エスペラント・アラカルト (8)

㉙言葉の壁

 言葉の壁、という表現は、昔からあるし、新聞などでも、「言葉の壁を乗り越えて」というように使われている。それは異民族同士の間にのみ見られることでもない。書き方は、カベとか障壁とか、いろいろあるが、人間同士の意志の伝達をさまたげるもののことである。

 言葉は、お互いに通じ合っている時は空気のようなもので、とくにありがたいとは思われていない。世界には、数え方にもよるが、すくなくとも数千という数の言語があると思われる。いわゆる方言というのもあるし、お互いに通じない言葉というのは、ほとんど無限にあると見てもいいであろう。

 他人同士というか、無関心な者同士であれば、別に言葉が通じなくても、それをカベだと感じない。言葉は、気持ちが通じる相手、あるいは心を通わせたい相手なのに、共通の言葉がない時に、壁になるのである。共通の言葉だけあっても、それで何かを伝えたいという意志がなければ、用をなさない。すでに、これほど多くの言葉があるというのに、さらにもうにとつ、国際語とか世界語とか呼ばれるエスペラントが生まれた理由は何であろうか。

 いよいよ、というか、とうとう、というか、エスペラントが百周年を迎える年の始めにあたって、そこから考えてみたい。ザメンホフが生まれて育ったところは、東欧の一角で、昔からユダヤ人が多かった。とくにビヤリストクは、他の民族よりユダヤ人が多い町で、数から言えば多数派であった。しかし、数は多くても、現代日本の自民党とは違って、実力を発揮する立場にはなかった。ザメンホフといえば、「ポーランドの……」と言われるが、当時はロシア帝国領にあり、その中でのユダヤ人という弱い立場にあった人である。ユダヤ人というのは、東欧に限らず、世界の各地に住み、どの国にあっても、本質的に少数派であった。

 しかし、ザメンホフが、少年時代からユダヤ民族の問題に目覚め、たとえば反ロシア的であったかと言うと、そうではないように思われる。始めは、ロシア語で劇を書いたりする少年であったというから、そのまま、素直に、順調に行っていれば、別の生涯を送った人になったかもしれない。

 ところが、個人としてザメンホフがどういう人間であっても、それにはおかまいなしに、ユダヤ民族の一員であることを思い知らされる日常生活がつづくと、自覚せざるを得ない。一八七三年、ザメンホフが十四歳のころ、一家は地方の小都市からワルシャワへ移住する。この、ワルシャワに住み始めたということが、大きな転機になったにちがいない。

 生れ故郷のリトワニアを離れ、大都市に暮らすというだけでも、大きな変化であるが、ユダヤ人としても、これまでとは別の環境に入ったし、年齢的にも少年から青年へという時期にあたる。いわば条件がそろってきたのである。多感な少年が、個人としても民族としても、物を思わざるを得ない生活を始めたわけで、この数年間に、ザメンホフがザメンホフになるカギがあるのではなかろうか。

言葉の面でも、それまでは、家ではユダヤ人の日常生活語であったイディッシュ語、ほかに公用語というか学校で教えられるロシア語、父親に習ったドイツ語などを使っていたものであろうが、ワルシャワではポーランド語とも、これまで以上に接するようになったことと思われる。宗教や民族など、種々の問題にぶつかり、青春の悩みまで加わってきて、ザメンホフとしては、何が何だかわからない時期にいた。自分は、何のために勉強し、何のために生きているのかと(晩年の手記によれば)不信の極に達したのが十六、七歳のころであったという。

 数えてみると、これは一八七五年から七六年のあたりになる。このころ、何があったのかは記録がなく、プリヴァーの伝記にも、これという記述はない。よくわからないが、不信の状態から脱出し、前向きの姿勢で生き始めたザメンホフは「言葉づくり」に精を出す。

 その間の詳細は、ここでは省略するけれど、ともかく「世界語」という名の言葉が、ひとまず出来たのが大学を前にした十九歳のころであった。この時は、この新しい言葉で数名の仲間たちと歌をうたっている。現在のエスペラントとは多少ちがっているが、ここでは、歌の内容に注目しておきたい。

  諸民族の憎しみよ、

  倒れよ倒れよ、時は来た

  全人類は家族になって

  ひとつのものにならねばならぬ。

(この訳では歌えないが、原語の詩を小西岳氏が作曲したものがあり、これは、なかなかの名曲だと思っている)

