ザメンホフの生涯 (13)

第一二章 臨終の人

おまえは人類を完全に、美しく創造した、
だがそれは、たたかって別れてしまった。
民衆が民衆を残虐におそい、
同胞が同胞を山イヌのようにおそうのだ。

 

 これらの詩句が、ザメンホフの念頭に、こだましつづけていた。荷物もなくし、座席もなく、食べるものもなく、時間ばかり無限にかかる超満員の列車で、スカンジナビアからペテルスブルグを通って、ワルシャワへ引き返すのに八日かかった。妻もずっとそばにいた。彼女はいつも元気で、疲れを知らず、なにくれとなく気をつかってくれた。
 病気と悲しみで、かれは心ぞうを圧迫されていた。ザメンホフは、いまはずっと家にいたのである。かれは元気に歩くことも、楽に呼吸することもできなかった。あたりには、戦いがすさまじかった。大砲のとどろきが、どんどん近くなった。飛行船が市街に爆弾を投下した。それどころか、一つはジッカ街に落ちたのだ。しかし、かれが恐ろしかったのは、そのことではなかった。死を思うことには、もうなれていたのである。危険が何だというのか。さらにひどく、もっと痛ましいのは、おりから出された、ほえ立てるトラのように、いまやいたるところに野ばなしにされている、憎しみであり排他的熱情なのである。全世界は暗黒、虚偽、不道徳に、突然、おぼれてしまったのだ。この戦争によって、なにもかも毒されてしまった。そうして、罪なきものが苦しみ、大量に勇ましい戦死をした。
 ワルシャワでも、暮らしはいまわしいものとなった。ロシアの軍隊が市内にあふれていた。コサック兵が馬を乗りまわしていた。チェルケス人が、調子にあわせて略奪の歌をうたいながら、闊歩[かっぽ]していた。ポーランド人はふるえた、だが、もっとふるえあがっていたのはユダヤ人であった。かれらに対しては挑発がうずまいていたのである。かれらのことばはドイツ語に似ている。「スパイだ!」という。かれらは熱狂を外に表わさなかった。「国賊だ!」という。ロシア人の知事には、ユダヤの小売商人をやり玉にあげる匿名の手紙が雨とふった。多くのものが銃殺された。親ロシアのジャーナリストが、ザメンホフさえも「危険な国際屋」だといって攻撃した。わたしは、一九一五年の春、人びとの憎しみのために、心を引き裂かれ、病んで弱っているザメンホフに会った。かれは人類人大会を呼びかける草稿に、力を入れていた。
 全人類的な目的にだけ、自分の熱意をささげたいと思ったのである。全世界が、対立するショービニズムに怒り狂っているのに、かれは自己の理想に忠実であった。パリ大会の期間中のヘブライ連盟創立の集会に参加するのを、かれは断わっていたほどである。一九一四年六月三十日、それの組織委員たちにあてて、手紙を書いていた。

 

「わたし自身は、残念ですが、このことの局外に立っていなければなりません、といいますのは、わたしの確信するところによれは、わたしは『人類人』なので、特定の民族とか宗教の目的や理想に、自分を結びつけるわけにはいかないからです。わたしはナショナリズムはいずれも、人類にとって最大の不幸をなすものであり、すべての人間の目的は、調和的な人類をつくることだと、深く確信しているものです。被圧迫民族のナショナリズムは、——当然の自衛反応として——圧迫民族のナショナリズムよりは、許さるべき点が多いということは真実であります。けれども、強者のナショナリズムが気高くないものとすれは、弱者のナショナリズムは賢明ではありません。両者はお互いを生み、かつ支持するものです。そして、もしわたしたちのだれもが、党派的な自己愛を犠牲にして、まったく中立的な地盤に立つように努力しなければ、人類がけっしてそこから抜け出せないような、不幸の悪循環を表わすものなのです。
 これが、わたしの民族が悲痛な苦しみをうけているにもかかわらず、わたしがヘブライ人のナショナリズムとわたしを結ぼうと思わず、ひたすら人間の間の絶対的[・・・]な正義のために、仕事をしたいと思う理由であります。わたしは、そのこと[・・・・]によって、ナショナリズムの目的で努力するよりも、わたしの不幸な民族に、いっそう多くの幸福をもたらすことと、深く確信しているものです」

