ザメンホフの生涯 (12)

第一一章 倫理的思想家

 ザメンホフは、大会演説という形で、毎年新しい作品を発表した、といってしかるべきであろう。実際、かれは苦心してその用意をした。どんなテーマにするかは、冬の間考えたのだった。山からおりてきたひとりの予言者のように、年に一回人びとに話しかけ、それからまた、沈黙にかえった。
 かれは、言語問題について固執する気はなかった。人類的な思想のほうを、むしろ好んでいたのである。しかし、大会は、かれの私有物ではなかった。自分は、ただのゲストであると思っていた。それでザメンホフは、公式の招待者たちの気にさわるようなことをしてはならず、またしたいとも思わなかった。バルセロナの大会があったのは、一九〇九年の九月であった。その数日まえ、この市では反乱が起きた。騎兵隊がまだ街頭を往来していた。教会の壁にははば広い亀裂が走っていた。大会が閉会されて二日のち、フェレルが逮捕せられた。われわれはみんなもうそこには、いなかった。ところで、国王もエスペラントをかっていた。スペインの内閣は各国政府に、公式代表を送るように、外交の手続きをふんで正式に招待しさえもしたのである。それでザメンホフは、この開会演説が感謝の域をでないようにした。
 かれは、新しく設立された世界エスペラント協会の私的な会合に出ると、もっと気楽にできたし、この協会の名誉会長になった。ここでは、自分のいちばんたいせつなテーマにもどって話ができた。

 

「幾人かのエスペランチストが」と、かれは言った。
「わたしたちが正式にすることができないことを、私的な方法でするという、けっこうなことを思いつかれました。かれらは、すべてのエスペランチストを結集したのではなく、あの『内在精神』を受け入れた人たちだけであります……世界エスペラント協会は、すべての人間関係と奉仕のために、役にたつ中立の基礎を提供するものだということは、どこへ行っても理解されております。この相互の助けあいから、民族間の友愛と尊敬が生みだされ、かれらの平和的な相互理解を妨げている障害は、取り払われることと思います」

 

 ザメンホフは、一九一一年に、ロンドンで開かれた人種会議に、民族と国際語に関する問題の注目すべき検討書を提出した。
 民族間の憎しみには政治的な原因があるか。ない。ウィーンとドレスデンの住民は、その間に国境があるにもかかわらず、仲よくしている。ところが一方、スラブ人とドイツ人はオーストリアの内外でたたかったのである。憎しみをつくり出すのは経済戦争か。つくるのではなく、利益を得ているのだ。ロシアと日本の貧乏人たちは、兵隊になって、その主人たちの利害関係に奉仕している。両民族の間に、相互の理解がありさえしたら、この戦争も困難であったろう。からだの違いが、いっそう重大であろうか。そうではない、というのは、同じ一つの民族にも、そういう相違はすでにあるからだ。黒人たちでさえ、苦しんでいるのは皮膚の色そのもののせいではなく、この人種全体の風俗のためである。野蛮な時代の痕跡と奴隷根性は、白人の感情を害するものだが、白人自身もこの犯行には罪があるのだ。文化の平等化は、何世代ものちには、これを変えることであろう。
 系統や血統について広く知られている先入見を、ザメンホフは反駁した。かれのあとから、有名な人類学者たちが、ヨーロッパではすべての人種がすでにどれほど混血しあってきたかということを、学術書で証明した。各民族の間に立ちはだかっている、事筆上の相違は、ただ二つである。すなわち、言語と宗教だ。

 

「民族間の分散と憎しみは、全人類が一つの言語と一つの宗教をもつに至ったときはじめて、完全になくなることでしょう……そのとき人類には、各国各民族の内部にみちているいろいろな不和、たとえば政治的、党派的、経済的、階級的などという不和が、まだ残っていることでしょう。しかし、すべてのうちで最も恐ろしいもの、すなわち民族間の憎しみは、まったく消えることと思います」

 

