■大会の理想と現実
なにしろ、5年もまえからとりかかった大会である。それが終わったからといって、もう忘れ去ってしまうのは、おしいと思う。わたしは、すくなくとも、これから先、2年ぐらいはかけて、出席したり、関係したりしたものがみんなして、いったい「第50回世界エスペラント大会」とは、何であったか、ということを、おおいに考えてゆくべきであると思う。
個人によってちがうけれども、そういう、大会におけるそれぞれの体験を話しあうことで、日本のエスペランチスト全体にとって、大会がどういうものであったか、ということが、だんだん分かってくるだろう。
すでにあちこちの雑誌に、感想なり批判なりが、かなり出ているようである。大感激したひとや、失望したひとや、いくつかに大きくわけられる。
ところで、外国人には、がいして、たいへん好評であったといってよい。自分は何回も出席したが、こんどの東京大会が、いちばんよかった、というようなコトバは、何度もきいた。はなし半分としても、とにかく、こんどの大会が「成功」したことには、まちがいない。
さて、その成功は、UEAの世界大会というものが、どういうものか、体験として知っているかれらが見て、そうなのであって、現実論である。これまで何回も出た、しかし、そういうものとしては、こんどのは実にウマく行った、ということである。簡単にいえば、そういうことにちがいない。これは、ひとつの見方であり、その点からいって、日本であった大会が(その後おこなわれた諸行事も含めて)なんとかうまく行ったということは、メデタイことにちがいなかった。
一方、5年まえからおおいに期待していた日本人、特に、これまでヨーロッパにおける世界大会に、一度も出席したことのない大多数のエスペランチストにとっては、「世界大会とはこういうものだ」という実感がないから、どうしても、見方が理想に傾くのである。つまり、大会はこうであってほしい、いや、こうでなくてはならぬ、あるべきだ、という見方であり、世界大会にたいする期待であった。
そういう、いわば理想家の目から見れば、こんどの人会は、まったくがっかりさせるものをたくさん含んでいた、というより、じつに失望させるものでしかなかった、ともいえるのである。だから、大会にたいしては、現実と理想という、いわば二つの見方があり、大会について批判するばあいには、両方の見方を混同してはまずいと思う。まず、大会とはああいうものなのだ、という現実を認めて、そういうものとしては、万事うまく行ったかどうか、という現実論がひとつ。
大会というものは、あれでは困る、こうであるべきだ、それから見ると、こんどの大会はダメであった。今後は、こうして行かなくてはならぬ、というのがその第二の見方で、理想論。
とはいっても、現実にどういうものであったかを体験したものにとっては、大いに感動した参加者はとにかく、失望したものから見れば、理想論もなにもない、あれでは困る。エスペラントもイヤンなる、というところまでことが発展する可能性がある。したがって、現実論はしばらくおき、やはり理想論から見て、大会のことをよく考え直してみる必要があろう。
三ツ石清氏は、ガッカリした組のひとりのようではあるが「しかし、エクスクルソも行かず、バンケードも参加しないで、いろいろ言ってみても、仕方がないかも知れんね」という意味のことを話していた。すなわち、現実論的にいえば、そういう(金のかかる!)ものに出席するのが、いわば、ほんとうに大会に参加する、ということかも知れず、それをしないで批判する(理想論的に)のは、する方がわるいのかも知れん、ということであろう。日光はよかった、箱根もすばらしかった、バンケードも……というホメコトバをさんざんきかされて、そういう思いをしたのかもしれない。
まあ、三ツ石氏が、わたしのいう理想論からして、どういう批判をされるかは、直接、本人による文章を期待するとして、次に、わたしの思うことをかいてみよう。
■「こん親会」について
開会式の前夜にあるところをみると、このインテルコーナ・ベスペー口というのは、正式のプログラムからすれば、番外と考えられているのかも知れない。ザメンホフと名のついた大きな部屋に、いっぱいになるほどの各国人が入っていると、話し相手をみつけるというのも要領がいるように思われた。けっきょく、この「懇親会」というのが毎日あるといいと思う。前夜集会だけでは足りない。
はなしあいには時間がかかる。しかし、プログラムがあるときは、やはりそれに出ないと気がすまない。だから、いっそ、何のプログラムもなく、みんなが「こん親会」に出て、てきとうにおしゃべりできるといいと思う。日を追うて、なじみもできるから、毎日でなくても、1日おきにでも、そういう自由集会があるといいと思う。まえからの知りあいでないと、3時間ばかりの間に、いろんな人と、くわしく話をするのはむずかしいと思う。
イヤホーンもつけずに、毛色のかわった人間たちが、なんとか話をしているというのは、一種異様な光景であるが、それがエスペラント大会では、ごく当然のことなのだから、この長所を生かして、世界の人民が、自由に談話できる場と時間をあたえるのは、世界大会に望んでいいことであろう。
■開会式
いろんな国から来た代表が、エスペラントでアイサツをするというのは、開会式のなかでは、第一のミモノ・キキモノであろう。内容よりも、まず、発音とか話し方に興味がある。各国語によるナマリはあっても、みんなわかるエスペラントであったから、そういうものの見本としては、あれは面白いものである。
しかし、政府筋のエライ人たちのご出席をねがって、通訳つきで話をしていただく、というのは、通訳なしのときとのよきコントラストを示すという点以外には、いいこともない。エスペラント界の現状からいえば、あんなことは、背のびである。どうせ、政府関係者は、エスペラントのことなど本気でとりあげる気はないのである。たのまれたから、仕方ない、ケッコーなことでございますな、というアイサツにすぎない。
