■はじめに
このところ、コンピュータというものが話題になり、コンピュートピアという新語まで現れてきている。そこで、この用法をかりて、これから、エスペラントピアというものについて、考えてみることにしたい。
日本とかイギリスというのと、同じ意味では、エスペラント国という国家は、世界のどこをさがしても、見つからない。けれども、なにか、それを国というコトバで言わなければ、ひとにわかってもらうことのできないような、あるものが、やはり存在しているのである。
ただ、現実には、たとえば、国際連合に加盟できるようなものを、国と呼ぶものとすれば、エスペラントのそれを、国とは言えないと思う。しかし、何かが、ハッキリとある。
わたしは、それを、ここでは、エスペラントピアと名づけたいのだ。ユートピア、コンピュートピア、エスペラントピア。これらは、いずれも、ないような、あるような、とにかく、人間の精神と、きわめて密接な関係のある何かであり、すくなくとも、ある種の人間たちにとっては、無関心ではおれないもの、なのである。
ユートピアと、コンピュートピアについては、それぞれ文献もあることだし、そちらで見ていただくことにして、わたしは、もっぱらエスペラントピアのことを語ることにしたいと思う。
■ことばの問題
エスペラントピアとは、世間では「国際語」として知られている(はずの・・・・・・)言葉を、公用共通語としている社会のことである。ふつうには、国際社会と言ったら、理解しやすいだろう。しかし、この表現は、まず、国家というものを、ことの中心におき、その国と国同士のなかにあるもの、という前提があって初めて、納得できるものである。
もし、世界を中心に考え、その世界社会の共通語として、エスペラントを見たとしたら、それは、もはや「国際語」ではなく、日本語が日本の国内共通語をさすように、エスペラントは、世界内の、ここでいうエスペラントピア内の、共通語を意味するはずである。
ことばの問題は、とりあつかうのが、非常にむずかしい。その点、教育問題と似たところがある。人間は、だれでも、生まれてから死ぬまで、ひろい意味では、言葉および教育の問題と無関係には、すごせないものである。ひとは、なにかの学問について、自分が何も知らず、シロウトだと思っているかぎり、専門家に対しては口出しはしないものだが、自分にも関係がある問題になると、だまってはいないようだ。ことばは、だれでも、専門家でなくても、日常つかっているものだし、ふつうの人間なら、結婚して子どもができたら、教育というのが問題になってくる。似ている、と言ったのは、そういう、だれにも関係があり、みんなに発言できそうに思える問題、という点なのである。
そこで、ひとびとは、深く考えることがなくても、言葉とか教育については、だれでも「一家言をもっている」ことになる。教育一般のことは、しかし、あまりにも問題が大きすぎるから、ここで論ずることはできない。
もちろん、言葉といっても、言語一般となると、これまた、大変なものだから、わたしの関心は、エスペラントピアの言葉、俗にいう国際語エスペラントに、しぼられてくる。
わたしにとっては、エスペラントは自明のことがらであり、くだくだしく述べるまでもない問題だが、ふつうは、そうはいかない。わたしの関心は、なんとかして、ほかのひとにとっても、エスペラントがそうなるようにしたい、ということにある。この世に、エスペラントが、すくなくとも80年まえから、存在しつづけてきていることを、知らせたいのである。それは、単に存在理由をのべるというより、エスペラントの存在要求といったものになることだろう。
そのためには、エスペラントのことだけを論じても、納得しにくいと思うから、ほかのコトバのことも、引きあいに出してくるつもりだ。ことばの問題は、むずかしいけれど、人間である以上、これを、さけて通ることはできない。
ところで、わたしがエスペラントを勉強しはじめてから、ちょうど満14年になり、そろそろ15年目にはいろうとしている。あるときは、自分は、この言語の学習者として、非常に熱心な人間だと思ったこともあるが、ほかの「同志」たちを知るようになって、上には上がある、つまり、わたしなどは、とても熱心だとはいえないほど、ほんとうに熱心なひとたちが、たくさんいることが、年月がたつほど、わかってきている。
それにしても、熱心の程度は別として、この問題については、14年間にわたって、いろいろ感ずることや考えることがあったので、意見はもっているのである。
ただ、わたしには、言いたいことを、理路整然と、論文にして書くという技術がないから、果してどうなることやら。
■わからない学者たち
名まえはあげないが、高名な英語学者で、エスペラントについて、マトはずれの発言をしているものが、あった。名まえを出さないのは、そんなことを言うのは、ひとりではないし、名まえを出せば、引用したり、めんどうだからで、遠慮ではない。
わたしは、その人たちの、たとえば、英語学者としての、実力のほどは、知らない。けれども、それが偉大なものであっても、エスペラントについて、いいかげんなことしか言えないところを見ると、すくなくとも、その一点では、つまらない学者だと思っている。言語の研究にたずさわっていながら、「エスペラントは人工語、だから文化がない、ニュアンスが出せない、だからダメ・・・・・・」という程度の、だれでも思いつくような、シロウトの考える意見しか出てこないようでは、英語の何を研究しておられるのやら、あやしいものだというほかはない。
これが、コトバとは、直接の関係がない学問の専門家なら、まあ、許せる。かりにも、英語という、自分の国語でない言語を勉強し、大きな辞書まで作るほどの人なら、もうすこは、人間の言語とは何か、文化とはなにか、という問題については、正当の理解ができていそうなものなのに、それがないのだ。
英語は自然語だ、伝統文化がある、エスペラントは人工語だ、文化がない歴史がない!そう思いこんでいる。その安心感だけを頼りにして、ものを言っている。学問的に研究した結果ではない。シロウトなら、それでもいい。専門家なのだから、骨がおれる話だ。
しかし、世間の人は、そんなにエライ学者が言われることなら、エスペラントとは、いかにもダメなものにちがいない、そう思ってしまうだろう。まことに迷惑するばかりだ。
わたしは、そんな人たちがいなければ、わざわざ、こんなことまで書く必要もないのだが、「エスペラントには文化がない、だから・・・・・・」という程度のことをいう学者たちが、あとをたたないので、ムダでもいい、言っておかなければ・・・・・・と思って、言うのである。
■橋の下にも人は住める
橋は、人や物を、向うへ渡すためにある。実用的には、それで用はたりているわけだ。ところが、橋からのながめ、ということもある。橋の上に、しばしたたずんで、川面なんかに目をやり、思いにふける、というやつだ。
橋は、渡るために役立ち、その上に立ってながめることもできるが、さらに、その下に住むことも可能なのである。つまり、物の用途は、ひとつには限られていない、ということがいえる。
