ザメンホフの生涯 (10)

第九章 言語学者

 ザメンホフは、イギリスから非常に喜ばしい印象をうけて、ワルシャワへかえってきた。しかし、かれが平安を楽しむことができたのは二か月にすぎなかった。隠されていた剣が、秋には雲をつき破ったのである。
 エスペラントが、それまでの十二年間に、たいへん広く進展してきたのも、そのおもな原因は、言語そのものに関する理論的な議論が、すでにやんでいた、ということにあった。はじめのころは、参加者の多くが、ちょっとした改革を、あれこれと提案してきた。ザメンホフは、民主的にどれにも耳をかたむけ、忠実に気をつかって、雑誌「ラ・エスペランチスト」誌上で、報告した。けれども、提案されてくる変更は、互いに対立しあうものであった。最初の仲間たちは、著者自身がずっとまえにしたのと同じ経験をしたのである。すなわち、紙上ではすばらしいと思えるものが、実際に使ってみると、しばしば非実用的なことがわかってくるのである。しかも、ひとりには気に入るものが、別の人には、最もきらわれる。いったい、この言語はすばらしく生き生きしているというのに、危険な中断によって、あぶない目にあわせる必要があるのだろうか。

ザメンホフ(1894年)


 一八九四年には、中央「連盟」の投票が二度あった。二回とも、大多数が、あらゆる変更を拒絶した。そのときから、エスペラント運動は、よりすみやかに成長してきたのである。
 改造に反対して立ったのは、主としてド・ボーフロン侯爵で、かれはファナチックでさえあった。ジュネーブの大会には出席して、新しい語形を使っている雑誌には、憤然と抗議した(反対にザメンホフは、新しいものは使用してためすように、助言するのが常であった)。言語に関する自分自身の好みは犠牲にしたことを思い出させて、かれはホールの舞台で、先生[マイストロ]に芝居気たっぷりのキスをした。このシーンは明らかに、ザメンホフを閉口させた。会場のかたすみで、ブルレーの声がつぶやいた。「ユダのキッスだ」
 正直で義理がたい博士は、この非難を信じたくなかった。ザメンホフは、フランスの宣伝家の献身的な仕事のことを、感謝の気持ちで思いかえしていた。かれの性格や考えには気にくわぬところがあるにしても、その功績はやはり偉大なものであった。
 ケンブリッジ大会もすみ、秋には、「国際語選定委員会」の幹部がパリに集まった。これは、パリの論理学者クチュラが、エスペランチストの協力を得てつくったもので、補助語の考えに賛成している多くの協会の署名を集めていた。それはアカデミー連合会に公式に一つの言語を選定するように依頼することを、ねらったものであった。その返答は否定的であった。
 すると創立者たちは、各国学者の委員会をパリに招集した。みずから出席したのは、三、四人であった。ほかの人は、友人とか秘書を派遣した。ザメンホフも、エスペラントの代弁人を指名するように頼まれた。かれは、フランスのエスペラント普及会の会長、ド・ボーフロンに頼むことにした。ザメンホフは、ほかにより好みをして、かれを傷つけたくなかったし、かれには信頼と感謝の気持ちを表わしたいと思ったからである。
 この信頼があだとなった。かれをつかわした人の代理として、エスペラントを弁護するかわりに、侯爵は「イード」という名まえで提出された案を、みずからから推薦したのである。それは語尾、語彙、および文法上、重要な変更を含むものであった。クチュラはこれを支持した、自分もいっしょに準備したのだから。こうして、ほかのシステムはスポキル、パルラ、ボラク等いずれも、弁護人、たいていは著者自身がいたのに、エスペラントにかぎって、真の弁護人がいなかったのだ。その委員会は、ザメンホフはド・ボーフロンに同意するものと思ったので、匿名の「イード」の意見による変更つきで、言語委員会との協定をねらい、エスペントを選定することに決定した。

 

