エスペラント・アラカルト (9)

㉝クララ夫人の思い出

 今月は、前回につづいて、ザメンホフの弟、レオノの語るクララ夫人の思い出を中心に見ていこう。

「兄(ザメンホフ博士)が、命の縮む思いをしながら、不平も言わず、すすんで毎年一度、世界大会に出るという義務を果たすことができたのは、クララ夫人のおかげであった。クララがエスペラントの大会に出席したのは、夫の晴れの舞台に自分も出ていたいという気持ちからではない。むしろ、病弱の連れ合いにつきそう義務感、病気でも夫の出席は欠かせないという意識から出たものであった。

 第二回(一九〇六年)のジュネーブ大会から、すでにエスペラント改造論者たちの最初の攻勢が始まっていたことは、エスペランチストのみなさんならご存じのとおりであるが、世界大会に出席することが兄にとって勝利のよろこびではなく、苦痛をともなう義務であったことは、どなたにもお分りであろう。

 勝利と心痛の十年が過ぎたとき、突然、戦争が始まった(一九一四年、第一次世界大戦)。これは、エスペランチストたちが、ほとんど三十年にわたる働きによって、辛苦の果てに築いたものを、何もかも一挙に破壊してしまった。

 すくなくとも兄には、そのように思われた。自分が大切にしている思想(国際語やホマラニスモのこと)から無理やりに引き離されていた兄は、一段と病気が高じるばかりであった。

 ザメンホフ夫妻にとっては、比較的おだやかな短い期間が過ぎて、またもや苦難の年月、しかも今度は絶望的な時代がやってきた。なおる見通しのたたない、重い病が、あたかも不吉な黒雲のように、二人の頭上にかぶさっていた。これまでのどの時期にも増して、この時、兄は強力な精神的な支えを必要としていた。そして力の限り、この支えを兄にあたえたのはクララであった。

 この戦争中の、望みの断たれた歳月のことは、その他の恐ろしい体験や、肉体的なまた精神的な苦痛、物資のない苦労などとともに、よくおぼえているが、兄のルドビコが三年の間、どうやってこれらすべてのことを耐え忍ぶことができたのか、いまでもよく分からないでいる。

 この不可能なことを可能にした唯一の人物は、夫の苦しみをやわらげるために自分の性質のいいところを総動員してつくしたクララであった。これは、せめて戦後の時代が始まるまでは、夫のいのちをもたせるのだ、という希望があってできたことであった。二人が夢に描いていたところによれば、その時、エスペラントは、さらに大きな力を身につけて、よみがえるはずであった。

 その夢は、すくなくとも夫婦のうちの一人にとっては、かなえられなかった。大戦中の、最も恐ろしい時期に、亡くなったからである(一九一七年四月十四日)。

 クララはひとり、残された。それから何ヵ月かのあいだは、身の上におきたことの心労のため、いつも変わらぬ、おだやかな性格も、まったくこわされてしまったかのようであった。クララは、もはや生きていることの目的が分からなくなったひと、という印象をあたえた。

 だが、この時期はさいわい、長くはつづかなかった。自分ひとりになって、クララは、また元気をとりもどさねばならなかった。おさない娘が、まだ一人、いたからである。夫の遺志を継ぐかのごとく、クララはつねに行動的で、エスペラントのための仕事に熱心になった。

 クララは戦争が終わるまで生き、戦後はエスペラントが新しい成功をおさめるのを見ることができた。クララの晩年は生活もなかなか大変であったが、これらの、エスペラントの発展が唯一のなぐさめとなっていた。

 忘れることのできない、人生の伴侶の思い出を胸に秘め、クララは夫が埋葬された場所に、残されたものの愛をささげた。クララは、いずれすべてのエスペランチストたちが建てる記念碑の形で示されるはずの、栄誉の日にそなえて、注意深く夫の小さな墓をまもっていた。その日が来るのを忍耐づよく待ちわびていたが、ついにその時を迎えることなく亡くなってしまった。クララの最後の望みは、夫のかたわらに埋葬されることであった。

 エスペラントの創始者の墓の上に記念碑が建つ時が来たら、それは同時に、その人の生涯の味方であり協力者であった女性を思い起こす祭典ともなるように。

 クララには、エスペランチストたちが心の片隅にせよ、感謝の念を抱いて思い出すだけの、功績はあったのである」

 二回にわたって、全訳ではないもののほとんどそっくり、紹介してきた文章の原文は、一九二五年一月号の『文学界』(LITERATURA MONDO)に出たものだ。この雑誌は、日本で出版された複製版で持っているが、もともとはハンガリーで刊行されていた、エスペラント界の有力な雑誌であった。