ところで、エスペラントは、現にある諸国語にとってかわるのではなく、世界の各人民たちの意志の疎通をはかって、異国語諸国民のあいだにかける、かけ橋なのだ、橋わたしをする言葉なのだ、といわれてきた。たとえば、日本語で書かれたものを、英語に訳するように、エスペラントに訳する、つまり、ある文化を他の文化をもつ人たちに紹介するために、橋わたしをするために、訳して知らせる、というわけだ。
これは、国とか民族を中心に考えれば、もっともな意見である。国のあいだ、異民族語のあいだをつなぐもの、橋のようなもの、国際語、ということになる。
もし、村にたとえて、日本村からアメリカ村へかける橋、ということで言えば、この両村には、それぞれの伝統文化があるはずだから、そのままでは、文化の交流ができない。そこで、橋をかけて(=ホンヤクをして)どちらも、向うの村へ渡る、それだけを目的とすれば、日本村のコトバなり、アメリカ村のコトバなり、このみの橋をかけて、おたがいに文化をとりいれたら、それでいいわけだ。
ところが、日本村は、アメリカ村だけでなく、韓国村から中国村、ソ連村など、あらゆる村と接しているのだから、アメリカ橋一本ではたりない。それで、それぞれの村に通じる橋をかけて、村々との交流をはかってきた、というのが、これまでの実情である。もちろん、橋というのは、それぞれのコトバのことである。
さて、いま例にあげたのとならんで、エスペラント村があり、日本村から、そこへ橋―エスペラント橋をかけて、エスペラント村の伝統文化と交流をはかる、というのではない。
そこをまちがってはならぬ。
いま、村ということばを使って話をした日本とか中国とかいう「国」と、同じ意味、同じ次元で考えるから、エスペラントに、そういう「村固有の文化」を求めるから、それがない、といっているにすぎない。もともと、ないものを、さがしたところで、見つからないのである。
橋をわたれば、自分の村と同じような(つまり、村ということでは、同じような……)エスペラント村があるかと思って、さっさと橋を渡ったところ、向う岸には村らしいものがない、サバクみたいなものしかない、ダメだ……というようなもので、見当ちがいなのである。
村と村をつなぐのに、それぞれ別の橋(すなわち、コトバ)をかけていては、不便だから、万能の橋、つまり、万国共通の言葉のかけ橋をかけよう、というのが、エスペラントの目的だとすれば、目的は通過することにある、といってよい。日本村から、アメリカ村へもソ連村へも、どこの村へも、この橋ひとつさえかかっていれば、楽に渡れる、というのなら、目的は、好きな村へ渡って、そこの文化に接するなり、わが村へそれを持って帰るなり、とにかく、中心は村の文化にある。
そういうものなら、エスペラント村というのはないのだから、自分の村にあるのと同じような村文化があると思うのは、マチガイである。
さきほどのべた学者たちというのは、まずこの点にたいする理解がない。
さて、それでは、中心は村にある、とすれば、そこへ至る橋そのものは、村とはいえないのだから、「かけ橋」と名のるエスペラントなる橋をみて、「あれは村ではない、あの橋には、村としての伝統文化がない」というのは、あたりまえのことであり、橋の存在価値を否定したことにはならない。
それなのに、エスペラント橋は村ではない、という言葉で、エスペラントのダメなことの理由は充分つくされたと思って、安心していられる、というのは、どうも理解できない。
それに、川にかかっている橋は、村の土地に接しているのだし、この点だけから見ても、一考の余地はあるはずだ。
■橋の役割
さて、エスペラントは国際語である、というとき、それは、あくまでも世界の中心は国であり、その文化、その伝統こそが、価値あるものである、と考えるかぎりは、その言い方は正しい、といえるのである。つまり、それらの国々の文化を交流するのに、各国語によるもののほかに、国際語という橋をかけ、渡りやすくする、という意味では、正しいのである。しかも、さきほどの例でいうと、橋は村ではないのだから、橋に村の伝統文化そのものがないのは当然であり、橋は橋で、自分さえあれば、村はいらない、橋なる自分が村にとってかわる、とは言っていないのである。
それと同時に、村のほうでも、橋には、村と同じ伝統文化がないから、あれはダメだ、無用なものである、というべきではない。
ひとびとは、エスペラントに対して、結局、いまのたとえでいうと、エスペラントは橋だというが、ちっとも村の伝統がないではないか、あれは村ではないのだから、ダメである、といっているにすぎない。村でないものを村でないと言っている、それだけのことである。
橋は村ではない。しかし、それは、だから橋には何の伝統もない、というこではない。橋には橋の文化があるのだ。
もちろん、くりかえして言うが、国際語というときのエスペラントには、これを流通の手段、かけ橋として交流すべき民族文化とか国の伝統というのはないし、また、あってはならないものである。したがって、エスペラントにそれがないと言って、それで非難したつもりの人は、じっさいには、国際語としてのエスペラントを、かえってホメたことになっているのである。
けれども、それは、橋は渡るためにあるものだ、というふうに、目的を限定してしまったときの話で、あくまで、その用途は渡ることにある、としたばあいの「かけ橋エスペラント」のことである。
はじめに言ったように、橋には、別の使い方もある。その上から、水の流れをながめることもできる。恋人同士が愛をかたることもできる。しかも、橋の下には、人間が住むこともできるのである。
橋には橋の……というのは、そういうことである。
エスペラントには、さきほどから言っている、村としての伝統文化はないが、橋としてのそれは、独特のものがある。この伝統文化には、村のそれとはちがった、固有の価値があるし、橋に存在価値があるように、エスペラントにも、それはある、というのが、わたしの主張するところである。
エスペラントは、単なるコトバである、という説は、「橋を渡るときは、わき見をしないで、川の流れをみないで、ただひたすらに渡れ」といっているように、わたしには思われる。橋には、もちろん、そういう役割もある。けれども、それ以外にも、橋の使い方があるのは、すでにのべたとおりである。
ところで、いずれにしても、これまでは、エスペラントの橋としての役割について、書いてきた。それはそれで、いいのだが、次に、それでは、ここにいう橋とは、いったい何をさしているのか、別の面から説明したいと思う。
■人間の世界
エスペラントの橋は、もちろん、木やコンクリートで出来たものではない。さきほどから、川の流れとか、橋の下にも人が住む、とか言ってきたので、どうしても、具体的な橋のことを思われたかも知れないが、この橋は、川にかかっているのではない。
橋とはいっても、それは、さきほどからのたとえで言うと、日本村や韓国村から、どこか、よその村へ渡ろうとして、川岸までやってこなければ、わたれない、というものではない。どこの村にいても、あなたやわたしが、居ながらにして、かけわたすことのできる、いわば虹の橋、個人と個人をつなぐ、心の橋である。
