■はなせるコトバ
エスペラントは、はなせるコトバである。うまい、まずいは個人的な問題で、とにかくはなせる、という事実が、みんなにとって重要なことである。
わたしたちは、日本語ではなしている。それだけで、つまり、ほかの外国語はできなくても、エスペラントでは話せるようになるのには、各人がそれ相当の土台をもっているわけだし、この土台を利用するしか方法はない。ということは、どうやって、この土台はできたのかを知ること、そうして、そのとおりのことを、くりかえしてやること、これしか方法はない、ということだ。もちろん、そのとおり[・・・・・]というのは、本質的には、ということで、やり方は同じではない。
日本には入門書はやたらにあるから、ここではあえて表題のように名のったわけだが、もちろん期するところはあるのである。
1. 聞くこと
さて、その土台から論じていたら長くなるので、さっそく本題のエスペラントにうつるが、要するに、エスペラントは独習するものである、ということを知る必要がある。これには説明がいるが、会話でもそうだし、また話す前提になる「聞くこと」も独習できるもの、というより、それしかできないものである。
会話は、ひとと「するもの」で、ひとの話は、「きくもの」だが、そのまえに、それらを「習う」のは、ひとりでする、という意味で、あくまでも独習なのである。エスペラントの会合に出席できるひとは、特に心して、このことを銘記し、独習をおこたってはならない。
会話の基礎はABC … ŬVZの音にあって、これはどの独習書にも説明してある。それらの読み方を一応ならったら、たとえば辞書を手にとり、どこでもパッと開いて、上から下まで発音してみる。または、その独習書とか、ほかの本をひらいて、どこでもいいから、まず、単語として、はっきり発音してみる。意味はゼッタイに考えてはならず、また、発音する単語をいちいち暗暗記しようとしてはならない。という意味は、2、3度発音して、ムリにおぼえたりしたのでは、役に立たないからである。
ところで、はじめのうちは、そうして発音する単語を自分の耳できいて、果してこれでいいものやら、迷うもので、また、どうもうまく調子が出ないと、痛切に感じるであろう。それがあたりまえで、大切なことは、それでもなお、その発音練習をつづけることである。
そのうちに、何度も出てくる単語があるはずで、いつのまにか、それらの音になじみができていることがわかる。それから、次は文章として読んでみる。これも丸暗記でなく、mal暗記の要領で、調子がわるくても、どんどん声を出して読んで行く。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):便宜上、ここではザメンホフの練習問題集「Ekzercoj」をテキストにする。1ページぐらいずつ読み、また始めからくりかえす。おぼえてしまうまで、ではなくて、イヤになるまで(とは、読んでいて、つぎに何が出てくるか、おのずから分かるようになったとき、であろうが)、それをくりかえす。同書ではモノタリナイひとは、自分で決めたテキストによって、上記の実習をする。
2. 聞くこと(つづき)
(1)で指定したテキスト「Ekzercoj」の1ページには、A, B, C …が出ているが、これを一応おぼえ、さらに、2ページにある本文の1から3までは、もう練習ずみのことと思う。このページは、Patro kaj fratoで始まり、Mi parolas pri leonoで終わっている。
その間、たった1ページのうちに、何度も出てくる単語がいくつかある。それを、さらに、くりかえして読むのだから耳も口も、その音、その字面には(この場合は目だが)慣れざるを得ないことになっている。
さて、ひとの話が「聞こえる」というのは、そこに出てくる「ことがら」および「ことば」が、あらかじめ、こちらに分かっているときに、起こることである。
つまり、AがPatro kaj fratoというのに慣れていて、わかっていれば、Bに言われたときに、それが「聞こえる」がそうでないかぎり、わからない。あたりまえ、と言ってはならぬ。この事実がわかっていないから、あなたは(!)会話ができないのである。
Patro kaj fratoは、わかったとしても、Gvidanto kaj koreografoといわれたら、patro...よりは、わからないだろう。Gvidanto kajまではわかっても、そのあとが、ひっかかると思う。
これは、UEAの機関誌62年9月号を読んでいたら、出てきたものである。そのあとに、de la Skandinava Baledoとつづく。
ところで、わたしは何年もまえから、バレエなどでいう「振付師」は、いったい何というのだろうと思っていた。koreografoという単語は、知らなかったので(辞書にも出てないようだ)、ひっかかりはしたものの、「これはフリツケシであろう」と推そくをした。(そのとおりかどうか、確かめてないから知らないが、koreografoなる音は、もうおぼえているから、ちがっていたら、意味を訂正すればよろしい)