 ただし、今回は、それからではなく、近刊予定の『ザメンホフ著作集』の別巻という、これまた複製の本から訳した。

 いつかはクララのことを……と思っていたが、まずはこういう姿で紹介できたことをよろこんでいる。

㉞辞書と単語

 先ごろ取材で来日されたローマン・ドブジンスキさんのことは、本誌でも紹介された。わたしも、わずかの時間ではあったが、お話をする機会を得た。

 氏の言葉の中で、「エスペラントは、辞書によって習得できる唯一の言語だ」というのが印象に残っている。どういうことかというと、エスペラントは、辞書に入っている単語が、一語一語独立した語になっていて、しかも、文法の規則も、それぞれの単語に組み込まれている言葉だ、という意味なのだ。

 初期の本では、いちいち、どこで切れるかが明白に分かるように、単語の要所要所にシルシがついていた。学習者は、そのシルシで区切られた部分を見て、どこからどこまでが単語か知ることができた。そして、それがそっくりそのまま、辞書の中に並んでいるのだった。

 本来の姿からいえば、エスペラントの辞書は、そのようにできているべきである。しかし、現実には、各単語に訳語をつけておく必要からか、いまの辞書のばあい、OとかAなどの語尾がついているのが一般である。たとえば、BONはBON(善)として、OはO、AはAとして、別のところに出ていたのが、いまでは、BONA(よき、親切な)、BONE!(よし!)、BONO(善、利益、幸福)のようにして出してある。いま、と言ったが、ここに出した訳語は、わたしが昔つかっていた『新撰エス和辞典』によった。

 さて、「辞書によって習得できる」というのは、エスペラントが、そのように組み立てられている、ということであって、実際に「辞書だけで」習得した人がいるかどうかは知らない。わたしも、かなり多くの単語は、辞書から直接おぼえたけれど、エスペラント全体のことになると、その他の読み物のお世話になっている。読み物といえば、まず、どんな本を読んでみても、知らない単語というのは出てくるもののようである。多いか少ないかの違いはあるが、たとえば二百ページぐらいの本を読んで、未知の単語が皆無ということはなく、いくつかは知らないのが出てくるのである。もっとも、それらは大体において名詞であって、動植物、あるいは鉱物の名であることが多い。あるいは、「どこそこのナントカ」のように、外国の何か特定のものを示すというぐあいで、基本的な意味での普通の名詞なら、一時は、ほとんどおぼえていた、と言いたいぐらいだった。それもこれも、いまでは、すぐに出て来なくなっているのに気がつくありさまである。

 何千もの単語をおぼえてみても、そのほとんどは使うこともめったにないし、ある意味ではムダなことのように思われる。ただ、一生に一度しか出会わない単語でも、大事なときに知っていると、ああやっぱり、出てきたか、おぼえていてよかった! ということもあるし、ムダだと決めつけてしまうこともできない。

 それに、いつまでたっても、努力を要するのが単語との付き合いだと思う。カタチをおぼえるのは、わりに早くできるけれど、その単語の意味ということになると、全部をよく知っているのは、たやすいことではない。意味となると、他の単語との関連も出てくるし、それぞれの「違いが分かるエスペランチスト」になるのはむずかしい。その辺のことは、もっぱら辞書が頼り、という次第になっている。

 日本語など、国語の場合は、一般に、「そうは言わない」という式に、ある表現について、わりに素直に言うことができる。エスペラントでも、それはあるのだが、いままでは「そうは言わな」かったかもしれないが、そう言われてみればなるほど、そうも言えるかもしれない表現、というのが出て来たときは、考えてみる必要がある。

 エスペラントは、いまのところ、日常生活を同じ国内でしている人たちの間で毎日つかわれている言葉、というわけにはいかず、そういう生活に基づいて「そうは言わない」とは言いにくい事情にあるからである。いわば、あらゆる表現の可能性ということについて、つねに考えてみる余地がある、と思っておいたほうがいい言葉なのである。

 エス・エスの辞書には、ともかく定義があるし、用例も出ている。ある定義が正しくないとしても、それに代わる定義を示さないかぎり、訂正はできない。それまでは、辞書に示されているものをモノサシとして行くほかはない。

 そのような意味でも、エスペラントは辞書の中にあるのだし、その結果、辞書によって習得が可能なのである。と、これは、すくなくとも基本原理としては、そのようでなくてはならない。国語のように、ドコソコ人の生活があって、それによって、「そうは言わない」とかが決まってくるのでは、外国人としては、その言葉の主人にはなりにくい。その点、エスペラントは、それをつかう人の努力次第で成果が目に見えて表れてくるような言葉だといってもいいのではないか。