 かれの結論は、これであった。同時にザメンホフは、学者たちに対して、あまり理論的に議論しすぎることなく、事実を確認するようにすすめた。かれらはエスペラントの大会に来てみるといい。そこでは、民族間の障害とよそよそしさを、中立語いかに取り除いているものか、目に見、耳で聞くことができよう。
 しかし、世界じゅう、どこへ行っても、それより強いショービニズムの風が、身にしみるようになっていた。憎しみの波が、きたるべき暴風を告げている。ザメンホフに友好的な学者たちは、かれがエスペラントの普及を自分の政治的、宗教的な信念によって、危険にさらすことのないように懇願した。いたるところで、隣国に対する不信から、諸国の政府は、いろんな民族の人間が仲よくするという考えをおそれ、または迫害さえもするのである。平和なベルギーにおいてすら、一九一一年のアントワープでは、ザメンホフの開会演説も、より強大な諸国に近いところから、無色であらざるをえなかったほどだ。
 ザメンホフには、これはもうがまんがならなかった。空気を、息をする空気を! 先生[マイストロ]ではなく、自由でありたい! かれの健康もそこなわれていた。肉体的にも、かれの心ぞうは、鼓動が早すぎた。呼吸も困難になっていた。疲れもひどい。死ぬまえに、生涯の目的にもっと近づきたいと思った。言語は、さらに広い事がらの一面にすぎなかったのだ。精神的な中立の基礎が、言語のほかに、確立されねばならない。ショービニストの流れに抗して、まさに人類人の旗が、いっそう高く上がるべきだ。呼びかけは急を告げる。仕事もさし迫っている。それで先生は、公式的な奴隷の身分と縁をたちたかったのである。先生であることや、かなしばりになっているのはごめんだ。ケンブリッジでできなかったことを、クラクフではやるであろう。会合を開会するのはこれが最後で、その後はわが身の自由をかちとるのだ。

 

「この大会は、みなさんが、わたしを、みなさんのまえに[・・・]見られる最後のものです、これからは、大会に出られても、わたしは、みなさんのなかに[・・・]しか、いないことになりましょぅ」

 

 このように、かれはエスペラントの二十五周年記念大会で話すことになる。それからは、一個の私人として、人類人の思想にかえるのだ。
 一九一二年八月、ポーランドの古い都は、白鳥の歌をきいた。そこは中世の巨壁が守護している。そこには太い円塔が立っている。そこには、十字架にかけられた国民の死せる王たちがバーベル・アーチの下に眠っている。石像のように、祈りの手つきをして静まりかえっている。シギスムントの礼拝堂地下の納骨堂にかれらは休んでいる。詩人ミツキェビチも、永遠のうちに共に眠っている。そこの広場では、サンタ・マリアで誓いをしてから、民衆がコシューシコを歓呼で迎えた。そこの大学では、コペルニクスが教えていたのである。
 思い出の多い都で、二十五周年記念の祝典が行なわれたのである。ポーランドのかなた、ごく近いところにエスペラント運動が生まれた、あの土地があるのだ。ザメンホフは、いま、多くの名誉に別れを告げる。

 

「申しあげたいことは、それはそれは、たくさんあります。心がいっぱいだからです……けれども、きょうは、わたしはまだ、公の役目についておりますから、わたし個人の信念が、エスベランチスト全体にとって義務的な信念とみられることを望まないのです。だから、これ以上申しあげることはお許し願いたいのです。
 エスペラント主義の思想の真髄は何でしょぅか。また、いかなる将来に、それは人類をいつかは導いていくのでしょうか。そのことは、わたしたちが、みんな同じ形、同じ程度にではありませんが、非常によく感じているところです。それで、わたしたちは、その静かな、しかし、おごそかな、心の奥にある気持ちに、きょうはすべてをまかせることにしましょう。わたしたちは、理論的な解説をして、それを冒瀆しないことにいたしましょう」

 