 このことが知れわたると、憤りがエスペランチストたちをゆるがした。ブルレーの「さぎで裏切りだ」という叫びが、どこへ行っても繰り返されていた。ド・ボーフロンは六か月の間すべてを否認していた。突然、「イード」とは、ほかならぬ自分のことだと、かれは本音をはいた。言語委員会は、これに抗議して、いかなる変更をも拒絶した。その間にもクチュラは、あたかも新しい言語のように、その案の宣伝を始めていた。ド・ボーフロンは、公正でもなく、忠節でもない行動をして、双方の感情のもつれを起こすことで、学問的な討論をぶちこわしてしまったのである。
 ザメンホフは、より高い所に立っていた。まことにいやな思いをさせられたけれど、人の問題はこのへんで打ち切り、白日のもとに、変更に関する新しい検討を始めるように提案したのである。結果は同じであった。すなわち、大多数のものは、パリのカール教授の「われわれのうね[・・]を耕やそう」というモットーにならって、忠実にわが道を行くほうを選んだからである。いつものように、博士は、民主的に服従した。
 かれは最初から、変わらずに、こういう態度をとってきた。一八八八年にザメンホフは書いている。

「改良できるものはすべて、世間の助言をいれて、改良されることでしょう。わたしはこの言語の『創造者』であろうと思わず、単に『創始者』でありたいだけです」

 

 かれの意見によると、いつかは世の中に、言語の共通の基礎が種まかれる必要があったのだ。それをかれが、「第一書」によって果たしたものである。けれども——

 

「その他のことはすべて、人間の社会と生活によって、現にある諸言語のいずれの場合にもみられるように、創造せられねばならないのです……権威があるのは、これからは著者や、そのほかの人物であってはならないのです。権威があるのは、いまや才能、論理、それから書き手や話し手の大部分のものによってつくられる法則、これでなければなりません……国際語は、あらゆる生きた言語が、それによって完成されていったのと同じ法則に従って生き、成長し、そして進歩しなければならないのです」

 

 ザメンホフの言語に関する信念を明らかにするためには、このような引用を、たくさんすることができよう。このことでも、かれの天才は、クチュラやド・ボーフロンの理論よりも、いっそう科学的なことが示された。というのは、ほんとうの科学は、事実を尊重するからだ。それは生を研究するものだからである。
 また科学は法皇というものを知らない。エスペラントの「創始者」が、いつも控えめに、ひたすら「ほかの諸言語」や「自然の生命」のことを話し、使用者大衆を信頼していたのに、ド・ボーフロンは反対に、勅令によって進歩を制限しようとした。フランスにおけるエスペランチストの大将株であったかれは、絶えず支配し、命令した。文法的な独断の多い部厚い本を出版しさえしたのである。かれは論理ばかりに固執して、あまり自然なものは、いっさい信用しなかった。かれはしばしば、自分の雑誌に、次の文句を刷らせていた。「これまで起こったことのない事実をまえにして、歴史の教訓を頼みにするのは愚劣である!」 明らかに、ド・ボーフロンの書き方は、そっけなく、かたくて、あまりにも「翻訳くさい」ものだった。かれのエスペラント運動には内在精神がかけていたように、かれの文体にはやはりあの塩味、すなわち言語の精神がかけていた。かれ自身のたとえによると、エスペラントは自分にとって、まるで船員の信号みたいなものだったのである。しかしザメンホフには、生きたことばである。実際、このふたりの男は、非常に違った理解の両極端を、常に代表していたのである。イードの事件は、この真実を強調したものにすぎなかった。
 宣伝についても、ド・ボーフロンは支配を好んだ。フランスでは、だれに対しても、かれの賛成を得ずに、なにかをすることは、文書によって禁止していたのである。かれは、出版社が、たとえザメンホフのものでも、自分の検閲なしには、本を印刷できないというような契約に、サインしていたほどである。
 ザメンホフのことばは、そういう支配欲とは対照的にきこえた。

 

「わたしは、著者の手になる大辞典を出版して、自分の個人的な好みによってこの言語を頭から足の先まで、そっくり創造しようとは思いません……国際語にとって、その基礎になる素材は、すべての現代語にとって正規に書かれた文献の初期にあったところの素材に相当するものです……この言語が、じゅうぶんに強力となり、その文献がじゅうぶんに広大なものになったときには、わたしの小冊子にあることも、そのときには、あらゆる意味を失うはずです。そのとき権威があるのは、大多数のものによる法則だけのはずであります」

 