エスペラントの伝統とか文化とかいうのは、世界の空にかかった虹の橋を見ることのできるものなら、どこの村に住んでいても、それに参加することができる。そういう、心に虹のかけ橋をかけた人間たちが、世界のあちこちに住んでいる。つまり、かれらは、日本やソ連という国の国民でありながら、居ながらにして、いわばエスペラントという虹の橋の下に住む住民なのである。
橋の下とは、世界のいたるところ、どこであっても、この虹を感じることのできる精神のもち主、そういう次元が自覚できる人たちの住んでいるところ、なのである。
エスペラントピアとは、人間の世界のことであり、エスペラントはそこの公用語であるから、本来、すぺての人間に関係があるはずだが、多くの人は、まだ、そうは思っていない。これは、教育が不足しているからでもあろうか。
そうは言っても、人類が全員一致して、いつの日にか、それを自覚するまで、「教育」が行きわたるとも思えないが…
■極端にはしる日本人
日本では、このところ毎年、「国産品認識週間」というのが、行われているようだ。それほど、日本人の目は外国を向いている、ということだろう。舶来品崇拝民族ともいわれるが、その反動としてか、また、ナショナリズムとか、やかましくなってきている。
こんなことを、いつまでも、くりかえしていて、いいのかどうか。極端に拝外的なのはもちろん、逆に、排内的になるのも、望ましい状態ではない。
それでは、なぜ、日本人は、その両極に走りやすいのだろうか。中道を行くことは、できないのか。
日本主義に、全身どっぷりつかってしまうか、両足もろとも外国へ出してしまい、日本のことをわるく言うか、どっちかになりやすい。しかし、一方におぼれることなく、いつも、日本と世界に、一足ずつのせておいて、人類の一部としての日本国住民として、くらして行くことは、できないのだろうか。
言葉というものは、単なるコトバでは終らない。たとえば、フランス語を本気で勉強していながら、しかも、フランス文化と無関係でいるのは、かなり困難なことというより、ほとんど不可能といってよかろう。じっさいには、第三者から見ると、それは、いわゆる「ナントカかぶれ」といわれる程度にまですすむのが、ふつうである。
フランスかぶれ、英国かぶれ、その他、かぶれるのは、やむを得ないことであろう。逆に、外国人のなかにも、日本かぶれしているひとがいるのと同じで、それぐらいしなくては、外国語というのは、身につくものではない。「かぶれ」といえば、極端に聞こえようが、程度の差はあっても、外国語を勉強するというのは、大変なことなのである。
とはいっても、自分は「純粋の日本人」でありたい、とばかりに、日本語と日本文化に身をとじこめておいて、それでいいものかどうか。特に、これからますます国際的になっていく社会にいて、それでいいのかどうか。
日本人であって、しかも片足は外へ出して、国際的な見地から、世界と日本を見る必要がないかどうか、これらの点について、よく考えておくべきときであると思う。
■中立のメガネ
ところで、われわれが、日本人であり、日本民族であり、日本国民であるのは、一体、何によって、そうであるのか。かりに、地球上には、日本人しかいないとしよう。それでもなお、「日本人だ!」とか、「日本民族は優秀だ!」とか、つねに唱えている必要があるだろうか。
ほかに多くの民族がいて、それぞれ優秀であればこそ、そういう問題もおきてくる。また、日本人がすぐれているとして、それは、世界には日本民族しか、優秀なのはいないから、ということではあるまい。
日本がいいのは、日本だけがそうなのではなく、フランスはフランスでいいし、韓国は韓国で、やはり、いいのである。それぞれの国民にとっては、特に、そうなのだ。
わたしも、日本はいい国であると思い、日本人はすぐれていると思う。けれども、それは、世界中の国民は、自分の国について、いずれも、そのように思っているはずだ、という意味で、そうなのである。もちろん、イヤなところ、わるい点も、自分の国のことだから、だれだって、知らぬことはあるまい。
とにかく、世界の各国民は、おたがいに、まず、その事実を認めなければならない。「自分がかわいい」のは、もっともだが、他人も、その人はその人で、「自分」なのである。要するに、どこの国民だって、自国はいい(または、カナワヌ)と思っているのだ。そこから出発するしか、しようがないだろう。
それにしても、「自分がかわいい、自国はありがたい」と思っているのは、なにも日本人だけではない、だれでも、どこの民族も、その点は同じなのだ、ということは、しかし、具体的には、わかりにくいことなのである。
だいたい、外国というのは、戦争のときはもちろん、そうでないときでも、「敵」として現われるのが、ふつうとなっている。例のオリンピックでも、国と国との競争ではない、といいながら、現実には、競技に勝ったほうの国歌が奏せられ、国旗があげられるのである。そのように、いつも「敵」として見ている国が、そんなにいい国であるとは、思いにくいという事情が、ありはしないのだろうか。
そうとすれば、敵としてではなく、外国や外国人を見る方法が、必要になってくる。
そのためには、中立のメガネをかけて、世界に眼を向けるのがいいだろう。このメガネのレンズは、いわば、一つは日本を、もうひとつは世界を向いている、と思えばいい。ここにいう「メガネ」とは、エスペラントのことである。
どこか、ある特定の国語であれば、レンズは二枚とも、その外国を向いているともいえよう。逆に、もっばら日本しか見えないというのも、これまた感心しない。日本語しか知らないのは、そうなりやすいと思う。
これではまるで、エスペラントをやっているものは、文句のつけようがないみたいだが、まさか、そんなことはない。
■かぶれと文化
言葉といえば、かならず文化が問題にされる。エスペラントにも、文化はある。しかし、それがわかるためには、エスペラントかぶれするぐらい、やらなければならないだろう。エスペラントには文化がない、などと言ってすましている人は、この事実を知らないのだ。たとえその人が、「エスペラントの16カ条の文法」といわれるものを勉強しても、それぐらいでは、エスペラントは、エスペラント文化は、わかるはずがない。ところが、世の中には、エスペラントの何たるかも知ろうとしないで、軽くあしらってすまそうとするものが、あとをたたないのである。エスペラントには、ふつうの意味での国家はないので、いくら何と言っても、国際問題になることもないし、自分にはちっとも被害がないからかも知れない。
さて、「国」というと、まぎらわしいから、〜ピアということにするが、エスペラントピアの文化があるといい、それがわかるためには、エスペラントかぶれになる必要があると言った。だがそれは、フランスかぶれや、ドイツかぶれとは、同じではない。
地理的には、エスペラントピアは地球上いたるところに散在し、各人は、現存のどこの国にいても、いながらにしてエスペラントピア住民になれる。
それは、日本国内の、どこの村、どこの町に住んでいても、日本国民であり、しかも、何々村や何々市の村民や市民であることをやめない、というのを考えれば、よくわかる。すなわち、日本人は、町民であり、県民であり、国民であるのと同じように、エスペラントピア市民になるのである。