 

ユダヤ人に対する、戦時下の迫害や恐ろしい打撃でさえも、この見解を変えていなかった。けれども、それらの苦しみについてザメンホフが語るのを聞き、そしてそのための胸をさくような苦痛を見たものには、かれが超民族の理想に忠実であることの祭壇に、どんなに[・・・・]犠牲をささげたものかが理解できる。
 一九一五年の復活祭には、エスペラントの諸雑誌に、「外交界によせる手紙」を発表した。おそらくこれは、かれの書いたものでは、いちばん激しいものである。残念なことには、パリの幕和会議のときより三、四年、出るのが早すぎた。あとになると、それをまた印刷して広く知らせることは、だれも思いつかなかった。将来、ヨーロッパ問題を決定する人たちに対して、かれは予言的な呼びかけをもって書いていた。「あなたがたは、ヨーロッパの地図をむぞうさにつくりなおし、つくろうことをお始めになるのでしょうか。あなたがたは、Aなる土地はX民族のものであり、Bなる土地はYという民族のものであると、簡単におきめになるだけでしょぅか」
 ザメンホフによれは、ヨーロッパをひどい野蛮さから救うための決定が一つだけあるという。すなわち、次の原則を公式に宣言し、確定させることである。「すべての国土は、精神的および物質的に、そのむすこたちのすべてに、まったく平等に所属する」しかし、それを実現するためには、国家を民族名によるかわりに、中立的な地理上の名まえによって呼ぶ必要があるだろう。「ロシア」と呼ばれる国では、ロシア人がその所有者だと思っていたし、レット人、エストニア人、あるいはポーランド人などは圧迫されていたのだ。「ポーランド」という国では、ポーランド人が自分は主人だと感じているのに、ユダヤ人、ルテニア人、それからリトーバ人は、卑しめられて苦情を述べるのだ。いにしえの「セレニシマ(静謐[せいひつ]この上なきベネチア)共和国」では、いろんな民族が、この国名のおかげで、自分たちはいずれおとらず平等であると思っていたのである。同じように、「スイス連邦」「北アメリカ合衆国」「ブラジル」といった国名は、いかなる特定の民族にも、まるでその国が自分のものであり、ほかの住民は許容されている外人のようなものだとみなす権利をあたえない。だからザメンホフは、この間題が重大であることを主張したのであり、接尾語-io(国)をともなう中立的な国名について自分が考えていることを、ふたたび述べたのであった。
 結論としてかれは、国際的な保障のもとに、次のような法律を確立するよう、外交官たちに提案したのである。

 

「第一。いずれの国家も、精神的および物質的に、本来のまたは帰化したすべての住民に、かれらの言語、宗教、ないし想像される民族系統がいかなるものであろうとも、所属するものである。どの国においても、いかなる民族のもつ権利および義務も他の民族のそれより多くても、また少なくてもいけない。
 第二。国民にはすべて、その欲する言語ないし方言を使い、欲する宗教を信じる完全な自由がある。ただし、一民族のために特別に指定されたものでない、公共機関においては、国民一般の承認によって国語として受け入れられた言語が、使用されねばならない。特に地方的な性質をもつ政治的な施設においては、市民の九割をくだらないものが、それに同意をあたえた場合には、国語のかわりに他の言語が使われてもよい。ただし、国ないし市の言語は、被支配諸民族が支配民族に負うところの屈辱的なみつぎものとしてではなく、単に少数派の多数に対する自発的な便宜上の譲歩としてのみ、みられねばならない。
 第三。ある国でなされる、あらゆる不正行為については、その国の政府が、ヨーロッパのすべての国の協定によって設立される、常設の全ヨーロッパ裁判所に責任をとる。
 第四。各国および各地方は、ある民族の名まえではなく、すべての国の相互協定によって受け入れられた、中立的な地理上の名まえしかもってはならない」

 