さて、読み方だが、はじめは:
PATRO KAJ FRAT0(ユックリ、一語一語発音する…)ぐらいでも、慣れてくると:Patro Kaj Frato;さらにはPatro kaj frato(だんだん、ふつうの読み方になる…);patrokajfratoとなるように、文章としてはこれぐらいに、1本につづくように、いう必要がある。
「Ekzercoj」には、1から31まであって、32ページだから(Alfabetoもいれて)、まず1ヵ月あれば、なんとか慣れることができると思う。なめらかに発音できるようになるまで、このテキストを読みつづけること。意味はおぼえなくてもいいから、それを実行してほしい。同時に、耳が聞きつづけることにもなるから、「聞くこと」の独習をしているわけでもある。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):指定の(または自分のえらんだ)テキストをハッキリと正確に読むこと。
3. 読むこと
話を先へ進める必要上、「聞くこと」は、このぐらいで一応終わりとする。もちろん、実習の方は期限をきらずに、自分のぺ一スに合ったやり方で、つづけてほしい。
これまでやったのは、第1に「聞くため」に、自分で音読をしたもので、わたしたちの土台である日本語のときは、音を出すのは周囲の日本人たちがやってくれたので、もっぱら聞くだけでよかったことである。「聞くため」とは言ったが、しかし、耳をすまして聴くため、ではなくて、意識的には、目で見て、それを声に出して読むのである。つまり、耳には、その結果「聞こえている」ようにするわけである。
つぎは、「読むこと」だが、いままでのテキストは、もっぱら聞くために使ったので、それは、しばらくあずけておいて、別のを使うことにする。(Ekzercojをやっただけでは、もちろん限度があるから、なめらかに、とはいっても、一応それらしく聞こえる程度に達したら、きくことの第1歩は終了したものとしてよいと思う。)
「やさしいエスペラントの読み物」が、こんどのテキスト。Anekdotojはとばして23ページをあけると「白雪姫」。今はむかし…と日本語を読む(これは黙読でけっこう)が、終わりまで読んでも、1ページだけでもよい。これは、お話がわかるため、つまり、これから読む「ことがら」を、知っている「ことば」の日本語で、心得ておくためである。
つぎに、そうして知っている「ことがら」を、左の22ページにある知らない「ことば」つまり、Esperantoで読む。こんどは声を出して読む。まず表題は:
Neĝulino
とあるが、それはこの単語が白雪姫を意味する、または、白雪姫とはNeĝulinoである、と知るため、ではない。白雪姫と読み、それに当たるところにあるから、Neĝulinoがそれであると知るのは、たまたまそうと知ったぐらいに思っておく。
それは、Neĝulinoという音が言えるようになるため、であって、これは正確に言えるようになる必要がある。つぎにおなじ理由で:
Ĝi okazis iam en la mezo...と読んで行く。分かっている「ことがら」をわからない「ことばの音」では、どう言うかということを実習するのが「読むこと」の第1歩である。
はじめのテキストを「聞いていて」多少ともなじみになった単語や文章の音も、「解釈」をやらなかったので、その意味がわかってなくて、ムダのように見えたかもしれないが、このNeĝulinoを読んでいけば、また、それらに出あう。そして一字一句は、どういうことか分からなくても、あらかじめ日本語で読んであるから、こんども、まず、音として、さらになじみになることができる。あくまでも音になれるために「読むこと」がたいせつ。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):上記の要領で、白雪姫(できれば他の二つの物語も)をくりかえして音読する。
4. 読むこと(つづき)
こんどは何を読むかといえば、独習書である。もちろん、ABC…をやったときに、読んでもいいが、そのときでも、こんどでも、読む方法は同じである。
それはアッサリと読み流すこと。発音練習のためにあげてある単語でも、意味をおぼえねば先へすすまぬ、なんて思わずに、発音だけテイネイにやって、次にすすむ。そうして、読み物のようにして、一気に(何時間か何日間か、それ以上かは個人の事情でちがうが、とにかく、ザーッと)読んでしまう。
つぎには、第1にやったテキスト「Ekzercoj」を読みかえす。このとき、独習書を読んだことによって、何らかのことがらを、おぼえていれば、初めのときよりは、読んでいても、わかり方が、ないしは読み方が、多少ともちがってくる。