たとえば、UEAが、あれだけユネスコ、ユネスコと肩入れしているユネスコの、日本の国内委員会事務総長である井上孝治郎氏だって、エスペランチストをうれしがらせるような、いい話をしていながら、「では、どうぞご署名を…」というわけで、例の国連あての署名を頼んだときは、しなかったそうである。だから……というのは、おかしいかも知れないが、まあ、その程度にあしらわれているのであると思っていいであろう。
モタモタしているうちに、腹はへってくるし、それで印象がわるいのかも知れないが、開会式は、あれでは長すぎる。おまけに、写真のとりかたも、物理的にいっても不可能なことをするし、後味のわるいことである。
開会式は、まず開会宣言をして、次に、各国代表がアイサツをし、それから祝賀演説をして、それで終わり、というぐあいで、いいのではないか。また、式が終わって夜までの午後ずっと、宗教関係の分科会のほかは、何もなかったが、あの時間でもInterkona Posttagmezoでもあればよかったろう。市内見物でもせよ、ということかも知れないが、その気のないものもいることを、考えておいていいと思う。わたしは、世界連邦関係の集会に事情があって行ったから、時間をもてあますことはなかったが……。
■「日本のタベ」に思う
LKKが自主的に決めることのできたプログラムは、これだけであったとか聞いた。それにしても「日本の」となると、どうして、日本人がふつうは、あまり縁のないようなものに落ちつくのだろうか。あるいは、ああいうのこそ日本的なものであって、あれで当然なのであるのか。わたしのように、カブキも文楽も(日本の夕べではやらなかったが)見たことがないという非日本的なものが、とやかく言うべきことではなかろうが、日本というと、すぐああいうことになるので、まったく弱る。外国人が喜んだのは、おそらく物珍らしさによるので、あれを芸術として味わったからではなかろう。もっとも、東西文化の交流とかいっても、現状では、もっぱら異国情緒でもっているようなので、あれでも仕方がないのかも知れない(もちろん、出演した人たちの労を多とする、というのは別問題である。)
■協議会や総会のこと
形式主義。これが、簡単に言えば、この種の会合に支配的なことのようで、なるほど、決議文をさっさとまとめたり、議事を早くかたづけたり、ということは、うまくやっていた。形はととのうのである。事務的になれているという感じで、この点、日本人はちょっとタチうちできないようだ。あるいは、何か言ってみても、どうにもならん、というところで、ことが運ばれて行く、ということかも知れない。
そのためかどうか、日本人はほとんど発言しない。しかし日本でやって、だまっていたんでは面白くないから、わたしは、何回か発言だけはした。それに、何の効果もないことでもかまわないと思ったので、つまらぬことでも質問したりした。
時間も、ゆっくりでなくては困るのだが、ああいうものは、たいてい時間がない、ということで切り上げるようになっているらしい。(これは、10月にあった日本大会でも同様で、いつも、tempo mankas!であった)充分に話し合いができたら、ミもフタもなくなって、具合がわるいのであろうか。
■「力タキ」を見る
8月2日の夜は、「演劇のタベ」というので、おくれぬように日経ホールヘ行った。まず、入場すると、プログラムを売っている声が聞こえる。気分を味わうために、50円也のそれを買う。高いと思ったが、芝居見物のフンイキを買うためだと思えば仕方がない。
場内はいっぱいで、見物は色とりどり。これからエスペラントで演じられる「カタキ」を見ようと集まって来たものたちである。わたしも、大会のプログラムの中では、もっとも期待していたもののひとつであった。ヨーロッパでの世界大会の報告を読むと、最近数年は、ずっと、IAT(国際芸術劇団)がナニを演じた、というのが目について、あちらの連中がうらやましかったものである。大会ごとにいくつかのダシモノを用意するのは、大変な苦労だと思うし、そのわりには、むくわれない仕事であるから、まったくIATはよくやると思ってもいた。
東京大会には、この劇団は来なかったが、ポーランドのプロの役者が来るというので、楽しみにしていたのである。
さて、前口上を言いに出てきた男は、ワルシャワ放送のひとで、最初の「こん親会」から顔見知りになっていた。いよいよ幕あきである。やはり、それらしい気分になってくる。
登場人物はふたりだが、アメリカ兵は、よくしゃべる。日本兵は、あまり口をきかない。あまりシャベルようでは、日本人をやる外人俳優は困るだろうが。この芝居は、アメリカやヨーロッパでも、かなり上演されたようで、日本人の彫刻家が、ドイツかどこかで、この役を演じ、好評であったとかいうのも、あとから思い出した。
舞台も舞台だが、わたしは観客席も気になっていた。しかし、ちゃんと反響はあるし、観客も相当、芝居のエスペラントにも、なれていると見た。
「キムラ」の日本語が、ときに何を言ったのか聞きとれないことがあった。ほかでやるときは、日本語は、ぜんぜんデタラメでも、関係ないわけだが、こんどは、大部分が日本人だから、あの役者も、気を使っていたらしい。
アメリカ兵をやったものは、ほとんど2時間しゃべりつづけたわけで、このためにエスペラントをならったのかと思うと、そうでなく、かれは、数年まえからのエスペランチストでもあった。エスペランチストが役者になったのではなく、もっとまえから、すでに俳優であったそうで、それにしてもテーマといい、役者といい、登場人物がすくないことといい「はるかなる」東洋のはて、日本でやる芝居としては、まったくUK向きではあった。