 エスペラントを「辞書によって習得できる言語」にするために、ザメンホフは大いに苦心したのであり、見事に成功したのであった。

㉟旅と記録

 久しぶりに、また、旅に出ようとしている。前回は、たまたま、かさなって、一九七四年と七五年の二年連続であったが、今度のは十二年ぶりということになる。エスペラント発表百周年記念の世界大会が開かれ、それに出席するために行くのだが、開催地のワルシャワへは七四年にも行ったことがある。もっと前、六九年の夏にも、訪れているから、ワルシャワは三度めということになる。日ごろは、いちいち思い出しているわけでもないのに、やはり一度でも行ったことのある土地というのは、なつかしい思いがする。と、こうして書いてみただけで、街の光景が浮かんできた。

 そういえば、初めて外国へ行ったときから、ひとつ宿題が残っている。旅行記を書くことである。ひとに頼まれたわけではなく、自分で、書いておきたいと思い、時どき思い返しているだけなので、だれかに迷惑をかけているのではないけれど、いずれそのうち、と先へのばしてきた。それから二度も旅をしながら、一冊も書かないまま、四度目の旅に出ようとしている。書かないというのは、書けないということでもある。もっとも、何も書いていないのではない。エスペラントの雑誌に、会ってきた人たちのことを書いたりしたのは、いくつもある。けれども、それらは、旅行記というものではない。別に、旅をしたら必ず本を書かねばならぬという規則もないし、わたしが書かなくても、だれも困ってはいないのだが、本人としては心残りなのである。

 書けない理由は、いくつかある。最大のものは、要するに怠け者だということにつきる。本一冊分というと、すくなくとも原稿用紙三百枚(四百字詰)ぐらいは要る。構成を考え、いわゆる「読ませる」内容と文章の本にすること、それを書きつづけていく持続力、等々、やはり本一冊というのは、ひとつの世界をつくり出す作業の結果、できあがるものであるが、そういう能力が欠けているのであろうか。

 それとは別に、これは口実になるが、自分という人間にも原因がある。書く以上は、ほとんどバカ正直に、何でも書きたい、というのが根本にある。が、それはできないので、やはり、書く以上は、何らかの意味で「作品」に仕立て上げるほかはない。事実あったことと、それについて書いたものとは、別のものであるから、すべて、書かれたものは作品にはちがいないことは分かっている。読む人にとっては、書かれたものがすべてであるから、逆にいうと、作品になっていないものは、読めたものではない、というのも事実である。

 旅はそれ自体、ひとつの事実であり、それについて書いた旅行記は、もうひとつ別の世界を表したものだから、何も不都合はないのだが、わたしとしては、何か納得したくない気がある。他人が書いた旅行記は読むが、その場合は、事実としての旅は知らないから、作品世界のよしあしだけですんでしまう。両方とも知っている自分の場合は、どうしても気になるのである。まあ、これは言ってみても始まらない話ではあるが。

 そのほかにも、かなり現実的なこととして、こういう理由もある。旅先で会うエスペランチストには、「ここだけの話だが」という前置きで聞かせてもらう話も時どきある。じつは、そういう話題こそ面白いのだが、書くわけにはいかぬ。

 今度も、また、そのような理由が重なって、結局、本は書けないかもしれないが、しかし、何かいい方法を見つけて、いつかは書いてみたいという希望はすてていない。

 旅の記録といえば、わが家には一人、一度の旅行をして本を二冊、すでに書いてしまったひとがいる。最初の本で、ささやかながら有名? になり、本は文庫本でも出ている。で、今回は、新聞でも「シベリア鉄道に乗って、ワルシャワ大会へ行きませんか」と呼びかけてみたところ、行きたいという人たちが次つぎに申し込んでこられた。しかも、神戸港から船で上海へ渡り、あとは北京、ウランバートル、イルクーツクと、中国、モンゴル、ソ連を通過し、ポーランドに入るという長い旅なのに、このコースで十八人の参加がある。空路、中国入りし、北京で先発組と合流するコースにも十二人の参加があり、さらにモスクワでも三人が追いつくという風で、総勢三十三人でワルシャワに到着の予定となっている。十代に入ったばかりの小学生から二十代〜七十代にいたるまで、各世代にわたっている。七月七日出発の第一陣は十八日かけてポーランドにたどりつく。

 上海、北京と、途中、各地のエスペランチストたちと交流をしながら行く。なお、この旅では、長さを生かすべく、移動合宿というか、エスペラントの特訓もすることになっている。参加者の学力は講師クラスの人から、中級者、初心者、さらに、まったくはじめての人まで、いろいろである。

 もし、全員が旅の記録を書くことにでもなったら、どういうものができるのだろうかと、いまから、それも楽しみにしている。その前に、みんなで楽しい旅にしなくてはならないが。