それから、また独習書を読む。別におぼえようとした訳ではなくても、2回目だから何かはおぼえている。すくなくとも、何だかまえにみたことがある、ぐらいの感じは受けるであろう。
こんどは、2番目のテキスト「やさしい読み物」を、Esperanto文から読み(この時は、だまって読んでもよし、まだすらすら読めなければ、やはり声を出して)、日本語を読み、必要に応じて注もみる。
こうした上で、さらに「読むこと」はつづくけれど、このあたりで読む本としては、「Karlo」、「Ivan la malsaĝulo」、「50 fabloj de Ezopo」そのほか、「手あたり次第」に読む。音読と読解は、並行して行ない、辞書も使うようにする。つまり、辞書は、あまり最初から引きすぎないことが、コツである。
また、こういう基本的な読み物を読みながら、必要に応じて、こんどは念いりに、独習書を読みかえす。というのは、独習書に書いてあることがわかるためには、現実にかなりの量のエスペラント文にあたっておく必要があるからである。
ウスッペラなものでも、3冊、5冊、10冊…と読んでいくうちには、単語や構文など、まずひととおりのことは出てくるから、一読ただちに理解できるまで、「読むこと」はつづくわけである。
さて、以上は、スジを通すために、ほかのことは抜きにして書いたもので、これらのことはちゃんと実行しながら、それと同時に(決して”かわり”にではなく!)エスペラントの会合に出て、ボーナン・ターゴン ktpをやることは、もちろん、さしつかえない。
しかし、ボーナン…はいくら言ったところでアイサツであって、それができても会話ができることにはならない。会話とは、アイサツが終わったところから(しばしば、アイサツぬきでいきなり)始まる普通の対話である。内容は話し相手によってちがい、雑多でもあって、ボーナン…のように、あらかじめ決まり文句のようにおぼえておいて、それを発音するだけ、というようにはまいらない。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):独習書その他をいろいろ読むこと。
5. 書くこと
モノを書く、というほどのことではなく、とにかく、手を使ってエスペラントの単語、文章をかく、というぐらいの「書くこと」について。
これまで、聞くこと、読むことを、練習してきたが、コトバは全身的におぼえる必要があるので、このへんで手も出してもらわねばならない。聞き流す、読み流す、それは必要なことだが、ある程度までくると、ひとの話や文章を、たしかに受けとめる練習がいるのである。
それには、書くことが第1である。まずこれまでに使ってきたテキストを、できるだけ写す。また、日記を書く。日本語でもつけないのに、という人もあろうが、なにごとも勉強のためだ。ここで、始めてほしい。エスペラントで全部はもちろん書けないから、はじめは日本語で書いていて、いわば「ひとりでに」出てくるエスペラントの単語があれば、それをまぜておく。それをだんだんにふやして行く。
何も書くことがない日には、しばらく本からうつすのである。これらのことは、会話の準備として有効である。というのは、会話とは、すくなくとも半分は能動的に、ことばを使うことであるからだ。
聞くことが大切なのは、それができなければ、話ができないからであって、最低の条件である。それがなければ、話す方はとてもムリだから、これまで、やかましく、きく練習をしたのである。ひとの話が、聞いてわかるようになれば、こんどは自分から話す番で、そのひとつの有力な練習が書くことである。
くりかえして言うが、これらのことは、ひとりでする勉強のことであって、その間にも会に出席して、アイサツ程度の会話をしてもかまわないのである。
さて、話をする、とは、結局、相手の言ったことにたいして、受け答えをすることでもあるが、自分の思うことを、発表することであってみれば、つまり、うちから外に出す行為である。出すためには、そのまえに、とりいれておかねばならぬ。売るためには、仕入れる必要があるわけだ。
ところで、ものを考えるのは「ことば」によるが、この場合は、エスペラントであるから、これでやりとりするまえには、相当に仕込んでおくべきである。つまり、アイサツではない「会話」は、そうして仕入れておいたものがないと、出てこないのだ。かなりの単語もいる。しかし、それらは会にでて、おしゃべりをしたりしていたんでは、たいして仕入れるわけにはいかない。
そうして、能率よく仕入れるのには、書いてあるものを読んで、自分でも書き写すのがいちばんなのである。つまり、本に書いてある単語、構文が分かっていれば、ナマで話すものは、わかりやすい。すくなくとも、仕入れたものがあれば、すぐに、なれることができるものである。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):日記を書き、本を写すこと。また、外国語のEsperanto雑誌にも、目を通すようにすること。