もう一度見たいと思って、あくる日の券を手にいれたのはよかったが、その夜はつごうがわるく、惜しいことをした。
(追記:入場券は、世界大会の幹事というか、事務長というか、とにかく、「書記」にしては、万能の権力をもっていたらしい、かのポンピリオ氏に、なんとかつごうをつけてもらったのではあったが、けっきょく、もう一度見ることはできなかった、わるいことはできない、というところだ。)
■「中立」あれこれ(「緑星旗事件」私観)
わたしは、UEAの委員会に興味をもち、つとめてその会合をのぞくようにした。委員ではないから発言はできない。後方の椅子にすわって、成り行きを見守っていることしかできない。何十名かの出席者があった。委員ないしその代理人も、かなりいたようだが、まだ定足数に達せず、一応決められたことについても、あとで文書によって、他の委員たちにたいしても賛否が問われたようである。
さて、その委員会では、のちに、いわゆる「縁星旗事件」と呼ばれるようになったことが起きた。わたしは、その一部始終を見ていたわけではないし、また、聞きながらノートをとってもいなかったので、いまとなっては正式に「報告」することができない。
途中から途中まで、わたしが見聞きし、理解できたことは、ざっと次のようなものである。
ジャパン・タイムスという英字新聞に、3日の午後あったMEMの分科会で決められたことが、あたかも、世界大会あるいはUEAが決議したことのような形で報導された。そうしてそれは、アメリカ軍はただちにベトナムから出て行け、というようなことなのであった。
そこで、各国の大使館から、UEAの幹部役員に対して、呼び出しがかかった、ないし、電話による、「おたずね」があった。このことがUEAの役員たちをギョーテンさせた。それで、早速そこへ出向いて、ジャパン・タイムスの報導がマチガイであること、すなわち、あれはMEMという団体が勝手にやったことで、世界大会は何ら関知しないことであり、しかも、MEMの分科会そのものが、UEAの主催する世界大会とは、何ら関係がないもので、あのような世間を誤らせるような報導はイカンであること、UEAおよび世界大会は政治的にまったく中立であり、このたびのようなことはもちろん、UEAの計画したことではなかった。こういうことを大使館筋には了解してもらった。
さて、しかし、こんなことになったのは、なぜかと言えば要するに、MEMの分科会を大会中にやらせたからであって、今後は、いっさい大会からシメ出すがよい。いや、これまで分科会を許しておきながら、とつぜん、そのようなことを言い出すのは、おかしい。
まあ、集会をするのは、やむを得ないこととしても、MEMに対しては、警告を発すべきである。
ジャパン・タイムスには、抗議文を送り、かつ、訂正記事を出させるようにせねばならない――。
その他、議論をしていると、さらに、何かが持ち込まれた。それが緑星旗であった。しかも、これまたベトナムに関係がある。この旗に署名をして、世界大会に参加できなかったベトナムの同志に送ろう、というのである。そこで、政治がどうの、中立がどうの、ということになり、ついには、この旗をUEAが没収する、ということになってしまった。
わたしは、そういうことをききながら、じつに面白かった。事は重大であるが、とにかく、konfiskiなどという単語が、大まじめで発音されるのをきいたからである。
それはさておき、この委員会をみながら、ああ、ザメンホフはかわいそうである、と思った。そこには、ザメンホフの精神なんて、ひとかけらもなかったからだ。
Verda Standardoのことで大さわぎしながら、ザメンホフがそれについて何といっているかさえ、「中立、中立」でコリかたまった頭には、思い出せなかったのだろう。
いったい、かりに、世界大会が、いわゆるUEAのいう中立をおかしたところで、消えてなくなるようなエスペラントではないのだから、大いにやったらいいのである。
鳴かず飛ばず、たとえイヤホーンは使わずとも、仲よく話をしているだけでは、世界大会も、日本ではニュースにならない。委員会の途中で思いもし、ノートをとりながらきいていたサドラーにも言ったことだが、たとえマチガイにせよ、世界大会の期間中に開かれた集会で、ベトナム問題にふれたから、新聞が報じてくれたのであって、これは抗議をするというより、なんとかしてニュースになるようにと思って、ああいう形で報導してくれた新聞にたいしては感謝しなければいけないほどのものである。それを何と思ってか、大騒ぎして、みっともない。もし、中立がどうしたとかで、UEAがつぶれることがあっても、エスペラントという言葉はどうにもならないし、存在していくのだから、いたずらに心配するのはバカげている。
それより、わたしは、こう思う。中立とは、何も決議しなくてもよい。とにかく、エスペラントを使って、おたがいに、たとえばベトナムについて、みんなが個人として話し合うことなのである。だいたい、UEAの大会で、政治的なことを論じてみたところで、世界情勢には影響ないのだが、UEAは、もしそれを思っているのなら、すこしシヨッテルよというべきであろう。
世界大会では、アメリカだってどこだって非難したらいいのであるし、それができないようなら、何のために、エスペラントというコトバはあるのか、ということである。つまり国連などで、公式にそれをやれば、世界の政治に関係してくるが、世界大会は、現実の政治的な国際機構からみれば、まったく私的な集まりなのだから、そこで各国人がいくらののしりあうまで口論したところで、コップの中のあらし、たいしたことはない。しかし、そういうことができれば、本質的には、たいしたことであるし、それができるのが中立というものであり、そこにエスペラントのよさがあるのだ。ところが、オッカナビックリ、何か言うと、すぐに政治的といってアワテルのだから、わたしみたいに、もっとも非政治的なものまで、フンガイしたくなるのだ。