 一九一三年のベルンでは、ザメンホフはもう演説をしなかったし、壇上にすわってさえもいなかった。敬愛の念に囲まれて、妻といっしょに、大会出席者のなかにすわっていたのである。かれはほっとしていた。同じ年に、『人類主義』のパンフレットの新版が出た。スペインの同志が、これを再刊したのである。
 ザメンホフは、まえがきで、非常にはっきり、三つの事がらを区別している。すなわち、エスペラントは国際語であること。「エスペラント運動の内在精神」というのは、中立的な言語の基礎に基づく人間の友愛に関する、定義されてない心情と希望を表わすものであること。人類主義とは、特別のそして明確に定義された政治的、宗教的な綱領のことで、「これは、純粋に私的なわたしの信念を表わす」ものであること、というものである。この、あるいはほかの、文章によって、かれは全体としてのエスベランチストを、自分の私的な信条とのあらゆる「疑わしい連帯責任」から、自由にしたいと思ったのだ。だれも、エスペラントを攻撃する武器として、それを使う権利はないであろう。
 このとき世界を支配していた精神は、なんといやなものであったろう! この、時代を超越して高邁[こうまい]すぎる人間は、自分が偉大であるために、小人どもから、まるで恥をかくようにして、許しを請わねばならなかったのだ。進歩する二つのものを、互いにそこなうことのないように、分離せねばならなかったのである。将来は、ザメンホフの思想の統一を、生活がやりなおすことであろう。外からはいくら禁止されたところで、かれの言語は、とにかくすでに、世界じゅうにまかれた種を分けてまわっているのである。多くの心のうちに、それはもう、成長しているのだ。ショービニズムは、エスペラントに対してたたかいつづけるだろうが、もっともなことではある。これは、それらを死に至らしめるのであるから。それらは、こっそりと、世界語の間に、バベルの新しい塔を建てさせるために、競争者たちを助長しているようだが、もっともなことではある。けれども、すべてはむだなことだ。この予言者のような人の言語と目的とが、あいまって勝利をうるであろう。というのは、そこに人類の行くべき道と運命があるのだから。
 人種会議にあてた報告で、ザメンホフは、一般の生活を平和なものにする実際的な手段を、次のように書きだしている。

 

 民族語と民族宗教は、各民族の言語、宗教のグループ内部の生活に保存しておいて、人びとは、民族間の関係にはすべて、中立的な人間の言語を使い、そして中立的な人間の倫理、風俗、および生活様式に従って、暮らすようにしよう。

 

 この第一の部門、言語については、その報告で次の点に固執しながら、詳細に論じている。すなわち、文化は全人類的なものであるべきこと。自分の国語や文化の民族的な形態をかれに強いることによって、他民族の人間を卑しめる権利は、だれにもないこと。
 第二の、宗教については、そこでは、ことば少なく暗示するにとどめている。かれは、このテーマでは特に一書を考えていた。それに、諸国民の宗教的な統一は、久しいまえから、もはやひとりでに、始まっていたのである。多くの国では、国家と教会は、すでに分離していた。そのように人間の自由は大きくなったのだ。ある特定の宗教に対する公式の特権が、いたるところで消えるときには、事はいっそうすみやかに、はかどることだろう。しかし、この分野でも、中立の集会のためには、なんらかの決まった基礎を確立する必要があることであろう。
 この一節は、『人類主義宣言』の第二版では、最も多く変更された、やっかいなところであった。どうもザメンホフは、はじめ、人びとは家の宗旨に属すると同時に、超信仰的な一種の寺院に通うことができるだろうと、考えたもののようである。そのうちに、ローマあるいはギリシアのキリスト教徒たちが、司教は信徒に対して、そのような参加は禁止することだろうと、かれに指摘したにちがいない。そうなれば、かれらは、二つに一つをとらねばなるまい。そこで第二版では、それを削って、すべての人類人の義務としては「誠意、ほかの信仰への寛大さ、そして友愛的な道徳の遂行」を残すだけにした。無教義の共同体の創設と、それへの参加は、「自分たちの宗教的中立性を強固にし、その子孫たちを、民族宗教的ショービニズムに再転落することから、救うために」自由信仰家たちに、すすめられているだけであった。
 そこが、ザメンホフの最も苦心したところである。人びとが、外的事情のためだけで、民族宗教にとどまることのないように、というわけだ。世界組織は、だれもが、自分の信仰があるのに、ただ単に、たとえば愛国心とか、同民族のものを裏切らないために、ある特定の宗教に、くっついている必要のない、そういうものでありたい。
 人類主義は、不誠実への、この強制を取り除く助けになるだろう。しかし、そのためにも、「自由信仰の」ということばは、特に無神論者を意味してはならないのだ。「自由思想家」というのは、しばしばファナチックな唯物論的セクト派になったものである。自由信仰者とは、現存の宗教はどれも信じない、すべての人間のことである。そのような共同体は、中立的人間の祭典、風俗、暦、などの、あとでは人頬全体に役だつかもしれないものを、調整しなければなるまい。東ヨーロッパの事情を思えば、この実際面は非常にさし迫ったものであったのだ。
 一九一七年のロシア革命までは、ヨーロッパの大部分が、西ヨーロッパのとは十三日の違いがあるギリシア暦を使っていたことは、記憶にあるはずだ。ところで、しかし、自由信仰者の共同体だけで、こしらえたものが、いつかは一般的に受け入れられるであろうか。これは、疑わしかったので、ザメンホフは、あとでは自分のもとの考えにもどった。たとえ、信徒たちがみんな、すぐに参加することはできなくても、やはり人類人が自由信仰者だけでなく、良心を傷つけるものはすべて除いて、中立的な宗教を用意するために、会合することはいいことであろう。
 単純なことから始まって、だんだんに高級な問題に移行しつつ、たとえゆっくりでも、統一が行なわれ、まわりの世界に影響することであろう。ザメンホフは、もしその信仰がある人に内心の満足と外的には友愛の心をあたえているものなら、その信仰から、この人をもぎりとることは、罪悪であると思っていた。このことでもまた、かれはプラグマチックな哲学者ジェームズと同感するものであった。ところが、いたるところに、自分の宗教を信じていない何百万という人間がいるのだ。かれらは、その外わくを利用するだけなのである。かれらは、その儀式に従って洗礼を受け、結婚し、埋葬されるのだ。それによって、かれらは民族間の分立を助長している。さらに重大なことは、かれらは自分に、不本意ながらも偽善を強いているのだ。子どもたちは、両親のすることということが同じでないと、やがては気がつくものだ。
 もし、信心のないものが、誠実さのあまり、あらゆる宗教を離れ、それといっしょに外的な風俗、お祭り、ないし宗教的な儀式をすべて、投げすてるとしたら、そのときは、むすこや娘たちも、あまりに散文的な生活にうんざりすることであろう。このことについてザメンホフは、死後にはじめて、わたしがかれの机の上で見つけて読むことのできた、未完の原稿で、こまやかに書いていた。