6. 話すこと
これまでやってきたこと、つまり、聞いて、読んで、書いて……という、これらの実習をやってきたひとは、まず、どの程度の実力がついているものか、それを考えてみたい。
聞くことをしっかりやるのは、ひとの話をきいた場合に、その中に、意外な音、つまり、なじみでない音がやたらに出てきて、耳をコンランさせないように、するためである。
ところで、「Ekzercoj」、「やさしいエスペラントの読み物」、「Karlo」、「イワン」、「イソップ」で、とにかく「5冊」である。できれば、この倍あればもっといいけれど、これだけでも、ちゃんと読んでいれば、相当の数の単語、および、ふつうに使われる構文の大体のところには、一応、接してきたはずである。ということは、かなりの量の、「エスペラントの音」に、目・口・耳・手を通じて、なじんできたことを、意味する。
たとえば、ESTASという単語を、見たり、聞いたりしても、いまさら、耳が意外の感じを受けない、あたりまえの音として、ききながす程度に、なじんでいるはずだ。それは、この音の組み合わせが、特にやさしいからかといえば、そうではなくて、単に、そのことばが、よく出てくるから、であるにすぎない。接する回数が非常に多いからである。
だから、ほかの単語も、目を通じ、耳を通して、いわば、Estasなみに、慣れてしまうことが、大切なわけで、そうすれば、ひとの話も、気を張らずに、聞くことができるし、自分からも、さっさと発音することが、できるわけである。
もちろん、いまの段階では、まだ接した量がすくないから、そこまでは行っていないけれども、さきにあげた5冊だけでも、りっぱな土台にはなっている。それを、うんと、ふやして行けばいい訳だが、さて、5冊をやってきた、あなたは、いよいよ、これから「話すこと」を練習しなくてはならない。
と思ったその日に、外国人のエスペランチストがやってきたと仮定しよう。歓迎会とやらに出席する。その同志が、立って何やらアイサツをする。しばらく、30分ぐらいは、話すことであろう。
ところで、サッパリわからないと、あなたは思うであろうか? かれ(ないし彼女)の話には、どうもついて行けない、であろうか? もし、そうであったら、これまで、やってきたはずの実習を、おこたっていたことになる。
本来なら、あなたは、意外の感に打たれるであろう、つまり、「こんなに、よくわかるのだろうか?」と。こんなに、とは半分ぐらいか? いや、ほとんど「全部」、わかるのである。つまり、アッいまの単語はわからなかったと、自分の知らない単語もそれとハッキリ聞き分けられるであろう。
何かきかれる。そこで、話したらよろしい。あなたは、なにかしら、すこしぐらいは話がすでにできるのである。もちろん、誤解はある、大いにあるが、それは直せるものだ。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):いままでの本を、なるべく速く音読する。
7. 話すこと(つづき)
(6)の終わりのところでは、すこし景気のいいことをいったが、別にハッタリではない。さて、ひとの話をきいて、サッパリ分からぬという人は、また出直して、(1)から実習にはげんでほしい。ここでは、「わかる!」というひとが対象になる。ところで、この「わかる(ような気がする)」というのが、じつはクセモノで、もちろん、正解の部分はあるのだけれど、まえに言ったように、おおいに誤解もあるのである。
つまり、「わかった」と思うことはよろしいが「しかし、おおいに誤解もしているだろう」という保留もしておく必要がある。
こんどは、果して、どういう分かり方をしたものか、それを点検しなくてはいけない。たとえば、会で、外国人の話をきいたとすると、「なるほど、これこれの話であった」と思いこんで、それが正解か誤解か、わからぬままでは、進歩がない。一方的にお話を拝聴していると、そうなる。
そこで、会が終わったら、できるだけ、その外国人に近づくことがのぞましい。問答をすれば、自分の言ったことに対して、相手がそれ相当の答えをするか、どうか、つまり、自分は、相手に言いたいことを分からせることができたか、が分かるし、その逆も分かるから。できるだけ、1対1、ないしは小人数で、話をきいたり、したりするように努めることが望ましい。