とにかく、よその国の国旗をひきずりおろしたりすれば、国際問題になるが、緑星旗の場合はエスペラント国民同士の夫婦ゲンカぐらいに思われたようなことで、新聞ダネにも、おそらく、ならなかったのである。あれは、国際問題(すくなくとも「旗」をめぐるものとしては)にはならず、せいぜい、他人の持ち物をとった、というぐらいの事件(世間的には)なのである。
要するに、あれは、世界における国際問題ではなく、エスペラント国内のヘッピリ腰のせいで出来した、まあ、はずかしい事件であった。
エスペランチストは、まだ、おさないのである。わたしたちは、このことをよく考え、何が中立であり、また、いかにそれが理解されていないかということから、あんなことが起きたのだということを思うべきである。
エスペラント国を学校にたとえ、世界大会を運動会にたとえてみれば、日本側は、外国勢に圧倒され、そのひとつとして、旗をとられたようなものである。勝ち負けでいえば、日本人は負けたのである。
いずれにしても、すべてはエスペラント国内のできごとなんだから、大したことはないのだが、しかし、世界大会は単に終わったのではなく、やはり、わたしたち日本のエスペランチストは、世界大会において、敗れたのであると、わたしは思っている。緑星旗事件は、いわば、そのシンボルみたいなものである。
■集団と個人の問題
人間は、まだ、集団で動くことには、なれていないのかも知れない。世界人会のことを考えていると、そう思えてくる。すくなくとも、世界大会を集団として見ると、かなり、おろかしいものであった。個人としては、どんな人物であっても、いったん、集団のなかの一員、しかも、たとえばUEAの役員といった立場になると、その動きはあやしくなってくるのであろう。
世界大会は全体としてみれば、エスペランチストの集団行動ではあったが、なかへはいってみれば、ナンノナニガシという個人の問題でもあるという、まことに妙をえた集会であった。集団としての世界大会のことを考えていると、また、フンガイせねばならぬので、それは衛生のためにもならないら、もはや「人類の真夏の昼の夢」となった、あの夏のあいだに出会った個人の話をしてみたいと思う。
第一、世界人会が集団としてぐあいが悪かったのは、エスペランチストが、まだ、ちゃんとした組織をもっていないからで、単なる大衆を集めてやる以上は、あのくらいの不様は当然のことであったともいえるから、集団だけを問題とするのは、片手落ちであると思うからである。
それから、個人としてみれば、かなり面白い人物もいたのは事実だから、そういう人たちに会ったことも、やはり世界大会の重要な出来事にちがいないし、「人間と人間との出会い」というザメンホフ的な思想からいえば、それこそ大切なことであるとも言えると思うからである。本来の世界大会論をあきらめたわけではないが、集団といえども個人がいなくては存在しないのだから、それはそれとして、個人的な体験のことも、忘れたくはない。
(追記:会った個人となると、わたしは交際のひろいほうではないが、以下にしるす人たちにつきるわけではない。もっと書きたいところだが、長くなるので、やめたのだった。)
■8月5日
木曜日は、毎年の世界大会ではそうなっているらしく、8月5日はやはり全日観光の日であった。日光や箱根へ、朝早くからバスなどで、人びとは出発したのであったが、わたしは行かなかった。参加すれば、それはそれで有意義であったろうが、金もかかることだし、行かなかった。
会場の農協ビルヘは、何時かは忘れたが、行ってみた。さすがに、1日でも遊ばせてはおかないものと見えて、「ザメンホフ」も別の団体が使用するようになっていた。会議ができるようにテーブルが並べてあった。それを見ると、わたしはエスペラントの世界大会とくらべて、感心せざるを得なかったのだけれど、とにかくこれはかなわぬ、やはり大したものだ、それにひきかえUKは……と思ったことだけ、記しておこう。
■「おんな」
この日は、約束があった。昼まえ、フェアモント・ホテルヘ行った。大本の国際部のものなど、8月13日~15日にある「大本国際友好祭」のための、ある打合わせのためであった。春ごろであったか、ポーランドから手紙が来た。ヤーガ・ギブチンスカという女優さんからで、ブロマイドも入っていた。他に「virino」という独白で演ずるための台本もいっしょだった。彼女は、もし時間がゆるせば、亀岡でそれをやらせてほしいと言っていた。「Festivalo」のプログラムはすでに出来ていた。しかし、どこかで出演してもらえそうなので、よろしく頼む、という返事が出された。ただし、この辺のことは、すべて梅田善美氏がやったことで、多少のちがいはあるかも知れないが、そばにいたのだから、大体は以上のようなイキサツであったことは、わたしも知っている。
さて「おんな」の独演もいいが、この日の目的は、「歌まつり」で詩の朗読をやってもらおうということで、入選した詩をいくつかわたしたちは持参していた。
大阪の黒田正幸氏も朗読者のひとりだったので、この打合わせ会には出てもらったし、さらに、氏の部屋に入りこんで、詩の朗読のケイコをすることになったのであった。
ヤーガさんはプロなので、まず、モハンを示してもらうことになった。こちらで渡した詩をやるまえに、彼女はvirinoをやると言って、ひょいと椅子にのった。
以上は長いまえがきで、要するに、この25分間の独演をきいて、それがまったく見事であり、感動したという、そのことを言いたかったのである。
おわると、相手が女優なので芝居づいたわけではないが、わたしは「いや、エスペラントをやって来たのも、ムダではなかった、いまのをきいたからには」というようなことを握手かなにかしながら、言っていた。わたしひとりが感じいったのではなく、他のひともそうだった。特に黒田氏などは、「まったく、そのとおりだ」とばかり、彼女をほめたたえたぐらいである。