 

「子どもというものは、抽象的な理論や規則で養えるものではない。子どもには、印象、感じられる外形が必要なのである。おおっぴらに無宗教を名のるものの子どもは、心のうちにあの幸福、ほかの子どもに教会、伝統的な風俗、心に『神』をもつこと、などがあたえる、あのあたたかみを、けっしてもつことができない。無宗教者の子どもは、ほかの、おそらくは非常に貧しい、しかし幸福な心をもった子どもが、その教会へ行くのを目にすると、自分自身にはなんらの、導いていく規則、お祭り、風俗がないので、いかにしばしば、残酷にも苦しむことであろう!」

 

 ザメンホフの三人めの子どもが生まれたのは一九〇四年だった。娘であった。彼女は非常に早くから、考え深く自発的であった。父親は彼女の性格を認めていた。この幼女は、たいそうよく見える目でなんにでも気がついたのである。家では夕食のテーブルに、ハムとお茶が出る。イスラエルの信仰によれば、それは神に対する罪であった。この宗教はブタ肉の使用を禁じているのだ。カトリック教徒の場合は、金曜日に肉を食べるのが禁じられている。だが、この父親は自由信仰であった。なぜだろう?
 ポーランド人の天主堂では、ほのお色をした絵画のもとで、パイプオルガンの音楽がひびいていた。そこでは雄弁な神父たちが、十字架にかけられた祖国のため、キリストのために殉教した人の、永遠の栄光をほのめかしながら、説教をしていた。ポーランド人に、またクリスチャンにならないのはなぜだろう?
 けれども、学校では、クリスチャンの女生徒がユダヤ人の少女に背をむけるのだった。そのようにいいつける、ショービニストの親たちがいたのである。ほのぼのとした友情もたち切られていた。あざけりのことばが聞かれた。愛と気高さはどこにあるのだ。ザメンホフの幼い娘は、かれの首に黙って腕を投げかけた。この子には、父親の大きな、心の悩みが、わかったようだ。
 そのような、人を憎む親たちのうち、多くのものが、キリストの教えを信じていなかった。かれらには教会のわくだけでよかったのである。それでは無神諭のほうがましか?

