<5>で一部紹介したザメンホフの演説(第2回ジュネーヴ大会)のつづき。
ザメンホフは、これまで「エスペランチストは利益を得るものでなく、単にたたかうものであった」と言ったが、かれらの目的と行動のもとになった主要な思想は、「異民族間の友愛と正義」であった。
「この思想はエスペラントが生まれたその時から、現在に至るまで、ついて来て、離れたことはないのです。これは、エスペラントの著者が、まだ幼い子どもだったとき、かれを動かしたものです。28年前、いろんな民族の中学生が集まって、未来のエスペラントの生命に最初のしるしを祝いました。このとき、かれらは一つの歌をうたいましたが、その歌の一節が終わるごとに、次のことばが繰り返されていました。『諸民族の敵対心よ、倒れよ、たおれよ、時は来た』。
わたしたちの賛歌は『世界に生まれた新しい感情』のことを歌っています。エスペラントの創始者と、最初のころのエスペランチストたちの、すべての作品、ことば、そして行動は、常にその同じ思想を、明日に伝えていますし、わたしたちは、この思想を隠したことは決してありません。そのことでは、いかなる小さな疑いもあり得なかったのです・・・。
それでは、どういうわけで、エスペラントのうちに『単なる言語』しか見ない人びとが、運動に参加して献身的に、利益もないというのに、共に働いてきたのでしょうか。どういうわけで、それらの人たちは、世間がかれらを大犯罪、すなわち、人類が少しずつ、一つになることに、手をかそうというかどで罰することをおそれなかったのでしょうか。かれらは、自分がいうことと、気持ちとは相反していること、そうして、くだらぬ攻撃者に対する、不当な恐れから、このことを否定しようとしてはいるけれど、かれらも無意識のうちには、わたしたちの夢みていることと同じことを、夢みていることが、わからないのでしょうか・・・
(つづく。なお、本稿での引用はプリヴァー著『ザメンホフの生涯』による)
1986ー07ー01:人類愛善新聞254号
ザメンホフは、大会演説の中で、初期のエスペランチストたちについて語っている。かれらが世の人びとの嘲笑に耐え、大きな犠牲さえも払ってきたのは、「なんらかの実益を思ったからでしょうか、けっしてそうではありません!みんなは、エスペラント主義に含まれている、内在精神のことだけを思っていたのです。みんなが、エスペラントをよしとするのは、それが人間の頭を近づけるからではなくて、人のこころを近づけるからなのであります」と。たしかに、まず何よりも、エスペラントは言葉には違いない。だが、このような世界大会は、それ以上に何かである。大会は、すくなくとも、「内存精神」の祭典として続くようにしたい。
1907年には、イギリスのケンブリッジで第3回大会が開かれ出席者は1,500人であった。プリヴァーは、このときのことを、「弱小国民だけでなく、ブリテン人のような強大国の人びとも参加しているのを目にするのは(ザメンホフにとって)喜ばしい勝利であった。このことは、英国民がエスペラント運動に利己的な便利さばかりでなく、異民族間の正義と友愛という、たいせつな思想をみていることを示していたのだ・・・」と。そこで、ザメンホフは、こう語る。「ケンブリッジの人たちはきょうわたしたちを、自分たちに利益をもたらす商人としてではなく、かれらが理解し、尊敬する人類人思想の使徒として、迎えておられます」と。プリヴァーは「大聴衆が賛歌『希望』(ラ・エスペーロ)を心を一つにして歌おうと起立したとき、ザメンホフは感激にふるえた。1,000人もの声のパイプオルガンで、あの終わりの一節にある予言がとどろいたのである。
中立のことを基礎にお互いに理解しながら、「諸々の民は同意して大家族にまどいを作るだろう」と書いている。
ザメンホフが「エスペラント主義の思想に対する愛を、わたしたちのうちにかきたてるために、毎年エスペラント界の首都に集まるのです」と言った世界大会は今年北京で開かれた。
1986ー08ー01:人類愛善新聞255号