ところで、日本には「英会話」なるものがあるようで、そのための本はもちろん、いろんな方法が行なわれている。読んだわけではないけれど、のぞいてみたところによって、それらに書いてあるような、同じような「エス会話」とでもいうべきものは、あるのだろうかと思ってみたが、どうもなさそうだ。すくなくとも、わたしには、英会話式の会話をしてきたという意識はない。英会話のエチケットというものもあって、相手の(ご婦人)年令をきいてはならないとか、そんなことである。しかし、相手のトシに興味のある場合がある。それは、なにも、相手が妙齢のご婦人だからではなくて、たとえば、この人は、イイトシをして、世界旅行をしているというが、いったいイクツなんだろう、とかいう場合である。
ある人は、自分から言ってくれたが、つまり、この、「きいてはならぬ」というエチケットは、あらゆる人には通用しないと思ってもいいのではないか。「外人」といっても、実体は、それぞれナニガシという人間だから、しかも英語国民に限らないのだから、エチケットはもちろん、話題だって一様であるはずがない。もし、失礼のことがあれば、あやまればよろしい。
ここで言っているのは、つまり、話すことはお天気のことにかぎらないし、古今東西、南北上下(?)にわたることがありうる、ということで、それは歩きながら、電車の中でなど、話す人同士の条件次第でいろいろ、豊富であったり、貧弱であったりする。多人数のまえでする「公式談」だけで、その人を断定してはソンをする。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):外国の映画を見聞きする。
8. 聴くこと
ものは相談、ということがある。しかし、ここで言いにくいことを言うけれども、日本に来る外国のエスペランチストが、いわゆる「案内」のため、いっしょに歩いている日本の同志に、なにか「相談」したがって話しだすのに、それにのろうとしない、つまり、相手の言い分を聴こうとしない人がいる。
日本のこと、わが町のことなら「万事心得顔」なのである。相手の真意も理解せずに、すべて、「案内」したがるのは困ったもので、旅行者には特殊な用事もあるのだから、おちついて言い分に耳をかしてから、案内の行動にうつらないと、時間と労力のムダになる。
わたしがくりかえし、聴かないこと、ただ聞こえているようにすること、と言うのは、もちろん練習の場合であつて、用件があるときは、言い分を聴かなければならない。それにしても、エスペラントに限らず、人びとが話をするときには、相手のコトバそのものを理解するというよりは、それが話される場のフンイキとか、自分のつごうとかこよって、納得しているものらしい。
たとえば、ニコニコしながら、Kiel vi fartas?という調子で、Kiel vi manĝas?とアイサツされても、Ho, dankon! Tre bone!とすましているかも知れない…。
さて、(7)の宿題は「外国の映画を見聞きする」というものであったが、これについては多少説明がいるかも知れない。英語やフランス語を勉強する人が、それをしやべる映画をみるのは、直接的なものだが、エスペラントをやるのに外国(主として西洋)の映画をみる(聞く)というのは、間接的で、いかにも回りくどい方法ではある。
しかし、エスペラント映画がすくないのだから、次善の策として外国の映画、それも英語のものだけでなく、イタリア、フランスなどの映画を見聞することは「非日本語」をきくという意味で、エスペラントの勉強に役に立つ。いまでは映画とも、ほとんど縁がなくなっているけれど、わたしも何年かまえには、かなり熱心に映画見物をしていたことがあって、そのころはエスペラントの勉強のためにも、そういう映画を聞いていたわけである。
聞く、ということのついでにいうと、ラジオでやっているFENとか、モスクワ放送とかの、要するに非日本語であるということではエスペラントと共通のコトバで、わからぬのがアタリマエというようなニュースなどを、気楽に聞きながすのも練習のひとつである。
こんなことを書きながら、ヨーロッパのエスペラント界を思うと、ワルシャワのエスペラント番組など、毎日30分は放送しているのだから、それがきけない(きくためには、特別の受信装置がいるだろう)われわれは、その点だけでも、不運なのかも知れない。
UEAのSonbenda Servoに入っている、いくつかのワルシャワ放送の録音テープを、エスペラント普及会がとりよせたもので聞いて、われわれは音の面で、現在のエスペラントに相当おくれをとっていると思った。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):できればテープをきく(追記:いまは、北京放送がエスペラント・プログラムを放送している。)
9. 本を読む
Libroのことを「書物」といわぬと気がすまないほどではないが、読書というからには、やはり、「本」を読むことで、雑誌は、いくら読んでも、読書にはならないという意見である。それでは、雑誌は読まなくてもいいかといえば、それはちがう。逆に、読書をしているなどと思わずに、とにかくたくさん読めばよろしい。物の数にいれずに、しかも読むべきものが雑誌である。雑誌も見ないのでは論外である。