ところが、もし日本人が、フランス国民になろうと思えば、日本国民のままではなれないし、帰化する必要があるだろう。また、たとえ国籍は取得しても、元日本人であるのはどうしようもなく、もともとからのフランス人とは、ちがうのである。
もし人類が、男だけ、または、女だけで、成り立っているとしたら、男らしくとか、女らしくとかは、いまほどやかましくいう必要はないはずだ。また、世界には日本しかないものなら、日本人らしさを失うとか、失わないとかの問題もないはずだ。
男がいるからの女、他人がいるからの自分、他国があるからの自国、という、それぞれの「らしさ」が、要求されるのだ。しかし、おなじ男でも、こどもと大人はちがう。少年と青年もちがう。とはいえ、性の転換をして、女が男になるようなものではない。同じ線の上での、成長であり、発展である。
■精神の声がわり
かりに、民族というものを、男と女のちがいのようなものとしてみると、外国かぶれというのは、男が女になろうとし、女が男になろうとしているようなもので、あまり一般化することはできない。
それに対して、エスペラントピア住民というのは、そのような性の転換、いや国民性の移転をする必要はなく、いながらにして、少年が青年になり、壮年になるように、必然的なものであり、ごく自然なものである。
もちろん、少年から青年になる過程では、声がわりその他の変化があるように、たとえば日本国民の段階まではわかっても、まだ未知の世界であるエスペラントピアに対しては、抵抗が強いのもやむを得ないところである。
けれども、男が女になるようなことではないのだから、「おれは、声がわりはイヤだ」とばかり言っていずに、日本国民たるもの、ここらでひとつ、精神の声がわりに耐えて、エスペラントピア人間になることに、興味をもっても、よさそうに思うが、どうであろうか。
■絶対と相対と
たまたま日本に生まれたから日本人であるのに、そのことに特別の意義があるようにいうものがあるが、いい気なものである。日本人がデンマーク人でないというかぎりにおいて、この「日本人であること」には、いわば絶対の価値があるが、それは、デンマーク人にも、デンマーク人であって日本人でないという絶対の価値がある、というのとおなじである。つまり、日本人にだけある価値ではない。
ほかと比較しないかぎりは、という価値である。ほかのとくらべれば、どうなるかは、わからない。しかし、日本人が、勝手に、よそよりも、自分たちがいいと思っているのは、相対的にみれば、おかしなことである。
なぜ、こんなことをいうのかといえば、たとえば、俳句だが、「英語に訳して、あるいは日本語のままで、外人にもわかるだろうか」というもの、すなわち、わかるはずがない、と思いこんでいるものが多いからである。
それが、たとえば、「フランスの詩は、われわれには、わからない、だから、逆に、日本のものは、むこうの人には、わからないだろう」と思うのなら、まだ、話はわかる。ところが、多くは、「アチラのものは、日本人には、もちろんわかるが、日本のものは、むこうさんには、わからんのだ」というのだから、あきれてしまう。
日本人というのは、どうも、そういう思いあがりをもっているようだ。「日本」とか「日本独特のもの」にたいする、ゆるぎない信仰がある。日本に独特のものがあると思うのは自由だが、それぞれの「外国」にも、それなりに独特のものがあると、認めた上での話にしてもらいたいと思う。
わたしも、どこかの国民としては、日本国民である。それ以外のものではないということでは、それには絶対の価値がある。ちょうど、それは、個人としては、わたしはワタシ以外のものではない、ということで絶対の価値があるのと同じだ。ひととくらべて、どうというものではない。
それはそれとして、比較論になれば、価値は、すべて相対的なものとなる。比較してなお、われに絶対の価値あり、と思うのは、ばからしい考え方である。「日本、日本」とばかり思っていると、そういうことになりやすい。
ことばについても、おなじことがいえる。日本語は日本語として、ゼッタイの価値があるが、比較しての話ではない。エスペラントについても、おなじである。
比較を絶しているから絶対なのに、ほかとくらべても、やはり絶対と思いこむのは、人間のたよりなさ、弱さからくることではあるが、いつまでもそれでは、なさけないのだ。
あらゆる「自分」というものを、タナにあげて考えれば、すべてのものには、相対的な価値しかないし、それでいいのである。
こんな、あたりまえのことを言うのは、もちろん、エスペラントについて、みんなが、じつにバカげたことしか、ふつうには、言わないからである。「エスペラント」というのは、当面の問題としては、そう呼ばれるコトバのことだが、じつは、それは、「人間の可能性」ということでもある。
わたしは、終始、人間のことを言っているのだが、テーマが大きすぎると困るので、もっぱら、「エスペラント、エスペラント」と言うだけである。
■理想と現実と
わたしも、日本人である以上、人間の問題を考えるときは、身近な日本人のことを思わざるを得ない。ほかの民族や国民ことをいわないのは、それらより日本のほうが、価値があるからではない。それらのことは、日本のことより知らぬからであり、それより、日本人のことなら、わたしでも、まだ「出る幕」があるかもしれん、という希望からである。
さらに、それがエスペラントのことになると、もっと、わたしの出る幕があると思うからだし、第一、興味があるからだ。ほかのことにも興味はあるが、まあ、ひとにまかせておいてもいいと思えることが多い。エスペラントのことは、そうは言っておれない。エスペラントにたいする興味は、ほかのものに優先する。
わたしに関心があることは、いわば、すべてエスペラントピアの出来事だと言ってもいい。だから、エスペラントピアと名のって書くことは、このへんで終わりにしてもいいと思う。
以上は、雑なものだが、いわば総論であり、このあとにつづくものが、エスペラントピア各論ということになるかもしれない。
もちろん、現在のところは、エスペラントは、公式的には「国際語」としてあつかうのが順当であろう。わたしのいう「エスペラントピア」論はそれとして、やはり、国際語としてのエスペラントについても別にのべる必要はあると思う。
わたしが日本人として日本のことをとやかく言うのと同じで、エスペランチストとしてエスペラントについては文句も言う。いずれにしても、エスペラントピアにも、問題は、いろいろある、ということで、エスペラントピアの事情がわかってないものが、よろこぶべきほどのことではない。
この「エスペラントピア」は、だいたい、理想というか、観念をあつかったもので、現実は、なかなか、そううまくはいかない。それはそれで、また興味もあるし、精神的にいうと、思いがかなわぬものほど、理想としての値うちはあるのだし、要するに、エスペラントピアというのは、妙な楽しみのあるところではある。