 

「おおっぴらに無宗教であることは(もっともこれは、ドグマ不信と神をけっして信じないこととを混同していて、だれにでも受け入れられるものではないが)、人びとの間の宗教的分離性をなくするのに、たいして力にならない。というのは、人間を結びつけることができるのは、積極的[・・・]な同一性だけであって、消極的[・・・]なそれではないからだ。みずからに、具体的[・・・]に限定された形で同じ宗教的諸原則を、ふたりとも受け入れたような、そういうふたりの人間だけが、お互いに近よることができるのである。けれども、一つの宗教から出てきた無宗教者と、ほかの宗教からの無宗教者とは、それまでのように、いつになっても、お互いによそよそしいままである。さらにまた、無宗教であることは、人間になんらの積極的なささえをあたえないし、長つづきしないのが普通であって、無宗教者の子や孫たちは、現存の宗教のどれか、少なくともその外形に、もどるのが普通なのである。具体的な宗教はいずれも、それがどんなものであっても、独自の方法で絶えずに受けつがれていくものだが、しかし、抽象的な無宗教というのは、伝承されえないものなのである」

 

 消極的な無神諭は、人の心をみたすことができない。信心をなくした人たちには、真に中立的な、人間の友愛に基づいた、あたたかくて美しい、詩的な宗教が確立されねばならないのだ。無神論者とか神をもとめている者たちは、各民族、各国、各時代を通じて、良心に耳をかたむける共通の励ましを、友愛のインスピレーションの偉大な力[・]と源泉[・・]への共通の接近を、そこに見いだすはずである。それは、いずれの宗教にも反対するものとして起こされてはならず、信者はだれでも、個別的な教義をはなれて、そうしたいときには、そこにきて会うこともできるようなものでありたい。実際には、ザメンホフは、新しい信仰や神学を導入する気はなく、そういってもいないのだから、「宗教」のかゎりに、「倫理」ということばを使ってもよかったであろう。

 

「どの人にも、それが最善と思えるような内心の信仰をもつ完全な自由を残したままで、独自に考えるすべての人たちを、各人の哲学的——神学的な信念ないし仮説が、いかなるものであるか、ということは関係なく、お互いに倫理的、風俗的、および共同体的に統一できるかもしれない中立的な、外わく[・・・]を創造することだけ、われわれは撮案するものである。
 われわれは、人びと[・・・]から人間をつくることができ、いまわしい民族的ショービニズムを取り除き、民族間の惜しみと不公平をなくするような、中立的人間の倫理的な規則[・・・・・・・・・・・・]をうちたてるよう据案する。しかしその倫理規則が、これまでたくさんあったような、ほかのりっぱな理論的な原則のように、はかなくて、まったく無価値なものに終わらぬよう、それにまったく具体的な、ちゃんと固定された、子どもにも吸収できるような、そして自動的に伝承される宗教の形態をあたえるよう提案するものである」

 

 ザメンホフはこの案について、一九一四年八月パリであるはずの、エスペランチストの第十回世界大会のときに、人類人たちと話し合うつもりであった。けれども、まわりのショービニズムは、パリの大会組織委員たちをおじけづかせた。かれらはザメンホフに、大会ちゅうにそんな会合は、たとえ私的なものであっても、招集しないように、懇願したのである。それから、かれらはまた、大会後の人類人の会合へのザメンホフの最初の招待状を、プログラムに印刷することも承知しなかった。この言語の著者自身が、そんなことをやろうとしていることが、もしわかったら、フランスのナショナリストの新聞はなんというであろうか。ショービニストの波はとても強力になっていて、それに似たことはすべて、外国からの大会参加者を平和に歓迎することすら、あやうくしかねないものがあったのだ。
 またまた心を傷つけられたが、しかし、いつでも怒ることをしないザメンホフは、それを理解した。だが、それでは、クラクフで引退したのは、なんのためになったというのか。自分の考えを遠慮なく広める自由を、かれにあたえるのは、死ばかりであろうか。けれども、ザメンホフはパリへ行き、仲間たちと、中立国で特別の大会を開くことについて、話しあう決心をしたのであった。
 旅の途中、ケルンで戦争がかれをとめたのは七月三十日であった。夜どおし、何日もライン河のむこうに、武器が殺戮[さつりく]にむかって通過していった。橋は絶えまのない兵馬の下に、揺れつづけていた。ヨーロッパじゅうで青年たちは死へ、母親たちは涙へむかっていた。しかばねのにおいが、空気をおびやかしていた……
 おそすぎた。おそすぎたのだ……なにかが、ザメンホフの心のなかでこわれてしまった。