エスペラント界の弱点は、ザメンホフの重要文献さえ、日本語で一冊にまとまったものがないというところにも見られる。ザメンホフの思想を知りたい人は、まずこれを読めばいい、という基本文献があり、書店で入手できる、というようには、なっていない。伝記には、伊東三郎著「エスペラントの父、ザメンホフ』(岩波書店刊)があり、とりあえずこの本で入門はできるものの、これだけ十分とはいえない。
エスペラントやザメンホフのことが知りたいなら、「原語で読むべし」と言って、すましてはおれまい。
日本語によるものとしては、伊東幹治著『ザメンホフ』(永末書店刊)があるが、これは大きすぎて、だれにでも読めるものではない。なにしろ四百字詰原稿用紙で1,000枚ずつの本が8巻もあり、まだ先があるという作品なのである。しかも、これはザメンホフの著作だけを集めたものではなく、「小説」として出発した。途中から、小説というより研究書のようになり、かと思うとザメンホフの論文や手紙の訳文集のようなところもあるという風で、別格あつかいを要する。この本の世界に入ってしまえば、他では得られない楽しみがあるが、まずこの本をどうぞ、というには大きすぎるのである。大物が好きな人なら、これに取り組んでほしいが、一般には、やはり一巻本がいると思う。
さきごろ亡くなられた、桜田一郎先生には、若き日の訳書として『夜の空の星の如く』(ザメンホフ博士著、大正13年10月5日、カニヤ書店刊行)がある。内容は、ザメンホフの大会演説(第1回〜8回等)、エスペラント主義に関する宣言、人類人主義、エスペラントの由来についての手紙で、これだけあれば、重要文献集そのⅠとして通用する。この本から引用すればいいのだが、漢字の字体が旧かな、文体など、日本語の変化のせいで、多少問題がある。これは日本語全体にもあることで、どうしようもない。当時としては、よくこれだけのものを出されたと高く評価すべき本である。たとえばそういう一巻本が、いまはない。
1986ー09ー01:人類愛善新聞256号
国語のほかに、だれもが知っている「国際語」があれば、さぞかし便利なことであろう。問題は、なかなか「だれもが」知るというところまで行かないことにある。それに、だれもがとは言わないとして、世界中のかなり多くの人が知っていればいいことにしても、その言葉は何語でもいい、かとなると、それにも問題がある。現在、いちばん広く使われているという意味で、現実的な国際語は英語である。しかし、英語だけで行われる国際会議というのが、どの程度あるのか知らないが、会議には通訳が不可欠であるところを見ると、英語だけで開ける国際会議というのは、あまり多くはないように思う。
また、現実的に考えて、「便利だ」というだけでは国際語の問題は解決しないのである。そもそも不公平があってはならないし、国際語は中立でなければならないからである。
ザメンホフは、第3回世界大会(ケンブリッジ)では、こう言っている。
「わたしたちは中立の基礎を造ろうと願っています。この上に立てばいろんな民族のものが、お互いに自分の民族的特性を押しつけあうことなく、平和に、有効的に意志を通じあうことができるでしょう」
また、この大会では、エスペラントが内に含んでいるという「内在精神(インテルナ・イデーオ)」について、「緑の旗」という表現を用いて説いている。
「・・・諸民族の友好と、国民の間の敵対するかべをこわすことに役立つものはすべて、もしそれが、他民族の内面生活に立ち入らないかぎりは、緑の旗に属すること」であり「心の奥底に、あなたがたはすべて、この緑の旗を感じています。それは、単にエスペラントのしるし以上の、なにものかであると、みなさんは感じているのです。そして、毎年の大会に参加すればするほど、わたしたちはますます友好を深め、緑の旗の諸原則は、いっそう深く、わたしたちの心にしみこんでいくことでしょう」。
日本では、いままた、日の丸の旗を学校で掲揚することが問題になっているが、緑の旗につづきは次回に。
1986ー10ー01:人類愛善新聞257号