 将来、戦争にいいかげんうんざりしたら、いつかは、これらの諸原則が、おそるべき状態からの、ありうべき救出法として、切実にもとめられ、研究されるときがくるであろう。そのときには、これらがすでに一九一五年に、ルドビーコ・ザメンホフによって提案せられていたことに、人は驚くことであろう。

 

 一九一五年七月一日の夕方、ワルシャワ周辺の空は赤々と燃えていた。ロシア人たちが、退却しながら、いたるところで穀物を焼いたのである。こがね色のコムギ畑は、いまや果てもなく、この夜ほのおとなった。早朝には、ドイツの連隊が足並みそろえてはいってきた。一年以上たってから、ポーランド臨時政府がプロシア人の将軍のかたわらにできた。そのときも、軍人たちはユダヤ人をいやがった。やせて貧乏で、農園にも無力なかれらは、兵隊としても、食糧供給者としても、つとまらなかった。商人たちは、競争ばかりしていた。ボイコットと憎しみが、民族間に増大した。貧窮、飢え、寒さが街にあふれていた。子どもたちがたくさん死んだ。女たちは長い列をいくつもつくって、スープ配給所まえの歩道で待っていた。パンは足りなかった。
 ザメンホフには、それよりも、空気が足りなかった。かれを救うために、妻はザクセン公園のそばに、住居を移させた。クロレフスカ四十一番地で、最後にわたしがザメンホフに会ったのは一九一六年の十二月であった。ザメンホフは低い声で話した。つらそうに呼吸をしていた。むすこのアダムが、ジッカ街で眼科医になり、かれの代診をしていた。しかしザメンホフは、自分がそこの貧乏人たちから離れたことを残念がっていた。かれらのなかにいるとはじめて、くつろぐことができたのだ。弟のアレクサンドルは、遠いところで死んだばかりであった。娘のソフィアは、医者になってハルコフにあった。戦争で手紙はもうこなくなっていた。悲しみがかれを打ちひしいだ。エスベランチストがたくさん死んでいくので、父親のように苦しんだ。「なぜ、わたしでなくて、かれらが?」——と尋ねた。若くて熱心なボリングブローク・ミューディのことは、夜、マントルピースのまえで、しばしば口にした。四方の壁には、ブーローニュ、ケンブリッジの大会、楽しかった日々の記念の数々があった。またそこには、年老いた忠実な友、モシェレスの肖像もあった。
 ザメンホフはいまなお、人類人の思想を研究していた。「これは、わたしの生涯の目的なんです」と、かれは目を熱心に輝かせて言った。「そのためなら、なにもかも犠牲にしてもいいのです。こんなに弱って、世の中から切りはなされて、ここで何もできなくなっていなければいいのに! と思います」かれは死を予見していた、それでその仕事が強力に呼ぶのを感じていたのだ。その事業の基礎だけでもつくっておきたいと思った。あとになれば、それを世界に広める助力者は出てくることであろう。苦しんでいる人類は、統一にむかってその助力が必要なのだ。

ザメンホフ(1917年)

 

 すでに一九一四年の秋には、スイスのウールマン博士に手紙を書いていた。「いま、人間の間で、このような大殺害をやっている恐ろしい戦争は、わたしが、これまでの不成功をもかえりみず、人類人の大会をどうしても開催する努力をするように、わたしをかりたてるのです」しかし、戦争は長びいていた。だんだんに、かれは新しいプランを考えだした。中立的な人間の宗教のための、広範囲な世界大会を計画したのである。だがそのまえに、もっと小さな、準備集会を招集する必要があるだろう。それには、エスペラント界の内外から大学教授が招待されることになるだろう。
 その集会は、スイスのある町で「一九一六年十二月の下旬に開かれるだろう」と予告のある回状を用意した。しかし戦争は続いていた。原稿には、その日付が消されている。ザメンホフは、こう書き換えたのである。「一九一七年八月上旬に」と。三月になっても、戦争は相変わらず続いていた。果てしなく? いつかは、平和をみるときがくるのだろうか。さらに訂正されて、鉛筆書きのそれは、悲劇的にもふるえる手つきで、次のようになっている。「戦争が終わってから」と。
 戦争は終わらなかった、だがかれの、善良で純な生命のほうが。呼吸するごとに、苦しくなっていた。横になることができず、すわるか立つかしていなければならなかった。血を見ずに起こされたロシア革命は、かれに新しい希望をあたえた。ザメンホフは、その広大な帝国の諸民族を愛していたのである。かれらは、このはじめのように、仲よく、無血のまま、ずっと続けて自由になるすべを知っているのであろうか。
 春になった。ザメンホフは多くのことを考えつづけ、急いで書いていった。新しい人類が組織されねばならないのだ……だが、この不眠は、なんと疲れさせることだろう! むりやりにすわっていることは、なんと苦痛なものであろう! 鼓動のなんと苦しいことだろう!