ついでになるが、エスペラントを実用しようともしない日本人たちが、このごろまた、ナショナルとかインターナショナルとか、論じているけれども、わたしに言わせれば、エスペラントをやらないものには、この問題は、実感としては、よくわからないはずだから、まじめなひとなら、この言語を学ぶことから出直してみてはどうか、と言っておきたい。
(1964年、および1967年6月)
7月号(言語生活)の随筆「バベルの塔」で、赤岩栄氏は、「自国語で世界を旅行して不自由をしない英国人や、アメリカ人がわざわざ、他国人のためにエスペラントを勉強してくれるはずはないし、僕らがたとえエスペラントを語ったとても、そういう外来語で、僕らが僕ら自身を表現することは不可能であろう」と言っておられる。
赤岩氏が、エスペラントについて、どのように思われても、それは自由なので、ここでは上に引用した文章の前半に関して、わたしが知っていることから、かいてみたい。
英語国民がエスペラントをやるばあいは、他国人のためかどうかしらないが、しかし、わざわざ[・・・・]エスペラントを勉強している英国人や、アメリカ人、オーストラリア人、さらにニュージーランド人などはいる。多くはなくても、いることは事実で、なかでも、英国人のなかには熱心なエスペランチストが、すくなくない。
わたしの体験でも、エスペラントの勉強をはじめてから、ちょうど10年になるけれど、これまで会った外国のエスペランチストの、おそらく半分以上は、英語国民であった。なお、英国人などが「自国語で世界を旅行して不自由をしない」というのは、旅行の仕方によっては、事実としても、日本人が思わされているほどには、英語は世界中で通じてはいないそうだから、割り引きしてみる必要があると思う。こういっても、英語の悪口をいっているのではない。エスペラントはもともと、英語はもちろん、あらゆる国語と対立するためではなく、共存するためにあるものだが、どうも誤解している人が多い。しかし、先入観というのは、簡単にはなくならないものだから、ここでは問題にしない。
エスペラントは、国際語とか世界共通語とかいわれている。このふたつは、同じものではないが、日本語といっても、標準語とか共通語といわれるコトバだけではなく、方言もあるように、世界共通語でも、国際語でも、混用していて不便ではない。日本の国内でも、方言と共通語の問題は、解決されてはいないのだから、各国語と国際語との関係は、なおさら困難な状態にある。しかも、エスペラントは、それ自自体「国力」と無関係だから、各国にいるエスペランチストたちが、それぞれ「手弁当」で、普及につとめている、というのが実体である。もちろん、エスペラントは何のためにも使えるから、中国では「人民中国」のエスペラント版を出しているとか、ブルガリアでも月刊誌を出しているとか、ポーラトではワルシャワ放送が毎日30分はエスペラント番組をやっている、とかいうことはあって、そのためには、エスペランチストが国にやとわれているのである。しかし、それは、まだ一部で、各自が自前で運動に参加しているのが、ふつうである。それで、エスペラント人口は、なかなか増加しないようだけれど、わたしとしては「エスペランチストは、すくないけれど、いたるところにいる!」という説に賛成している。「英語でも」通じないような、ヘンピなところに行っても、いるということである。
ところで、わたしは中学生のとき、英語の授業について行けなかった。それでも、アキラメきれずに、その後もやってみたが、やはりむずかしくてダメだった。しかし、なにか「日本語でないコトバ」は、勉強したいと思っていた。それで、エスペラントなるものがあることを知って、独習書を読んでみたら、たちまち気にいってしまった。これは、主として、発音のせいである。英語では、まず、発音にひっかかって、先へ進めなかった。ところが、このコトバは、その点、まことに調子がよかった。
語学の得意な人で、エスペラントもやっているという人は多い。わたしは、英語がダメだったのだから、日本語のつぎに、エスペラントを勉強しただけで、数カ国語と比較したりはできない。赤岩氏のいわれるように「外来語」だから、エスペラントの勉強も、わたしにはずいぶん、むずかしかった。やさしいと思うところもあったけれど、やればやるほど、むずかしいと思うようになった。しかしこれは、外来語だからというより、「人間のことば」としての、むずかしさであると思っている。日本語というのは、無意識のときから使っている。わたしにとって、エスペラントは意識して勉強をはじめた唯一の言語で、これを学習したことは、わたしなりに「人間のことば」に直面したことであった。
エスペラントは、いつでも「人工語」ということで、非難される。つまり、文学に向かない、記号のようなものだと思われやすい。それから、科学論文にも役立つのだろうが、わたしには読んでもわからないことだから、知らない。いずれにしても、わたしたちは、日本語ですら、生まれてすぐから、自分の感情を表現できたのではないように、やりもしないエスペラントでは、感情も何も言える道理がない。しかし、人工語[・・・]というコトバに対する認識がまちがっているために、エスペラントは、頭からナメラレやすいのである。感じが出るまで、それに親しんだわけでもない人たちが、いくらエスペラントのことを悪くいっても、わたしは相手になる気がしない。
10年というのは、大学を出た日本人が英語を勉強したのと同じ年数だから、多くはないけれど、かなりの時間である。もし、わたしに能力があって、はじめからずっと、英語をやっていたとして、わたしのいまのエスペラントと比較したら、どちらが「自分を表現するため」には、いいだろうかと思ってみる。たとえ、技術的に同等、あるいは英語のほうが、うまく[・・・]使えたとしてみても、心理的には、エスペラントのほうが楽なことは、これは、はっきりいえる。わたしのばあいは、想像だが、現に、両方ともできる人が、そういっていることである。
それから、日本人は、外国人(白人?)にコンプレックスを感じやすいが、わたしのばあいは、こうである。ふつうの、つまり、エスペラントを話さない外人[・・]は、非常にこわい。きみがわるい。あの人とは、自分は話ができないと思うと、不安なのである。やはり、異人[・・]という感じで、とりつく島がないような気持ちがする。
これが、エスペランチストになると、じつに安心で、話ができると思うと、気が楽であり、また、外人一般[・・・・]というのはいなくて、それぞれ、だれかれという個人であることもわかる。これは、あたりまえのことだが、話の通じない人は、やはり、ただの外人としか思えない。
もちろん、相手国のコトバができる日本人なら、その国語を使って、話ができるのだから、こんなことは言うまでもないことかもしれない。しかし、いかに外国語ができる人でも、もし、その人がエスペラントで話すのであったら感じるはずの、気楽さ、対等感というものは、おそらく、ないのではないか。