読んでもよく分からないときは、ためておく。あとになって利用できる。国際的な雑誌には、つねに注意をしておきたいもの。
そこで、本を読むことだが、まずザメンホフについて。エスペラント語と、語をつけるのは本式ではないが、もしエスペラントのことを語つきで呼ぶとすれば(フランス語、イタリア語のように)、それは、ザメンホフ語になると思う。りっぱなaŭtoroj en Esp.はたくさんいるが、La aŭtoro de Esp.はザメンホフだから、エスペラントをやる気のあるものなら、かならず読むべきである。
ザメンホフは、息の長い、なかなか終わらない文章をかく。いくつも、ke...; ke...とつづくことはザラである。こういうところにも、エスペラント発表までだけでも、9年間も、ひとりでコツコツとやってきたザメンホフのガンバリを見る思いがする。
歩調がしっかりしていて、いかにも行きとどいた、これからカユクなるところにも手をあてておくといった、ザメンホフならではのものである。しかし、読むのはやさしくない。分量も多い。それで、見本として、まず「ザメンホフ読本」にあたってみる。
これを初めて読んで、全部よく分かれば結構なことであるが、そうもいくまい。わかるどころか、とにかく最後まで読み通す(音・黙いずれでも)だけでもひと仕事であろう。根気がいるのである。しかし、これらザメンホフのものによって、大いにきたえておけば、ほかの人の書いたものを読む場合に、効いてくるのだから、どうしても読むべきものだ。
読むときにも、誤解のあるのは、もちろんで、ときどき、すこしでもいいから、どこかを訳しておくと、あとから自分でも点検できる。これはもっぱら正誤をみるためで、文学的にどうのこうのいう「訳」ではない。
なお、字引の訳語をつないだような訳文ばかり作っていると、頭がわるくなるかも知れないから、アンデルセンその他、日本訳のある作品は、文庫本などを横において、くらべながら読むと、あまりにも「語学的こだわり」におちいることから救われるかと思う。
これは、読書案内ではないから、ザメンホフ以後、現代の諸作家にいたるまで、くわしく述べたてることはしないが、図書目録に目を通すことをすすめておきたい。わたしは、これまでに何度も、たとえばJEIのそれを読んでいる。それから各誌に出るrecenzoなどは、自分の興味にしたがって、読書をして行くのに、参考にはなるから、それだけで分かったつもりにならぬ程度に目を通す。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):「ザ読本」ほか、ザメンホフを読む。
(余談)長ながと書いてきたが、これまでのを見ていると、いっこうに奥義らしくない、これではmalesoteraである!といわれた。
PVの定義によると、これはまさしく、malesotera = Publike al ĉiuj instruataであって、resotera = Intime, aparte instruata al la adeptojではないかも知れない。もっとも、これは、奥義の訳語ではなく、上記の表題は正確でもない。
さて、「奥義」とは「学問・芸能・武術などの最も大事な事柄。最もかんじんな点」であると、岩波国語辞典にあるから、「会話」のソレは、なんであるかということになる。
10. 知ること
これまでは、写真に例をとると、もっぱら、カメラについて、書いてきたようなものである。カメラはモノを写すためにある。コトバの外形である発音等は、それを使って、モノを言うためにある。しかし、それがなければ、モノが言えない、ということであるから、ヤカマシク練習をしたものである。
つまり、不可欠の条件ではあるが、すべてではないから、これができただけでは、もちろん、奥義をきわめた、とはいえない。
会話は、ひとりではしない、相手がいる。これが、一様ではない。相手がちがえば、会話の内容も同じではない。形式もかわる。したがって、自分がいくら内容のある人間(これが、かんじんの点であるが)だと主張しても、それが分かる相手でないと、これが伝わらない。つまり、自分にだけ実力があっても、相手次第では、無きに等しいことになる。
だれでも、相手を見てモノを言うものであり、また、逆に、いつも、だれにでも、同じように、同じことを話しても、伝わり方は相手次第であり、特にエスペラントの場合は、各自の外形(コトバづかい)が十分でないため、内容も、すらすら通じないことが多い。
こちらが知っていて、言いたいことも、相手が無知で興味がなければ、会話の内容にならない。知らなくても、興味があれば、そうして一応のコトバを知っていれば、それによって、知らないことがらも、教わることはできる。けれども、おたがいが楽しむためにする会話であれば、知っているもの同士でやるときが、うまくいく。