 

ああ、心ぞうよ、不安げに打つな、
胸からいまとび出さないでくれ!
もう、立っているのも楽ではないのだ、
  ああ、心ぞうよ!

 

 二、三分でもいいから、眠って休めたら! ある日、医者はしばらく休んでいいといってくれた。一九一七年四月十四日であった。かれは長いすに身をのばした。妻は先生を戸口まで見送っていった。ザメンホフは、いままでより気分がよくなっていた。ついに、あれほど望んできた、わずかばかりの休息!……ところが、もう息がつまりだしたのだ。かれは呼ぼうとした。その声は、のどでつかえた。そこへ妻がかけつけた。彼女は、すわり直させてやった。ああ! すでに人類のためにあれほど強く打っていた心ぞうは、打つのをやめていた。すでにかれを自由にする休息がきていたのである。

 

ああ、心ぞうよ! 長年の仕事のはてに、
わたしは決定的なときに勝てないのか!
たくさんだ! 鼓動よ静まってくれ、
  ああ、心ぞうよ!

 

 雨の降る、薄暗い、寒い日に、ワルシャワのエスベランチストたちは、墓地までひつぎについていった。詩人のベルモントが悲しく歌った。

 

ポーランドはこなかった、ポーランドのむすこ、世界的賢者のなきがらをとむらいには……
ああ、わたしのなかでポーランド人の心がどんなに血を流したか……
貧しいユダヤ人がひつぎについてきただけだ
親切なかれらの目医者さんが死んだので。

 

 毎年の大会で、その代表者たちが、かれを歓呼で迎えた。あの、広大な家族的なまどいには、たくさんの国境が閉ざされていたのである。ただ、わずかばかりのポーランド人、グラボウスキー、ベルモント、それからドイツ人の艦長ノイバートなどが、かれを愛し、そうして世界じゅうで泣いた、各国にいる民衆を代表して、お別れをのべることができただけだった。政府からは、だれひとり、なんの勲章もなかった。ただ民衆が、あのユダヤ人居住地区の、へりくだった患者たちが、仕事着のままで。多くの若者が感謝の気持ちで。たくさんの男女が心をうたれていた。
 近くの村人に囲まれたトルストイの埋葬のように、それは最高の、最もふさわしいシンボルであった。実際、ひとりの人間、五十七歳の男、貧しい眼科医が死んだにすぎなかった。しかし、その偉大な作品は残っている。純な心からくる、インスピレーションもまた。それは死ぬことができないのだ。支配者は消えるだろう、かれを無視した小さな偉人たちも消えるであろう。けれども、かれの考えた種は、永遠に生きて、いたるところで成長してやまぬであろう。すでに何万という人間が、かれの名を神聖なものとした。いつかは、全人類が、友愛によって平和をふたたびもたらす指導者だと、かれを認めることであろう。
 かれの机には、鉛筆で書きかけた、絶筆がのっていた。それは霊魂不滅について書く文章のプランであった。全生涯を人類統一の理念にささげた、人類の偉大な友、その人自身は何を信じていたのだろう。いったい、かれの信念の奥底はどんなものであったのだろう。死後の、ままならぬ事がらについて、かれはどのように想像していたのだろうか。自分の人がらについては、黙っているのが常であった。かれの近くにいた人でも、答えることさえできないであろう。かれらにわかっていたのは、どのようにして、かれは暮らしていたか、ということだけであったのだ。それは、親切で、きれいで、控えめで、助力的で、犠牲的で、だれとでも驚くほど忍耐強く、だれに対しても行為やことばによって侮辱することがけっしてなく、常に思いやりをもってほかの人びと、たとえ退屈な人びとにも耳をかたむける、というものであった。妻、兄弟、むすこや娘たち、めい、友人、患者、すべての人に、かれは神聖な人のようにうつっていた。苦しいときには、みんな助言をもとめて、かれのところへ来るのであった。「あの人は罪を犯すことがなかったのですよ」と、ポーランド人の年老いた女中が、彼女の十字架像の下にかけてある、かれの肖像をさしながら、言った。有名人で、その召使たちの目にも、偉大な人として残った人が、どれだけあるだろうか。
 四ページある紙に、かれは内心の告白を書きかけていた。死が中断したのだ。三ページほどに、ことわり書きがしてある。専門家でもないのに、このテーマについて書くことで、かれをとがめないように頼んでいるのである。おそらく、人は、かれも年をとったのではじめて、信心を思いたったのだと、ほかの人についてのように、いうことであろう。あらかじめ抗議するように、かれは書いている。