ザメンホフが第3回大会で話した、緑の旗の演説のつづきを読む。
「多くの人たちは、エスペラント運動に、単なる好奇心から、楽しみながら、あるいは利益さえも期待して参加してきます。けれども、それらの人びとが、エスペラント国に最初の訪問をする瞬間から、自分にいかなる意図があったにしても、かれらもだんだんに、この「国」の諸法則に引きこまれ、それに服するようになるのです。少しずつ、エスペラント国は、将来同胞化せられた人類の教育の場となることでしょうし、ここに、わたしたちの大会の最大の功績が存することになりましょう」。
ここで言われていることの意味は何か。まず、だれでも、個人としては、何の目的のためにエスペラントを使おうと、言葉である以上、その人の自由であるということである、その動機も好奇心、楽しみ(原文はスポルト、つまりスポーツである)あるいは金もうけであってもかまわない。
次に、ここで「国」とあるのは、現にある日本や中国といった主権国家の意味ではないが、仮にそう呼ぶとすれば、エスペラント国というものがあり、そこに入って来たものは、この国の法律にしたがうようになる、基本的には、昔も今もそのとおりであろうが、どうも、最近の大会から受ける感じでは、この国の力が弱まってきているようにも思われる。これは、近ごろは日本での国内大会にしか顔を出していない筆者の思い違いかもしれないが・・・。
すくなくとも、ザメンホフ時代には、世界大会が「将来の、同胞化せられた人類を育成して行く教育の場」としての役割を担っているとの実感があったものであろうし、現在でも、伝統として、それはあるものと信じる。
しかしながら、いつの時代にも、その時にふさわしい「緑の旗」があるはずであるから、それを忘れないようにしておかないと、大会も単なる個人の集まりになってしまいかねない。それでは、個人が服従するほどのエスペラント国とは言えなくなってしまう。
1986ー11ー01:人類愛善新聞258号
ザメンホフの世界を探求し、「わが名はエスペラント―ザメンホフ伝―」を書かれた岡一太さんが今年5月に亡くなられた。
この本はザメンホフ伝刊行会から限定版として1980年に600部だけ出されたものなので、あまり一般には知られていない。岡さんは、「あとがき」で、1979年に「思いもかけず日本青少年文化センターが、国際児童年にあたり、私が児童文学にエスペラントを架橋したという、ささやかな仕事によって、久留島武彦文化賞をくれた」と記されているが、この賞がキッカケになって、エスペランチスト140人余りの有志の協力があり、世に出たのであった。著者は本書について「別段、新発見があるわけではなく、世に流布して万人の読まれている種々の伝記から、子どもの本として、まとめたというにすぎない」と言われるが、何しろ400ページもあり、「子どもの本」としては詳しすぎるほどの大冊である。氏はまた「私としては、この貧しい作品が、ザメンホフの不屈の生涯とその思想を、多くの未来の希望たる小さきものたちへ、少しでも訴えたいばかりである。そして更に多くのより洗練された、ザメンホフ伝が出る、幾分かの誘い水になれば幸いである」とも記していられる。
子どもだからといって、こういう本が読めぬわけではないが、問題は手のとどくところにあるかどうかである。この本に限らず、町の本屋にあるとか、せめて図書館にあるようでなくては、一般の人の目にはとまらない。エスペラント関係の本がもっと人びとの手のとどく場所にあるようにすることが、百周年をむかえるエスペラント運動の最重要課題ではなかろうか。
今回は、そういう本があると言うだけにして、内容の紹介、あるいは本書によるザメンホフの言葉などは次回以降にゆずりたい。何ごとも、各自がすべて一から出直すのではなく、先輩の残された仕事を受けついで行くことが、文化を深めて行く道であろう。岡さんも、伊東幹治さんの『ザメンホフ』を見て「先を越された」と一度は思いながらも、初志を貫かれたのである。
1986ー12ー01:人類愛善新聞259号