命の波が、ようやくロシアの防波堤を乗りこえようとしていたときであって、一八六一年の農奴解放をはさんで、社会には大きい混乱があった。
 この中に育っていったザメンホフは、さまざまな現象の原因を、そこに住む民族——ポ―ランド人、ロシア人、ドイツ人、ユダヤ人——の宗教と言語との相違に結びつけて考えた。そして、こうした異民族間の不和の根本的な原因をとりのぞく手段としての共通語の創造を思い立ち、それを生涯の仕事としたのである。
 ザメンホフは、エスペラント創造の動機をホマラニスモ(人類人主義)と名づけており、一九一四年四月になくなるまで、その精神をつらぬいた。
 ザメンホフの著書には、言語関係のもののほかに、『旧約聖書』、シェイクスピア『ハムレット』、シラー『群盗』、モリエール『ジュオルジュ・ダンダン』、ゴーゴリ『検察官』、ポーランドの女流作家オルジェシュコの大作『マルタ』、アンデルセン『童話』(全)、その他がある。
(日本エスペラント学会専務理事)