もちろん、ご当人は女優であるから、それぐらい出来るのは当然で、こちらが感激するほどには、ホメられてもどうということはなかったのだが……。
なにしろ、わたしたちの場合は、独白の演技力に参ったというよりは、それができるエスペラントに感心していたのだから、世話はない。「エスペラントは、ギリシャ語のように完全で、なんとかで、イタリヤ語のように美しい」とかなんとか、きかされてはいるが、なに、現実におたがいの身の回りや自分で使っているエスペラントは、そうではないのだからヤーガさんの、それこそいきいきしたやつをきいていると、フーム、エスペラントもなかなか、やれるわい!とばかり、あたりかまわず感嘆したのであった。
この日、彼女の名演技に接したことは、いま思っても、世界大会のいいことのひとつであった。その後、亀岡でもリッパにやってくれたのだが、長くなるので、この人のことは第1回目の話だけにしておきたい。なお、このvirinoは、東京でも、医者の分科会かなにかで演じたはずであるが、フェアモント・ホテルの一室できいたものほどには、出来がよくなかったのかどうか、特にそのことを書いている人はいないようである。
■「手紙も書けない」
どうでもいいことだけれど、わたしはこの日の午後、打合せ会が終わってから、先に記した農協ビルヘ行ったのかも知れない。とにかく、夕方もう一度フェアモント・ホテルに行ったようである。エクスクルソに行った人たちが、帰って来たころ、そこの食堂で夕食をしたのをおぼえているから。
ナイフとフォークで食べるのは、味がよくわからないほど、わずらわしいものだが、それに加えて、外人がたくさんいてエスペラントでしゃべっているのだから、まあ、外国のホテルで食っているようなものであった。
すこしおそくなって、かえろうかと思っていると、ロビーに、まえに紹介されていた青年がすわっていたので、話しかけてみた。この背の高い男はトルベン・ケーレットといって写真のプロである。
これは、ところで、あらゆる場合に言えることだが、わたしはどういう文句で、たとえば、この場合、かれに「話しかけた」のか、さっばりおぼえがないのである。そうして、どういう文句でその「会話」をつづけていったかも、わからないのである。話をしていたのは事実なのだが、具体的な文句はおぼえていない。あるいは――
「どうですかな」、「それが、まったく、オソルベきことにはボクはまだ、日本へ来てから、家へ手紙も書いてないのですよ」、「それは、また、どうして」、「だって、あまりすべてのことが面白いから、そっちの方がいそがしくて、何度も、書かねばいかんぞ!と自分に命令はするんだけど、現実のユーワクの方が強くて、どうも、手紙が書けんのですね」とかいった意味の会話もかわしたようであるが、くわしくは不明である。
わたしは、しかし、売るための本を持っていたからかれに話しかけたので、その方に話をもって行くと、いや、話はしてみるもので、かれもエスペラントが大変好きで、いろいろ集めているということがわかったのであった。本の他にも、l'omnibusoの購読者にもなってくれた。写真はもうかるのかどうか、かれはなかなか気前がよかった。(ただし、この雑誌の購読料は、特にもうかる人でないとまかなえないほど、高いということではないので、念のため!)
■リサのエスペラント
昔から、わたしは、いわゆるdenaska esperantistoに絶大な興味を感じて来た。はじめてから6ヵ月間は、わたしは独習していたのだが、いつのころからか忘れたけれど、エスペラントについては、「このコトバは、どうも、やはり、話せるようにならんとダメらしいな」と思うようになっていた。おそらく、そういうことから、この世に生まれつきの(すなわち、自分のように本で勉強しているのではない、自然の)エスペランチストがいると知ったとたんに、興味をもったのにちがいない。
それで、いろんな人のことを読んで知るようになったが、それはまた別のこととすると、ここに言うリサちゃんという6才の女の子のことも、UEAの雑誌かなにかで読んで知っていた。彼女は、ハロゲートの世界大会のとき、二つか三つであり、最年少の参加者であったが、イギリスの新聞記者が英語でインタビューしても、自分はアメリカ人なので分かっているのに、答えはすべてエスペラントで押し通したという、あっぱれな女史?であって、わたしは注目していたのである。
こどものエスペラントとは、いったいどんなものだろう? わたしには好奇心があったのだ。何日かは不明だが、農協ビルのまえへ行ったら、リサがいた。女のひと(日本人)といっしょにいて、英語を話していた。ビルの入口はしまっている。リサは、わたしがきくと、ここで何時とかに、両親と待ち合わせる約束で来たのに、いないのだといって、悲しそうであった。そういう会があるらしく、女の人は、外人観光客のお子様たちをお守りするためにやとわれて、どこかへ遊びに行って来たもので、エスペラントのことは知らなかった。
いかに熱心な?エスペランチストではあっても、6才のこどもにはちがいないので、リサは、両親といっしょにいても面白くないのはもっともであった。また、このヘルムース夫妻は、まことに熱心であって、たいていの会にはちゃんと出席していた。
さて、しばらく、どうしたのだろう?というわけで、しめ切ってどうにもならぬ農協ビルのまえにいた間に、これさいわいとばかりに、わたしはリサをつかまえて、いろいろ話しかけてみた。そうして、彼女の話すコトバをききながら、なるほど、きいてみれば、こういうものか、と感心しながら、リサの、やはりこどもらしいエスペラントを味わっていた。まねするわけにはいかぬが、本質は、まことに生きたコトバ使いであって、このような使い方がおとなのそれになれば、いいわけだと思った。エスペラントが人工語だからどうというのではなく、実際は、われわれ一般の使い方が、いわば人工的なので、自然にきこえないのだろう。リサのエスペラントをきいてみると、そうとしか思えない。女優のモノローグでも、こどもの話でも、しかるべきように聞こえるエスペラントである。ただ、ふつうは、そこまでいたっていないのである。