㊱昔と今

 本号の発行日、八月一日は、エスペラント発表百周年記念第七十二回世界エスペラント大会の最終日にあたっている。

 七月二十五日午後から前夜祭、ちょうど百周年の七月二十六日に開会式典、八月一日に閉会式が開かれる。会場の「文化科学宮殿」の大ホールひとつでは、収容しきれないほどの出席者が集まるはずである。その数は、おそらく六千人に達することであろう。

 これだけの人数を集め、一週間にわたって大会を開くのは、しかし、容易なことではない。それでも可能な理由のひとつには、通訳料が不要ということがある。これが、通訳の入る一般の国際会議であれば、巨額の通訳費がかかる。

 これは、全体としては「大会」であって「会議」ではないし、専門家だけの集まりでもない。中には、一部、会議も含まれているが、だれでも参加できる会合が多い。世界エスペラント協会の評議員会も、興味があれば傍聴できる。今回の大会テーマは「エスペラント――国際文化の百年」だが、これについては、すでに㉛(三月号)でも触れてある。

 世界大会は、最大の行事だが、七月と八月に限ってみても、いくつも催し物がある。青年大会あり、盲人大会あり、子ども小大会あり、という風で、各種の会合がポーランドやハンガリー、ユーゴスラビアその他、各国で開かれる。西側でもオーストリアでは別の団体による会議もあるし、研修会となると、さらに多くなる。まだ、数えてみたことはないが、こういう催し物の延べ日数は、かなりのものになるはずである。

 いつか、これらの集会に、ダブらない限り、つぎつぎに出てみたいと思っている。今回は、行き着くまでに日数がかかりすぎるため、そういうわけにはいかないものの、夢の一部は、かなえられそうである。各民族の橋わたしの言葉、エスペラントの「はしご」ということになるが、一日に閉会のあとは、二日からユーゴのザグレブで引きつづき行われる文化祭に回る。ここは、昔からエスペラント運動が盛んなところで、ラジオ放送も長年つづけられている。国際人形劇祭も毎年、熱心に開かれており、今回も、文化祭の一部として行われる。これが、わたしのおめあてなのである。

 この人形劇祭は、二十年も前から、エスペランチストたちの創意によって始まり、今日に至っているものだが、一度は見てみたいと思ってきた。例年は九月とか十月と、もっと遅いため世界大会の帰りに寄ってくるわけにはいかなかった。それが今年は、百周年行事のひとつとして、世界大会の直後にある。これは、ひとつ、ぜひ行ってこなくては。

 もっとも、ザグレブ行きは、「エスペラントに、どっぷり、つかっていたい」と言われる大原喬さんと、二人だけである。ワルシャワからすぐ帰国する組、自由に行動する人たち、あるいは、近隣諸国への小旅行に行く組と、先月お話した三十三人の動きは、ワルシャワ以後、いくつかに分かれる。

 昔、三十年ぐらい前には、こうして旅行できる日が来るとは思えなかった。そのころは、日本全体もまずしく、外貨もなかった。一度、イギリス人の年金生活者のシンプキンスさんという人が来日したとき、こういう国内旅行をしたことがあった。この人は、すでに二度目で、初めは西日本を見て回ったので、今回は、東日本を訪ねたい。ついては、案内人がいるが、だれかいませんか、ということであったらしい。中村陽宇先生からお声がかかり、わたしが同行することになった。

 条件は、一日ひとりあたりの予算が一泊二食つきで八百円、なるべくゆっくり進み、目的地は札幌というものであった。京都を山陰線で出たのが五月の二十日ごろ、第一日は亀岡、大本本部。第二日は綾部。第三日は宮津、という進みぐあいで、行きは日本海沿いに北上した。エスペラント会や個人のエスペランチストのところへは、あらかじめ連絡してあったが、各地で歓迎していただいた。

 シンプキンスさんは、銀行を定年前にやめ、年金と株などもあったらしく、一人ぐらしで、好きなところへ自由に行ける身分であった。年中、ポロシャツ一枚という夏姿で暮らしていた。冬は避け、北へ南へと、夏ばかり選んでいたのだった。そのころ、一ポンドは千円だった。(いまでは、その四分の一になってしまったが…)

 正確なことは忘れたが、二人が札幌に着いたのは、出発後三十九日めぐらいであった。帰りは、太平洋沿いに移動し、京都まで帰ってきたのは家を出てから、たしか七十三日後であったと思う。

 いま、日本にも、シンプキンスさん流の旅行が、できなくはない人たちが、ぼつぼつと現われているように思われる。年中、というわけには行かないにせよ、夏の二ヵ月ぐらいなら、海外旅行ができる人たちである。

 現に、シベリア鉄道で行く一行の中にも、六週間ほどの旅になる人が何人かは見られる。旅は、昔も今も、行ける人たちから行き、すぐに行けない人は、いつかは自分も、と思っているほかはない。