 生活、使用、大多数、これらがザメンホフの規則で、六日間の委員会を開いてできる理論的な決定ではなかったのである。このことでも、かれは真の学者であることが示された。そのために、ボードアン・ド・クールトネのような言語学者が、かれを賞賛したのである。さらに、ザメンホフは医学を研究していた。かれには自然の機能がわかっていたのだ。フランスの数学者とは反対に、アメリカの哲学者たちは、ザメンホフにおける科学的な方法を認めた。そのなかには、最も有名なプラグマチスト、ウィリアム・ジェームズもいた。アガシ教授のもとで生物学を学んだかれは、生活の実際的な経験を信用するばかりで、ア・プリオリは軽べつしたのである。
 さらに、かれより以前にも、一八八九年には、アメリカ哲学会が世界語の問題を研究したことがあった。それは、ザメンホフと同じ結論に達した。この問題を決定するための、学士会の会議を招集することには、成功しなかったけれど、クチュラのようなことはしなかった。会の幹事、ヘンリー・フィリップスの報告が公表されたのである。かれはエスペラントを推薦し、その普及を始めた。かれは、改造論者に対してたたかいさえもしたのである。かれによれば、自然の発展だけが役にたつのであった。
 このことはザメンホフも、「第二書の補遺」で述べておいたし、それからさら二十年たってから、一九〇八年ドレスデン、一九一〇年ワシントンの、第四回および第六回大会でも、語ったのである。かれは、言語というものが、いかにとどまることなく、中断することなく、成長するものであるかを示した。古い葉が落ちる。新しい葉がとってかわる。枝が分かれる。花や実がふえる。幹もまた大きくなる。けれども、同じ一本の木なのである。

 

「人間の子どもと、おとなの違いは大きなものです、現在のエスペラントと、何百年もして進化したエスペラントの違いも、おそらくは大きなものでしょう……少しずつですが、絶えず新しい単語や形があらわれ、あるものは強力になり、ほかのものは使われなくなる。すべては、静かに行なわれ、動揺もなく、気づかれることすらもないのです。国がいろいろ違っても、わたしたちのエスペラントにはなにか違ったところなど、どこにもみられません……古いことばと新しいことばのつながりは、どこも中断されたり、だめになったりはしていません。わたしたちの言語が、強力に発展しているという事実にもかかわらず、新しいエスペランチストはだれでも、二十年まえの作品を当時のエスペランチストと同じように、たやすく読むことができるのです」

 

 アメリカでザメンホフは、自分の考えをさらにくわしく説明した。もしいつか、いろんな国家のほんとうに権威ある委員会が、エスペラントを公用語とするまえに、多少とも改訂しようとしたら、それはどうするであろうか。有用な単語をいくつか受け入れるために、目的格を制限するために、または複数のとき形容詞も名詞と語尾が一致するのをやめるために、半世紀も続いた仕事をすべて掘りかえし、そうして別の方法でなにもかも新しく経験しなおすことが、いいことであろうか。語彙は、なるべく広範囲にとりかえてしまい、大衆にはうんとむずかしくする必要があるのだろうか。ことさらラテン系の外観をもつ理論的なシステムを好んで、スラブ人でさえもアット・ホームの感じのするエスペラントの精神を見失うほどのことがあろうか。
 ない! それは賢明でも、必要でもないだろう。言語委員会が、日常の使用で不用なものや追加すべきものを推薦したらすむことだ。もしなにかが非常に実用的なことがわかれば、なんら中断されることなく、しばらくのちには、習慣ともなるであろう。そうでなければ、最高権威の決定でも、死んでしまうのだ。実際、経験が、「使用する」のには、疑いもなく、よりやさしいものが、それだけ「理解」を困難にしないものかどうか、やがては教えてくれるだろう。ザメンホフは得失のことはこのときは触れなかったけれど、控えめにこう結んだのである。

 

「いま言いましたことはすべて、なにも著者の自信というものではありません、といいますのは、国際語事業の自然の成り行きにおいて、なにかをかえるにしては、ほかのどなたとも同じように、わたしは無力なものだということに、わたしは完全に同意し、このことを隠さずに申しあげたいからであります……国際語の樹木のエスペラントの根は、生活の大地に、あまりに深く、根をおろしてしまいましたので、いまとなっては、だれが望んだところで、その根をとりかえたり、自分の好きかってに、この木をずらかしたりはできないのであります……この自然の進行に対してたたかおうとすれば、だれでも、必要もないのに自分の力を失うだけなのであります」