その後、ヘルムース一家とは京都でも縁があったので、まだまだ書くことはあるが、ひとまず、このくらいにする。とにかく、リサに会って、かねてアコガレていたdenaska esperantistoの、しかも、こどものエスペラントを、かなり聞くことができて、じつに愉快であった。
それはとにかく、エスペラントを話せるというコドモは、まわりにそういう子がほとんどいない、すなわち、自分が珍重されるという立場にあるから、教育上望ましい状態にあるかどうか、ひとつの問題であろうが、これはまた大きなテーマなので、これ以上は書けない。
■名前で呼ぶということ
いまでは、世界大会を東京でやることに決まったころからは特に、若い人たちもふえたので、わたしなども若年寄りぐらいになったようだが、10年以上まえは、そうではなかった。わたしは、まあ、いちばん若かった。他の「同志」たちは、すなわち、すべて先輩であった。日本のシキタリに忠実なのか、人間が古いのか、とにかく、わたしはそれらのだれかれを、みんな、ダレソレさんと、さんづけで呼ぶようになった。それは、ごく自然なことであった。
ところが、そのうちに、自分より若い学生たちに教えたりするようになり、さんづけで呼ばれるようになった。しかし、かれらを、わたしの方からは、さんで呼ぶのかクンで呼ぶのか、そこにこだわりが生じたようである。ひとをナニナニ君と呼ぷことになれていなかったので、そうなった。それにしても、合宿などもさかんになると、会う学生の数も多く、君で呼ぶことにもなれたみたいなものだが、わたしは、どうも、~さんの方が性に合っているようである。
しかも、こんどは、いわゆる「呼びすて」の問題が出てきた。何回も会い、ときには、身の上相談に類するようなことも話し合うという程度のものも出てくると、さんとかくんでなく、姓だけを呼ぶ必要もあらわれる。
わたしは「友人」ということを、かたくるしく考えるせいか、自分としては、ほとんど持っていないように感じている。もちろん、敵ではないから……という程度のamikoは別として、こだわりなく呼びすてにできる程度のamikoはあまりない。
まあ、人間の存在というあたりから考えると、わたしは友人のいない状態を非常にさみしいものと見ているが、現にこの自分に、特に友人というようなひとがほとんどいないという実情については、日常的に考えると、やむを得ないことだろうし、特にさみしゅてならぬ……とは思っていない。
そのせいかどうか、わたしは、ひとを、かなりツキアイのある人でも、あえて呼びすてにしたいという、いわば欲求を感じない。まだまだそれほどによく知らない、あわてて、そうする必要はない、ということかも知れない。それで、いまでも、ダレが、カレが…と、さんなしで言うことにコダワルことが多い。
そういうところへもって来て、世界大会である。いま書いてきたのは、呼びすてといっても姓の方である。ところが、ヨーロッパやアメリカでは、姓でなく、名を呼ぶということが、かなり一般的に行なわれている。そういうことになれた人たちが大量にやって来たのである。
エスペラントで話をするのだから、コトバは通じる。しかも、なかには、かなりキワドイことを話し合う人までできてくると、いきおい、わたしも、名で呼ばれることにもなった。しかし、それにしても、このくらいのことを話したら、もはや名を呼ぶほどの関係なのかと、例によってコダワリだし、わたしは、すぐさま、相手を名で呼ぷことができなくてなるべく名を呼ばなくてもいいように話したり、やむを得ぬときは、たとえば、LazaroとかLudovikoとかでなくて、s-ro Zamenhof!のように言いつづけたのである。
そのように、わたしは胸がせまいので、おそらくそのせいもあって、世界大会でも、特にamikoはできなかったようなのであるが、その点、梅田善美氏(かれは、わたしにとって、昔からウメダさんである)は、外人ともすぐ仲よくなる名人といわれ、なるほど、名を呼ばれ、また名を呼ぶ相手はたくさんいるのである。
ところで、外人は、この姓で呼ぶか名で呼ぶかということについては、相当ハッキリした区別を意識しているらしい。このことでは、わたしなりに面白いと思う事実はあるのだが、とにかく、わたしは、梅田さんをヨシミと呼ぶ外人たちからも、フジモトと呼ばれるのがふつうであったし、わたしも相手を姓で呼ぶならわしであった。それは、たとえば、のちには、半月以上もいっしょに旅行し、苦楽をともにした人物、シュライシェルでさえも、イブ(またはイプ)とは呼びかけにくかったという、まことに私的な事情による。
それは、長いつきあいで、いまではトナリに座っており、合宿で三宅さんがふたりを混同してから、梅本コンビとか言われた間柄の梅田さんのことも、いまさら、ヨシミとは呼べないのと同じで、相手が外人でも、どうもイプとかは言いにくいのである。そして、そう呼ばないことを、不都合であるとも思っていない。
しかし、このほど帰国したイギリス人のパーソンというエスペランチストは、亀岡で毎日顔をつきあわせていたのに、わたしがf-ino Parsonとしか言わず、エルシーという名で呼ばないことを不都合に思っていたかも知れない。というのはそれでも、自分の習慣からか、わたしを名で呼ぶことも多かったのであるが、最近、帰るとき、船まで見送って行ったわたしたちと別れるときには、かなり意識していると思える調子で、ヂス・レヴィード、フジモト!とは言ったけど、名は呼ばなかったのである。わたしは、このことに興味をおぼえた。