わたしには、相手が外国人だからという理由で、わたしがその人の国語を四苦八苦してならいおぼえ、つねに、相手を見あげて話をせねばならん、というのは耐えられない。しかも、外国[・・]というのは、いくつもあるのであり、主要国以外にも、人間は、たくさんいるのである。たとえ数はすくなくても、世界のあちらこちらに、ちらばっている人たちと、エスペラントを通じて話ができるのはたのしいことである。このコトバが、世界中にひろまったら……というのは、単なる理想で、わたしなどは、いま通じる範囲だけでも、いまから使おう、という現実主義者である。いまだかって、人類ひとりのこらず、それを使ったという言語なんて、なかった。国連でも、英語ひとつではなく、数カ国語が公用語になっているが、それでも、問題は解決されているのではない。
国内のことでも、方言やら共通語やら、生活の場がちがえば、使われるコトバもひとつではすまない。あらゆる人にとって、それひとつだけで、すべてを表現することが可能な言語なんて、あるのだろうか。エスペラントも、わたしたち自身を表現することが、絶対に不可能であるはずがなく、可能なところもあり、そうでないところもある、と思ったほうがいいと思う。できない、と否定するより、やれるところだけでもやってみるというのが望ましい態度ではないかと思う。
自分がやらないのなら、エスペラントをこころみているもののことは、むやみに否定しないように願いたいものである。これは、もちろん、赤岩氏のことではなくて、一般的な話である。
人類にとって、世界共通語が必要である、と思う人は多いはずだが、しかし、それがエスペラントでは困る、というのであろうか。人類には、エスペラントが心要かどうかは、わたしにはわからない。わたしの知っていることは、しかし、世界にはエスペラントを必要としている人間が、すくなからず存在するということで、それは、ソ連にも、アメリカにも、イデオロギーに関係なく、いるということである。
わたしは、10年間エスペラントをやってきた日本人のひとりとして、日本人でも、この言葉は、かなり使えるらしいということがわかったので、関心のある人も、「言語生活」の読者のなかには、おられるかと思ってちょっと書いてみた。
(1963年、「言語生活」11月号)
■「国際語概説」
白水社の《文庫クセジュ》に、「国際語概説」というのがある。ピエール・ビュルネー著(和田祐一訳)のこの本には、エスペラントのことも出てくる。
著者の専攻は言語社会学および教育学だというが、そういうフランスの学者が、国際語というテーマで、どんなことを書いているか、知っておくのもいいだろうと思う。
ほかに、言いたいことは、いろいろあるけれど、ここでは、本書にあるつぎのコトバをとりあげて、コダワルことにしたい:
《しかし、「全部エスペラントに翻訳できるが、何も言い表わせない」と断言している者もある。この言い方は極端だが、明らかに一面の真理を含んでいる。すなわち、エスペラントではニュアンスが出せないということである。自然語はエスペラントよりも複雑ではあるが、またそれだけ豊かな表現に富んでいる。このような自然語によって表わされているさまざまなニュアンスをエスペラントは犠牲にしてしまっているが、これはエスペラントの避けがたい運命である。言葉づかいの中には感情的要素があって、それが重要なものなのだが、エスペラントはあまりにも明確すぎて、いわば「胸の想い」よりも簡明になってしまうため、感情的要素は、はいり込む余地がほとんどないのである(Dr Bakonyi)。同様に、ある種の文体的ニュアンスは、いわば一つしか「声域」を持たぬこの言語では、とうてい言い表わすことができないので、俗語のニュァンス等はどうするのか、ということになる。それでもエスペランチストは何千もの作品をエス訳しようと企てた。最初からエスペラントで作品を書こうとする者もあった。》
こう断言されると、シロウトは、ヘェさよですか、エスペラントは、やっばりアキマヘンか、と思いこんでしまうだろう。そこが、ビュルネー氏のツケメだが、そうはさせない。
■おもいあがり
さきに引用したところを、読みかえすと、また、腹がたつ。この、なんという思いあがり。エスペラントでは「何も言い表わせない」とか、「ニュアンスが出せない」とか、「感情的要素は、はいり込む余地がほとんどない」とか、好きなことを言っているが、かれらは、いったい、どういう手つづきをへて、こんなことが言えるのか。
ヨーロッパ人は、一般的に、このような自信に満ちあふれているようだが、実情を知らぬものがきけば、ビックリしてしまうようなことを、平気で言うのだから、困ったものである。しかも、「エス訳しようと企てた」だの、「書こうとする者もあった」などと、よくも言えたものだ。何が、企てた[・・・]だ、書こうとする[・・・・・・]だ。これでは、まるで、じっさいには、何も書かれていない、ということではないか。
もちろん、それが、言いたいことなのだから、この表現は、もっともであるが、なおさら、腹がたつ。
まったく、エスペラントに、ニュアンスを表わす力がなく、著者らの言うとおりだとしたら、ある意味で、わたしはおおいに喜びたいくらいである。じっさいは、エスペラントは、ニュアンスに富む言葉であって、文体も、声域がひとつということはなく、きわめて複雑なので、かえって、困っているくらいだからである。
もし、「人工語」ときいて、人びとが想像するとおりの、貧弱な言語であれば、非常にありがたいと思う。そうでないのに、そう思いこまれていては、いかにも損な話である。
それに、ニュアンスとは、感ずるものであるはずだが、かれらは、エスペラントでそれを感じるまでやってみて、そんなことを言っているのか。単に、そう決めつけているだけにちがいない。
とにかく、かれらも、ニュアンスが、「ない」と主張するばかりで、何らの証明もしていないのだから、それに対しては、わたしも「ある」と言うだけにしておく。第一、ここで簡単に説明して、かれらを納得させることができる程度の、たったそれだけのニュアンスしかないのなら、何も腹をたててまで、「ある」と言うことはないからだ。
さて、著者は、人工語のうちの後験的言語を二つのグループに分け、つぎのように言っている:
A) 図式派(schématique)の言語(たとえばエスペラント)は単純さと規則性を目標にしている。
B) 自然派(naturalistes)の言語(たとえばインテルリングワ)のように現存する言語形態にできるだけ近いものであろうと努カしている。
■「自然さ」とは?
さて、それでは、言語における、いわゆる「自然さ」とは、いったい何であるか。それは、おそらく、「いやおうなし」「もって生まれた」「リクツではない」といったことを含んでいるだろう。
そうとすれば、この「自然さ」をあらわすコトバで、わたしにとって自然[・・]なのは、まさにこの「自然さ[・・・]」という日本語であって、それを意味する、たとえばこの本にあるフランス語の「naturalité」とかいう単語ではない。これは、もちろん自然語のフランス語での自然さ[・・・]を表わすものだから、フランス人にとっては、その自然さ[・・・]において、これにまさるものはあるまい。
ところが、このわたしにとっては、ちっとも自然ではない。日本語では、自然さ[・・・]という音で表わすものを、naturalité(編集人注:下線付き)という音で表わして、どうして、それが自然でありえようか!