「教養」というものがある。これは、何だかワケのわからないものだが、現在のエスペランチストが、そのコトバを知り使う人である、という定義だけではすまない、ナニカが加わったものである以上、エスペラントのことが、よく話題になる。そこで、この-ujoのことも、知っておくことが望ましい。教養などといわなくとも、常識的なことでも、知らない人が多い。日本人としてのそれはあっても、エスペランチストとしての常識やら、教養がない人とは、いくら会話をしても、奥義に達した感じはしないであろう。
なるほど、エスペラントが単なる手段となり、それを使って、もっぱら専門のことを語っておれたらメデタイが、いまは、そうも言っておれない。そこでまず――
宿題(編集人注:「宿題」は太字):すこしはESP.界のことも知るようにすること。(追記:最近出た「エスペラント便覧」なども、役に立つ本である)
11. のむこと
エスペラントで話すのは肩がこる、LだのRだの、発音からして気になるから、心して口をきくことになるし、文法的マチガイも気がかりだし……ということが、あるようだ。これでは気楽にしゃべれない。ところが、Konversacioとは、リキんでするものではなく、親しくて気安い、楽しむためにする話し合いだから、カミシモをつけていたのでは、うまく行かないはずである。
カミシモとは、心理的なコダワリを指す。会話には、たしかに「語学?力」というものも要る。しかし、一応、相手の言うことも分かり、こちらからも、話せるはずなのに、うまく行かないときは、心理的な原因がある。
ある人は、いつ見てもだまっている。なるほど、こんなのを「無口」だというのであろうと思っていたら、あるとき、ベラベラとしゃべっているのに出あった。このときは、日本語であったが、一見無口というのはあっても、条件がよければ、だれだって話す、つまり、完全?な無口というのは、いないのではないかと思う。
とすれば、話しやすいフンイキのことを考えねばならぬ。話の場というものも、いろいろある。また、人数も、会話というかぎりは、最低二人はいるけれど、これはまた最高四人ぐらいがいいかも知れない。大声で向うまで叫ばなくても、おだやかに声が通るくらいの方がよい。
いずれにしても、自分の心にコダワリがあれば、楽に話せない。そこで、お互いに、それを除かねばならぬ。「飲む」とは、相手をのんでかかる、意味ではない。剣道のような勝負ではないから、会話においては、自分をのむのである。相手をのんでかかるより、のむべきものは自分であり、心理的なコダワリ、コンプレックスから自由になることである。その手段として、相手といっしょに、一杯やるとよい。何も、のんだくれる必要はない。飲めば舌がまわる、というのは、油をさしたからというより、心のシコリを解くから、その結果、舌も回るというものであろう。
これは、おたがいに話してみたい興味があるのに、諸条件が合わないために、うまくいかないとき、とるべき手段のひとつであって、そんな気がなければ、飲んでまで会話なんかする必要はない。
しかし、エスペランチストは、単に週や月の例会で、多勢(といっても知れているが、2、3人よりは多かろう)いっしょに話をするだけではなく、もっと個人的なつきあいを会員間で、すべきではないか。せいぜい週に二時間、例会だけで終わる「同志」では、いかにもウスイつながりである。
ところで、アルコール飲料が飲めない人は、コーヒーでもジュースでも、日本語で会話をするときの状態になればよい。例会の席では、まあ「輪読」ぐらいはできるが、個人間の会話はやりにくいのが実状であろう。それで、例会場以外の場所で、話すようにする。
会話というのは、それをする人同士の話題があり、気楽なフンイキがあれば、おのずからできるものである。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):奇特なひとは、これまでの分を読みかえすこと。
12. すること
「みずからなし得る者はなし、なし得ざる者ひとを教う」という。会話の奥義を心得ているものは、こんなものを書いたりはしない。自分ができないものだから、せめて、ひとにはできるようになってもらいたい、という一念から、おせっかいをやくことになる。
会話はするもので、これについて語るべきものではない。それが「達する」ものであれば、わたしは達していないが、おのずから体得するものであれば、わたしでも、すくなくとも「ふじもと流」会話の奥義は、心得ているはずである。ただ、これを「伝授」?するのは至難のわざである。もし人あって、この流法にしたがい、修行をなせば、あるいは免許皆伝に至るやも知れぬが、なに、わたしだって、奥義を極めた訳ではないから、それをひとさまに授けることなどはできない。よろしく各自において、おのが一流をあみだされんことを!