脱線が多いようだけれど、要するに、このように姓名の呼び方にこだわっているようでは、とてもダメで、やはり国際的に通用するエスペランチストになろうと思えば、その辺の考え方から変えて行くべきかも知れない。
(La Torĉo、1965年11月、12月号;1966年2月号)
プログラムというものがあれば、ああいうことになるのだろうが、こんどの世界大会でも、いつもの日本大会とおなじで、なにかを論じようとすると、たいてい、時間が足りないということで終わった。
参加者の数は1,700をこえたが、じっさいには何人出席したのか、わたしは知らない。とにかく、ひとがたくさん集まったのは、開・閉会式、日本のタベ、しばい、その他、要するに客席にいて他人のやることを見物していればいい、というばあいであった。そうして、協議会など、自分も何か発言して、討論に参加してこそ値うちがある、というような会には、お客?があまりこなかったのである。これが、エスペラント界にも、すでに大衆が存在していることを意味するものかどうかは、すぐには決められない。もし、大衆がいるとすれば、すなわち、大会においても、主として観客として参加するエスペラント人民が、確固として存在するものなら、それにたいするものとして、同時にエスペラント大衆(まあ、エリートというようなコトバより広い意味で、何かがあればダシモノを考えたり出演したりするものたち、大衆に対して存在するから、かりにそう呼ぶ)がいなければならない。
たとえば、カタキという芝居だが、出演したのがプロの役者であってみれば、あれは大衆によるダシモノであり、われわれは観客大衆であった。
しかし、たとえば、UEAの総会などでのわれわれは、役員の報告などを拝聴するだけの大衆であっていいものかどうか。現実には、多分にそんなところがあって、ために、UEAの役員や事務局員が、対衆として総会劇に出演しているかのように、感じられたのかもしれない。
そうなるのは、われわれがUEAの仕事と直接には関係がなく、"UEA"ときけば"ilia"として受けとり、niaという思いがしないからかも知れない。
JEIは、UEAに加盟している国内団体(Landa Asocio)ということになっているが、日本のエスペランチストたちはJEIとも、雑誌(エスペラント)の読者としての外は、まあ、直接関係がない(niaという感じでは)みたいなところもあるから、UEAともなれば、なおさら遠くなるのだろう。
JEIの会員(維持員)になれば、大体において、UEAの団体会員(asocia membro)になるはずだが、これは、もちろん、UEAの雑誌はもらえない。個人会員になると、機関誌をくれるが、UEAの個人会員は、いったい、日本に何人いるかというと、JEIの会員をざっと2,000人として計算すると、約10分の1、まあ、200人ぐらいではなかろうか。
その200人が、UEAの雑誌をよく読んでいるかどうかも不明である。よんでいても、タッタの200人。あとの大多数は、世界の(すくなくともUEAを通じてわかるだけの)運動から、へだてられている。
もちろん、JEIの機関誌には、ときどきUEA関係のニュースはのるが、十分とはいえない。日本のエスペランチスト(たとえJEIの会員であっても)が、UEAと親しくない、あるいは、UEAそのものであると思ってない、というのも当然である。
けれども、これはよくないと思う。UEAがけっこうであるかないかは別問題で、とにかくエスペラントが国際語であり、世界的に歩調をあわせて運動をすすめるのが有利であるとすれば、国際関係はうまく行く方がいいに決まっている。
そのためには、国内事情からよくしていかなくてはいけない。つまり、日本大会でも、参加者は、自分が直接参加するエスペランチストになるべきで、少数の大衆の打つ芝居の、おとなしい観客大衆であってはならない。ただの見物人になるにはまだ早すぎるのが、エスペラント界の現状であろうと思う。
― 「敬老の日」によせて ―
わたしは何年かまえに、「エスペランチスト55歳定年説」というのを書いたことがあった。書いただけで、発表はしなかった。さしひかえた、と言うべきであろう。
きょうは、9月15日、「敬老の日」である。なにか、敬老ということで、意義のあることをしなくては、ただ休んだだけでは、せっかくの日なのに、申し訳ない。
そこで、また、この問題をあらためてとりあげることにしたのである。さきにあげた、未発表原稿は、手元にないので詳細は不明だが、要点はこうであったと思う。
もちろん、エスペランチストには、個人としては、定年(ないし停年)はない。死ぬまでは確実にエスペランチストであり得る。
ここにいう定年とは、運動に参加しているときの話で、組織に入っているエスペランチストは、55歳あたりで、ナントカ会のナニナニ長といった役職からは、身をひいてはどうか、という問題なのである。
55歳というのは、世間の通例にならったまでで、最近は60歳まで延長するところも出てきたから、60歳定年説に、あらためてもよろしい。
しかし問題は、そういう、何歳をもって定年とするか、ということではない。要は、運動にたずさわるものとしては、若いうちにウンと活動しておき、55といわず50歳でもいいから、あとは後進にゆずって、安心しておられるようでなくてはならぬ、ということである。
肩書きがなくては、身がもたぬ、というようでは困る。定年以後は、それまでに、これは自分の一生の仕事だと思える何かをみつけておいて、それによって後輩たちに役に立つようであってほしい、ということであろう。
エスペランチストは、いつまでも若いひとが多い、という。精神年令は若いのだ、といって張りきっている人もいる。これは、いずれも、そのひと個人の問題としては、まことに慶賀すべきことである。