わたしは、自分で日本人になろうという意志をもって生まれたのではなく、日本語を学びましょうと思って、やってきたのでもない。気がついたら、日本国民というものであり、学校では、「国語」として、日本語を教えられていた。つまり、いやおうなしにおぼえた言語、いわゆる自然語とは、わたしにとっては日本語しかない。
フランス語で、いくら自然だとはいっても、いまさらnaturalitéが、わたしにとっても、自然であるとは、そりゃ聞こえませぬビュルネーさん! である。それは、わたしがフランス語を知らぬからであり、たとえ、いまから勉強するとしても日本語とは、出だしからしてちがうからである。
日本語ではないもの、ということでは、その点、わたしにとっては、フランス語のnaturalitéも、エスペラントのnaturecoも、同様に不自然である。ただし、出発点では、そのはずだった、ということで、いまとなっては、日本語の自然さ[・・・]というコトバは別として、自然さ[・・・]を表わすコトバで、わたしにとって自然なのは、エスペラントのnaturecoであって、フランス語のnaturalitéではない。
なるほど、naturalitéを自然なものとしている人間(たとえばビュルネー氏)から見れば、natureco(編集人注:下線付き)は不自然・図式的なものではあろう。しかし、自然さ[・・・]を自然なものとしている者(すなわち、たとえばフジモト氏!)をして言わしむれば、それは目クソ鼻クソの類であっておかしなものである。
さらに言えば、わたしは、自然さ[・・・]のつぎに、これを表わす別のコトバとしては、naturecoしか知らないのだから、もし、フランス語を学ぶとしたら、naturecoをもとにして、それからnaturalitéに行くのである。そういう眼から見ると、後者は、前者よりも、どうも自然ではない…要するに言語における自然さとは、かなり相対的なものではないか。
■エスペラントのいいところ
それから、つぎに、逆の面からいうと、エスペラントが、自然派ではなく図式派である、という点は、かえってエスペラントの長所なのである。
この本には、人工語の見本がいくつか出ているが、いわゆる自然派のインテルリングワのそれを見ると、たとえば、「これは、ルーマニア語です」といわれても、なるほどそうか、と思うような感じのものである。
わたしはルーマニア語は知らないので、そういったまでで、ほかの国語でもよい。とにかく、それはいわゆる「自然語らしい」外観をしている。いかにもどこかの国語という感じがするのである。
それからみると、エスペラントは、図式的というのであろうか、整然としている。ここに、国際語としてのエスペラントのよさがある。これについて、日本語を例にとって話をしよう。
日本の、いわゆる「共通語」というのは、各地の方言からみると、いかにも図式的であり、不自然なものである。さきの引用文にあった「感情的要素」となると、方言のほうが、どれほど豊かであるか知れない。
それでいて、日本の共通語は、文句をいわれないのである。それは、国家というものが支配的な現状では、これが日本国民にとっては不可欠の「国語」だからであろう。
けれども、この国語を、いまの方言の位置において、そこヘエスペラントを世界の共通語としておき、エスペラントを中心にして考えてみると、それらの関係が、よく似ていることが、わかるはずだ。
用途を国内に限っていても、とにかく、国語というのは、広く「共通」というものを目的としているので、いわゆる「感情」の面では、よりせまい生活圏に通用する方言よりも、弱いのは当然であり、それが「世界共通」を目標にしたエスペラントになると、なおさらそうである。
それも、しかし、相対的な問題で、方言おいても、孫はじいさんよりも、感情やらニュアンスの表現の点では、おとっているだろうし、逆に、エスペラントでも、これが、もっと一般に使われるようになれば、ちがってくるはずである。かりに、いまのエスペラントが、「国際語概説」の、さきほどの引用文にいわれるとおりのものであったとしても、だからダメだということにはならず、それどころか、いまのうちに、方言やら国語やらを異にしている世界各地の人民どもがよってたかっておおいに使い、もってニュアンスでもなんでも、おいおい豊かになるように、さらに努力すべき性質の問題なのである。
■欠点が長所
この本を読んで、わたしが感じることは、自然とか図式とか言っても、要するに著者が西洋文明というか、ヨーロッパの文化を中心にすえて、国際語についても、それを自然としていることである。もちろん、エスペラントといえども、この文化と無関係にコネあげたコトバではない。それどころか、ずいぶんと、これに気をつかい、いわば引きずられながら、なんとか格好をつけた、というところなのに、それをしても不自然呼ばわりされるのだから、日本語という世界でもめずらしい言葉からエスペラントに入って苦労しているものには、どうにも、承服できない発言といわねばならぬ。この本の著者も、エスペラントについて、判でおしたような批判をする、多勢の人間とおなじく、あえて言えば、自然のなんたるかを知らない人だと思ってもいいようである。
失礼ながら、つい、そうも言ってみたくなるほどである。
■苦労するほどの「ニュアンス」
ニュアンスということで、さきにもすこしふれたが、もしエスペラントで、それが出せないというのが事実なら、それも、サッパリしていいと思う。ところが、実情は、いろいろとニュアンスがございまして、ために苦労がたえない、というほどなのだから、ままならぬものである。また、それが、いわゆる自然語、方言とまではいわぬとしても、すくなくとも各国語におけるほどにも、ゆたかでないとすれば、それは、とりもなおさず、人類がまだ世界人になっていないということで、エスペラントそのもののせいではない。
ひとが、エスペラントに対して批判をし、欠点とするところは、同時に長所でもあるのは、以上でおわかりと思う。逆に、いわゆる自然語の長所というのは、それを国際語として考えた場合、ただちに欠点となるのである。世に完全な言葉はない。かりに、言語としては完壁なものがあったとしても、それですべての事象を表現しきれるものではない。
人間は相対的な価値の世界に生きている。自然派にもいいところがあり、図式派にもいいところがある。相対的にみれば、エスペラントは、きわめてよくできた言葉である。
これは、「国際語概説」という本を紹介する目的で書いたのでは、もちろんない。この題名から想像される以上に、フランス語のことが(国際語として)あつかわれていて、不満なところの多い本だが、それでも、このテーマで書かれたものは、日本語では、ほとんどないようだから、関心のある人は、じかにあたって読んでほしいと思う。ここでは、「自然さ」を問題とするのに利用させてもらっただけだし、本書の価値は、また、別のところにあるからである。
(1964年、ただし未発表;1967年)
■日本人のウカツさ
どこかの「国民」ということでは、わたしは、日本人以外であったことはない。興味の根本は、わたしのばあい、人間の可能性にあるが、当面の問題としては、自分もそのひとりである日本人というものが、とくに関心をひくのである。
無関心でおれないのだから、日本人のことは、あらゆる点で気になるけれど、わたしは「コトバと日本人」ということで、考えてみたいと思う。
まず、わかるのは、日本人のウカツさである。本来、もっと、言語の問題に「目ざめて」いいはずなのに、その気配がないのだ。日本が島国で、それだけでひとつの世界、あるいは言語圏をつくっていて、そのなかだけで、充分用が足せるから、眼を転じて外をながめることがなく、言語問題に直面することもない、というところか。
ウカツというのは、対外的な言語の問題についてばかりではない。いわゆる「国語問題」というのは、日本では、もっぱら「国字」の問題に、すりかわっている始末である。当用漢字とか、送りがな、とか、要するに「字の書き方」だけが、論議のマトになっている。日本語の問題は、それにつきる、といわんばかりである。