 

「わたしがいま書くことはみんな、わたしの頭にいま生まれたことではなく、四十年まえ、十六から十八歳のころのものである。そのときから、深く考えたり、いろんな科学や哲学の書物を読んできたりしたにもかかわらず、神や不滅についての、当時のわたしの考えは、ほとんどまったく変わらなかった」

 

 それでもかれは、この文章が、多くの人にたいへんきらわれるであろう、ということを予見してはいた。

 

「科学界で、あらゆる尊敬を失うと同時に、信仰者の世界でも、それをつぐなう、なんらの同情も、わたしは見いだせないであろうし、おそらくは攻撃されるばかりであろう、というのは、わたしの[・・・・]信念は、かれらの[・・・・]ものとは、全然別種であるからだ……黙っていたほうが、賢いのであろうが、しかし、わたしにはできない」

 

 四ページめは、書きだしたはかりであった。ほとんど読めないような筆跡である。


 
「わたしの母は宗教の信仰者で、父は無神論者であった。子どものころ、わたしは神、そして霊魂不滅を、わたしの生まれたときからの宗教が教えているとおりに、信じていた。わたしは生涯のいくつの年に、信仰をなくしたものか、精確には覚えていないけれど、しかし、わたしの不信が極度に達したのは、十五―十六歳のころであったことは覚えている。それはまた、生涯でいちばんつらい時機であった。生きていることが、わたしの目には、あらゆる意味や価値を失ってみえた。自分自身や、ほかの人たちを、卑しんでながめた。それはわたしやかれらのうちに、何のせいで、また何のためにかはわかりもしないのにつくられ、永遠のうちのほんの短い、寸秒にも足りない時間しか生きず、やがては永遠にくさりはててしまって、きたるべき何百万、何十億という無限の年月にも、もう二度とふたたびあらわれることはない、無意味なひときれの肉しか、見ることができないからであった。なんのためにわたしは生き、なんのために学び、なんのために働き、何のためにわたしは愛するのか? それこそもう、無意味で、無価値で、こんなにおかしなことなのに……」

 

ここで、告白はとまっている。そのページの終わりの余白には、これから書く続きの、覚え書きがあるばかりであった。生や死について、このように苦しい思いをしたあげく、十七歳になってザメンホフは、なにか新しいものを感じはじめたのだ。

 

「おそらく、死とは消滅ではないのだと、わたしは感じはじめた……自然には、なんらかの法則が存在しているのだと……なにかが、わたしを高い目的にむけて守っているのだと……」

 

 これらが、その手記の最後のことばである。死んで、ザメンホフは自分の秘密をもち去った。われわれが知っているのはただ、かれは青年のとき独自の信念を見つけたこと、愛と良心への励ましに共通する、一つの力に、ゆるぎない信頼を得たこと、かれはそのようにして「心に神を」もっていたこと、死を越えても精神的なはたらきは、継続するのを理解したこと、そして、いろんな人間の諸宗教を、一つの同じ真理の、違った着物のように見ていたこと、などである。
 ザメンホフは、有名なペルシアの予言者で、かれを賞賛していたアブドゥル・バハよりもまえに、自分にあいさつを送ってきたキリスト教青年会の大会に、すでにこう答えていた。