13. みつける
話し相手をみつける。これがむずかしいのである。おのれが、いくらbuŝa修業にはげんでも、互角の相手がいなければ、ひとりずもうに終わる。これでは、実力が出ない。また語学力というか、会話力において、格好の相手がいても、お互いに人間としての関心が一致しなければ、ふたりとも実力が出ないままに、ものわかれとなる。
要は、日本語でも、会話を楽しむことのできるもの同士が、エスペラントでするときにしか、うまく行かないだろう、つまり、エスペラントだからといって、かねては話もしないもの同士が、会話を楽しめるはずがない。
ただし、これは、人間としての興味が、第一である、ということを言うための、日本語うんぬんであって、現実には、日本人とは日本語で話した方が通じるから、そのあとエスペラントで話すのには、わたしとしては、コダワリがある。練習のためと思わねば、とてもできない。うまい、まずいに関係なく、だれでも、日本語で話すときと、エスペラントのときでは、ちがいがハッキリしすぎることが多いから、そこが気になるのである。心理的なものである。相手にいくら実力があっても、おたがいに、しかし、日本語の方が、もっとよく通じると思えば、わたしとしては、こだわる。
14. 「でも」と「しか」
日本語の方が速く感じる(これは、時間だけのことではないが)のに、エスペラントでも話せるというのは、次善の策である。ところが、程度は落ちても、これでしか、おたがいに通じる道がないと知って話すとき、つまり、外国語を知らないわたしが、これまた日本語のできない外国のエスペランチストと、エスペラントで話すとき、しかも、かれとわたしの諾条件が合致したとき、その会話はうまく行くものである。ふたりに共通する言語が、エスペラントしかないとき、すなわち、これがおたがいの第一言語であるときには、気軽に、コダワリなく話ができる。これがまあ、会話の奥義というところですかな…実行がむずかしいだけで……。
宿題(編集人注:「宿題」は太字):新選エス和辞典の改訂版を読むこと。
(追記:その後出た「エスペラント小辞典」でもよろしい。)
(1963年、La Movado 1月号〜12月号連載;1966年、同誌10月号に再録)
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二度あることは…というわけで、本書に収録することにした。例によってイイワケをすこし。
わたしは、自分が独学書から、はいったせいか、エスペラントの会話についても、本を信用しすぎるキライがあるかも知れない。
それで、「自分は会話から」はじめたという、いわば現代的なエスペランチストの意見を発表してほしいと思う。ひとそれぞれに、やり方はちがっていていいはずだが、わたしの意見は、根本的にまちがっているかも知れないからだ。ただ、自分がやってきたことを整理してみたら、こうなったということで、はじめに理論を考えだして、それを実行していったわけではない。
それから、「会話の文型」が必要なひとは、いくつかある「エスペラントの会話の本」にあたって、活用してほしいと思う。
ザメンホフは、エスペラントと呼ばれるようになった国際語を、いわば「頭のテッペンから、足のウラ」まで、コトコマカに、完成品として仕あげてから、世間に公表しようと、はじめは思っていたらしい。
もし、そうしていたら、このエスペラントという言語は、その「大著」一冊ぐらいで、おしまい、ということになっていたと思う。すくなくとも、80年間にもわたって、世界各国で運動がつづいている、ということには、なっていなかったと思う。いわゆる「第一書」が、実質はそなえていたが、見かけからいうと、みすぼらしい小冊子として、世に出たことに、エスペラント運動のカギがあるのではないか。
この「第一書」は、いわば赤んぼうであった。ひとりで立って歩くことは、できなかった。だから、よかったのではないか。それは、いわば、オソロシゲな様子は、していなかった。たよりなげであった。しかし、それには、生きる力はあったし、第一、ひとをひきつけるような、かわいらしさが、あったはずである。
欠点もあったし、とくに、一見、そう思えるところがあったし、要するに、そのパンフレットを読んだものが、「エスペラント博士」ひとりに、まかせてはおけない、自分が手をかして、世話をしなくては…と思いたくなるようなところが、あったのである。
あとから「エスペラントより完全な国際語」と名のって出現したコトバ、いわゆる言語的には「よくできた」国際語の群れが、どうもうまく行かないのに、エスペラントは、なんとかやっている。勢力はよわいが、この種の運動としては、いちばん強力であるし、もし、エスペラントが人類に受けいれられないものとすれば、まあ、それは、われわれがホモ・サピエンスの名に値しないのだと、言ってもいい程度には、がんばっている。
理由は、このコトバが、「未完成」のものとして、生まれたからであり、しかも、ザメンホフが、それを民主的にそだてる、いや、みんなをして、そだてさせるという、おそらくは「ユダヤ人」的な知恵をもっていたからであろう。民主主義というからには、現代人でも、ザメンホフのやり方に、まなぶべき点は多いと思う。
ザメンホフに、人類愛があったというより、人間は何かを愛さずにはおれないという、その「人類の愛」を、かれが、めざめさせたから、こういうことになったのだと思う。
そういうザメンホフに感謝することで、この本をまとめるために、お世話になった方がたのお名まえをしるすことに、かえさせていただこうと思う。
1967年11月14日 藤本達生
l’omnibuso, Kioto, 1967