ときどき、国語審議会のことが新聞に出るが、「まだ、そんなことを言っているのか」と思うことが多い。当用漢字の数をふやすとか、かなづかいがどうとか、日本語の問題としては、じつは、小さいことを、さも大事そうに、論じあっているからだ。
もちろん、それらも、それ自体たいせつなことだから、問題にするのはよろしい。しかし、それ以外のことが出てこないのは、どういうことなのか、まったく、わからない。
第一、日本には、すでにそう呼べるような、「日本語」が、全国共通の話し言葉として、存在している、と思っているのかどうか。わたしは、それは、まだないから、これから、つくって行くべきだ、と思っているのだ。
■「書きことば」は共通
なるほど、「書きことば」としては、すでに共通語は存在している。送りがな等で、多少のちがいはあっても、日本のどこで発行されている「地方新聞」でも、これまた、どこの人が読んでも理解できる、全国共通語で書いてある。送りがなも、地方別の差ではなく、世代別、あるいは、単なる無知による相違であり、とにかく、全国どこへ行っても、同じ日本語で新聞が発行されているのは事実である。
本も、大多数は東京で発行されるが、日本のどこへ行っても、同じコトバで読まれている。書いたり読んだりする日本語は、全国共通のものが、すでに存在しているわけだ。
■「聞きコトバ」
読み書きの面で理解されるコトバとして、いまある日本語はいろいろ問題はあっても、共通語の役割は果している。
つぎに、音声を中心に考えたばあいは、そううまくいっていない。目と耳の能力の相違であろうが、目で読んだら一様でも、耳できくとそうでない。しかも、耳と口になると、ちがいは、さらに大きい。
たとえば、NHKの放送は、いわゆる全国津々浦々、どこへ行っても聞こえ、コトバも地方別ということはなく、ひとつである。NHKから放送しているコトバが、どこでも理解されているとすれば、すくなくとも、日本語は「聞きコトバ」としても、全国共通のものがある、まあ、そういっていいだろう。「北は北海道から南は九州まで」、東京から放送されるニュースなど、だれでも、聞いてわかっている。要するに、聞けばわかる。しかし、だからみんなが、口を開けば同じコトバで話せるかというと、それができないのだ。「聞きコトバ」までは、全国共通のものがあるといえる。
■音に問題がある
それが、いったん口をきくと、まちまちとなる。問題は、音を発するときにあるわけだ。それをどうするか。ここで、日本語そのものに、テーマがしぼられてくる。
もちろん、人びとが、各地方の方言でしゃべっているかぎり、その地方の人たちにとっては、なにも問題はない。しかし、A地方の方言をZ地方の人がきいたのでは、わからないし、たとえわかっても、こんどは話すことができない、ということになる。
方言はしばらくおき、他地方のもの同士が話をして、おたがいに通じるコトバとして、全国共通語があってもいいわけである。さきほどから、読んだり書いたり、さらに聞いてわかるところまでは、あつかってきた。
問題は、「はなしコトバ」として、共通語は、可能かどうか、もしできるとすれば、どうすればいいか、というところにある。
■こども会議
NHKのラジオで、日曜の午前に、「こども会議」というのを、やっている。ときどき聞くことがあるが、じつに面白い。しかし、そうばかりも言っておれないものがある。
それは、東京のこどもたちが、やはりこどもが司会者となって、何かについて話し合いをする「会議」は、きいていて面白いが、地方のこどもたちのときは、それとは別のものを感じる、からである。
東京のばあいは、用語は、標準語というより東京弁なのだが、これは、いかにも「日本語」という感じがして、きいていても気楽である。こどもたちが、楽にしゃべっているからでもある。
それに反して、地方のこどもたちは、ナントカ弁ではなく、「共通語」で話をしようと努力をしている。努力はしていても、きいているものには、すこしツライところもある。すなわち、東京のこどもたちのように、気楽に、自由にしゃべっていないからだ。
■地方人と「共通語」
しかし、本来、共通語とは、そういうものかも知れないのだ。なにしろ、日常のことばでないコトバで、自分の考えを発表しようというのだから、自由自在というわけにはまいらぬ。その点は、おたがいさまである。
ところが、そういう地方人の努力を笑うかのように、東京人のは、きわめて調子よく、何らの努力が認められないのだ。というのは、かれらは、単に東京弁をしゃべっているのに、われひとともに、「共通語」で話をしているかのように思ってしまうからだ。一種の特権乱用であり不平等である。
東京以外の地方…といったが、ひとつ例外がある。関西である。ここのこどもたちは、おとなもそうだが、関西弁でしゃべってすましている。すくなくとも、「共通語」で話をしていても、関西弁が自由にまぜて使われるようだ。すくなくとも、それを出さないための努力は見られないのである。
■東京人とアメリカ人
東京人は、アメリカ人みたいなものだが、関西人は、まず、フランス人というところであろう。外へ出ても、アメリカ人はアメリカ弁で押しとおし、それに反して、フランス人はフランス語でやる…というのと、日本における東京と関西は、にているようだ。
世界にアメリカ人とフランス人しかいず、日本には東京人と関西人しかいない、とうことであれば、それでもよかろう。問題は、そうでないから、おきるのである。つまり、世界には、たとえば、日本人がおり、日本には東北人や九州人がいて、それぞれ、コトバで苦労をしている、ということである。
■必要な「人工性」
では、どうすればいいか。わかりきったことだが、世界の、または日本の、共通語をひろめることだ、そして、その共通語は、自然語と無関係にこしらえたものであってはいけないが、それ相当の人工性が加わったものであるべきだ。
わたしたちが、エスペラントを世界にひろめようとしているのは、そういう意味で、日本の共通語にとっても、無関係の運動ではない。それどころか、国内共通語と国際共通語とは、車の両輪のようなものといってよく、その点、ある意味では、国際語のほうが、すこし進みすぎた現在では、もうすこし国内共通語の問題をとりあげてみるのも必要だと思う。
エスペラントは、自然語にもとづいてはいても、適当に人工性が加味されているところが共通語として成功した理由だと思われる。それから見ると、いまの日本語には、共通語に必要な人工性が不足している。それは、東北人などが話すときに感じられる一種のオカシサというかユーモラス?な感じがするところに、あらわれている。
■まず「正しさ」を
共通語としては、日本全国どこのひとがシャベっても、すくなくともオカシくは感じないというキマリが、人工的に決められてあるべきだと思う。あるいは、マチガったコトバ使いだと感じられない配慮が、といってもよい。それをきいて、美しいと思うかどうかは次の問題で、まず、平等の正しさがあるかないかが、第一に重要なことである。
エスペラントも、きいていてキレイに感じるように話をするのは、むずかしいが、基本的には、どこの国のひとがシャべっても、一応、正しく話ができるように、キマリがある。
それと似たことが日本の話し言葉にも望ましい条件だと思うし、それが必要なことを、みんなが納得することが、ひいては、エスペラントという国際共通語にたいする認識をひろめるためにも、必要だと思って、以上、原則的なことだけでも、かいてみたわけである。
■首尾一貫する三種のコトバ
要するに、現代人として生まれたからには、どこの国民であっても、住んでいる土地の方言と、民族文化につながる国語と、人類の住む大地いたるところに共通する文明のコトバ「エスペラント」、この三種の言葉を使って生活するのが、まあ、すくなくとも、そうしようと努力するのが、文明人として、望ましい態度だし、人間としてもふさわしいし、なにより、首尾一貫するやり方だと思う。
これまで、終始一貫、「人間共通語の存在要求」をつづけてきたつもりであるが、これでもなお、なるほどそうか、それでは…と思わないひとは、これからさきは、ほとんど読む必要もなさそうで、じつは、あるという……
(1967年8月)