 

「わたしは単にヘブライ人で自由信仰の人類人です。けれども……イエスの教えに完全に[・・・]従うことよりも、美しいことがこの世にあるでしょうか」

 

 しかしながら、エゴイズム、ショービニズム、金もうけ主義の文化のために、それより困難なこともまた?
 ザメンホフは、これらの障害の物質的な面を、非常にはっきり見ていた。だからかれは、愛を可能にする実際的な手段を提案したのだ。だれらかれは、人びとに、調和的な天才の驚くべき成果である、あの、人を結びつける言語を、わかちあたえたのである。何万というくちびるに、かれは友愛のてだてをもたらしたのだ。何万もの人生に、かれは喜び、意味、便益をあたえた。説教ではなく、人助けがしたかったのである(その興味ある一例としては、一八九一、二年ごろに考案したタイプライターというのがある)。このことでも、かれは時機をえていたことがわかる。人類の偉大な医者。毒されて、病んでいるそのからだの上に、愛情深く身をかがめたのだ。かれは、さまざまの原因を理解した。何が必要なのかをみ、それに答えたのだ。口でいうだけではなく、事実で。助言ばかりではなく、血清もまた。

 

 ザメンホフの頭脳は平衡をえていた。ただ、かれの心ぞうは、あたたかく、そして早く打った。かれの精神は賢明で平静であった。この平静さは、かれの人がらのうちに、いろいろと見られたことである。質素で、考え深く、真実を好むかれは、あらゆる美辞麗句が大きらいであった。だれか、最もへりくだったエスベランチストでさえも、大会でかれと話をしなかったものがあろうか。話をしたもので、かれを衷心から愛し、尊敬しなかったものがあるだろうか。著書によってかれを知っただけでも、世界じゅうの多くの人が、いちばんたいせつな先生[マイストロ]としてかれを見ていたのである。カルパチアの村でも、アメリカの町でも、都会の屋根裏でも、かれの肖像は愛され、同胞として、民衆の家々に、掲げてある。ヨーロッパの暗い戦場で、紛戦のさなか、傷つき倒れた多くの人たちが、かれの姿を思いみたのであった。
 あの、ワルシャワの家の、かれの書斎は、いまはからっぽである。それは、気高い未亡人によって、そのまま敬虔[けいけん]に保存されている。だが、なんと広大な物足らなさだ。なんと痛ましい……そこに、かれはすわっていたのだ。あそこには、かれの本が。そこには眼科の診療具が。ここには未完のページが。時計もひっそりしている。
 この部屋には、力強く、感銘深い、永遠の気が、なんとなくみちている。気持ちを高める清らかさ。なんともいえない偉大さ……そうだ、あの人は偉大であったのだ。公的にも偉大、私的にも偉大だった。われわれの心の狭いこと、低級な論争、罪悪的な臆病さなどを思うと、われわれは何であったのだ?

 

 ザメンホフは、それでも、わたしたちみんなを愛していたのだ。かれは、わたしたちに、なすべきことを残している。人類に、かれの提出したことを全部知らせることだ。そこの、空白のページには、かれのペンがころがっている。それは、善のため美のためにたたかったものだ。しかし、その仕事は未完のままである。だれが、続けるのだろう。だれが、かれの意志を遂行するのだろう。死はすでに、かれを解放した。それは、かれのい考えに翼をあたえてしまったのである。

 

「いまこそ、あちらこちらへ、とんで行け……」新しい世界が建設されねばならない。死と誕生。人類は障害をこわすことを熱望している。それは絶対を必要としている。かれは呼びかける。それも呼びかけている。墓場から、廃墟から、民衆全体の悲惨から、その同じ呼び声は叫んでいる。急を告げる、胸をしめつけるような……

 

 聞いてくれ、聞いてくれ、なんと張り裂けるようにそれがひびいていることか!

 

(世界の人間像16、角川書店、昭和四十年)