ところが、人間は確実にトシをとるのである。わたし自身も、定年にはまだまだ遠いが、10年まえにくらべると、あきらかにトシをとっている。たとえば、ラジオをつけてジャズなんかジャンジャン鳴らして平気であったように思うが、いまでは、すこし音が大きいと気になる。つまり、ヤカマシイような感じがするようになった。主観的にはそうとも思えないが、これも、トシをとった証拠であろう。
まあ、たとえば、そういうわけで、30やそこらで年寄りくさいことをいうのはよくないが、とにかく、トシをとることは、認めなくてはなるまい。
個人によって差はあるが、いずれにしても、自分で「精神年令」のことを言い出したら、それがモウロクのはじまりではないか、わたしは、そういう意見である。
だれだって、自分がモウロクしたとは思いたくない。しかし、それは、まず、のがれがたい運命である。
そこで、たとえモウロクしてもよし、そのまえにすこしは見るべき仕事をしておけば、いくらかでも救われる、というものだ。これはなにも、定年前後のエスペランチストにむかって、若いものが文句をつけている、というものではない。
こういうからには、自戒のコトバとして、言っているのである。
ただ、現状をみると、エスペラント運動には、精神的に若いつもりの人や、そんなことは考えたこともなさそうな定年前後のエスペランチストたちが多いので、このままでは、困ったことだし、エスペラント界の風通しがよくならないと心配するあまり、あえてこのよき日にちなんで、みんなの問題として考えてもらいたいと思うにいたった次第である(とはまた、年寄りくさい言い草ではないか!)。
さて、老後の問題を、この「青年学生エスペランチスト連絡協議会」の会報第1号に寄せるのは、ほかでもない:青年学生といわれる.時代は、そう長くはつづかない。いまから、定年のくることを考えにいれて、そのつもりで連絡・協議をし、運動の生成発展のために有力な活動をなすにいたる母体となってほしいからである。
「おとな」としての定年は、たとえば55歳か60歳でもいいが、青年学生のそれは、まず30歳というところであろう。とすれば、わたしなどは、いつのまにやら定年後の若年寄りエスペランチストになっていたわけで、この協議会においても現役というわけにはいかぬ。
具体論は、あまり長くなるので省略する。
(1966年、青年学生エスペランチスト連絡協議会「会報」第1号、10月1日)
たとえば、ザメンホフ氏とはいわない。カロチャイ氏とも、バギイ氏ともいわない。けれども、三宅氏といい、宮本氏という。いちいち、例をあげるまでもなく、日本のエスペランチストは、まず、みんな氏つきで呼ばれると思っていい。
世間では、わるいことをして新聞ダネになれば、氏なしで書かれる。新聞社ではそれぞれ規定があるらしい。とにかくふつうの市民はナントカ氏と呼ばれる。社会的によくないことをして初めて、氏なしで書かれる。
文学界などでは、作家を市民としてあつかうとき以外は、氏はつけない。あるいは、ついているうちは、まだだめである。作家論などで、ダレダレ氏は……とは書かないはずである。一人前の文学者と認められたものは、氏なしで呼ばれる。必ずしもそう簡単にわりきれないところもあるが、まあそんなところであろう。要するに、氏のつく市民社会と氏のつかない世界があるといえる。
それでは、エスペラント界はどうか。エスペランチストといっても、いろいろござんす……で、まずは氏つきで呼ぶのが一般的にいって無難であろう。氏というのは、代表にえらんだコトバで、s-roさんだって、同じことである。
さきに、日本のエスペランチストはみんな氏つきだ、といった。これは、現実に氏つきで呼ぶべきような、ふつうのエスペラント市民的人間しかいないから、それも当然である……といってしまえばオシマイである。しかし、そうではあるまい。あるいは、本来なら氏なしで呼ぶべきだが、まだそれにふさわしいと認められていないから、氏がついているのか、または、日本人は日常生活で氏つきになれているから……なのか。いずれにしても、氏つきがふつうである。
わたしも、カロチャイというようには、宮本正男が……とはいいにくい。わたしはハンガリーの市民カロチャイ氏を知らない。もっぱら、ものを書く人としてのカロチャイである。それに反して、わたしは日本人(といっても、エスペランチストとしてだが)宮本正男さんを知っている。面と向かって「宮本さん」といっている人が書いたものを読んでも、ただちに「宮本正男」とはいいにくいのである。これはなにも、宮本正男がカロチャイよりもアカンから……ということではない。宮本さんよりアカン外国人のことは、ナントカと、さんなしで呼んでいるからである。
ほんとは、文学とかなんとかに関係なく、エスペランチスト同士は、みんな氏なしで呼べたらいいのである。文学者ということになると、話がむずかしくなる。そうはいっても、実際には、氏をつけるかつけないか、ということには、わたしもこだわる。もし、氏なしで書いて、わたしの真意が理解(とは大ゲサだが)されず、失礼なヤツだ、と思われてもつまらないと考えるからである。
けれども、エスペランチストの名前がでてくるたびに氏がついているのは、スペースのムダでもあろうから、なんとかして、氏なしがあたりまえ、ということになってもらいたいものである。エスペランチストの「同志」というのは、水くさいもので、仲間意識というものは、うすいようである。そうでなければ、いまさら氏のあるなしにこだわるのがおかしい。しかも、これが、わたしだけのこだわりなら、話はかんたんだが、そうではなさそうである。
氏なしでやれたら……と思いながら、いまにいたるも、いろいろ事情あって氏つきをつづけている。以上はわたしの弁解だが、あなたはどう思いますか?
(Torĉo、1964年10月号〜11月号)