 これは、ひとつのメッセージである。同じ内容のことは、何語によっても表現し、歌うことが出来るであろうが、ザメンホフには、まず、右のような「心」があった。そういう意志を人びとに伝えるには、どうすればいいか。諸民族の憎しみよ、倒れよ、全人類がひとつの家族になるべき時は来たぞ! というのを、だれに向かって、また、どういう言葉で言うのか。それは、何語でも伝えられることでもあろうが、そのために生まれた言葉がもっともふさわしいのではないか。

 何か新しいことを伝えるのには、新しい言葉がいるのではないか。

 ザメンホフは、世界各地に散在するユダヤ人たちに、ひとつの共通語をあたえるために、言葉づくりを始めたようであるが、そのように、共通語を必要としているのはユダヤ民族に限らないことに気づき、一民族から諸民族間の共通語へと転換した。言葉の壁は世界中に立ちはだかっているというわけであった。

㉚国際化と世界化

 何かといえば「国際化」という言葉が聞かれる時代である。日本のことだからかけごえだけで終わるのかもしれないけれど、そう言わざるを得ない時代でもある。時には、世界化という言葉にも接するようになった。わたしは、こちらの言い方のほうが好きである。日本の国内のことなら、たとえば「県際化」というより日本化と言うべきであろうし、県を中心に考えれば、際なしの県化でよい。

 世界の場合は、国家中心の国際化でなく、世界の立場からする世界化こそが望ましい。ただし、まだ国家に主権がある時代だから、いきなり世界化といってもピンと来ないため、まずは国際化と、あくまでも「国」という語を残した言い方が好まれるのであろう。

 ところで、帰国子女、と言われる人たちがいる。親の転勤で外国へ行き、そこの国の言語で教育を受け、いま、高校生や大学生、あるいは就職する年齢に達している人たちだ。最近のことらしいが、そういう帰国子女にも就職しやすい時代が来ているらしい。もちろん、企業が国際化[・・・]し、そういう人たちの能力を必要とするようになったからにちがいないが、結構なことである。

 現実的な仕事の場を通して、そういう国際化が進むことによって、すこしずつ意識の世界化が進んで行くのではないかと期待している。当分は国が中心の時代がつづくことであろうが、企業というのは世界性をもったもので、いずれは世界が中心の時代が来るにちがいない。

 と、このように言えば、では、民族やなんかは、どうなるのだと思われるかもしれない。世界化が進めば進むほど、民族の存在は、より確実なものとなる。いまは、同じ民族でも国家のおかげで分断されているなど、民族にとっては不幸な時代なのである。

 民族のほうが、本来の伝統的価値から言えば重要なはずなのに、新しく出来た近代国家という「国」のほうが、大きな顔をしてきたのであるが、これもピークは過ぎたようである。理由は何であれ、電々公社や専売公社が会社になり、いままた国鉄も会社になろうとしている。国鉄と気楽に言っているが、正式に言えば日本国有鉄道のはずである。

 もともと、軍隊を自由に運ぶために、民有であった鉄道を国有化して行ったのだが、いまや、そういう時代ではない。

 なるべく国家の力が弱まり、世界の力が強まることによって、民族や個人が正当に認められる世の中になることが望ましい。日本の歴史を見ても、ナントカ時代というのは、主として国家の枠のことである。それとは別に、民族としては文化による時代区分もある。日本民族は、ずっとつづいているが、国家としての日本国は何度も生まれ変わってきた。

 世界中のあらゆる民族が、どこで生まれたものであれ、その住むところに住んでいて、お互いに対等の立場で暮らして行ける世界でなくてはいけない。個人も同様である。

 エスペラントは、そういう世界の中立語として使われることが望ましい。国際語とか民際語とか、あるいは世界語とかいうものより、中立的人間語になることが「希望者[エスペラント]」という名の言葉にふさわしいと思う。

 さて、そういう希望的観測はともかくとして、現実の世の中を直視すれば、なかなかそういう世界はやって来ないかに見える。国家が強い時代は、まだまだつづきそうだし、当分、世界の出番は来ないかに見えるかもしれない。

 だが、現実というのは、変わりだしたら早いのである。あきれるほどに早い。わずか五十年まえ、五十年後の日本が現在のような日本になっていると考えた人がどのくらいいたか。明治には、富国強兵などと言っても、あの日露戦争でさえ、外国からの借金でしていたのだという。

 いま、日本は、いわゆる金持ち国になっている。いまなら、借金はしなくても出来るかもしれないが、しかし、いまや日本は戦争ができない国になっている。

 いや、日本ばかりでなく、世界の各地でも、もはや戦争では何の問題も解決できない時代になっている。ただ、ほかにいい知恵も浮かばないため、仕方なく戦争をしているという時代である。

 エスペラントは、人類が戦争をするのではなく、平和をする[・・・・・]ために有効なものである。これは、エスペラントさえやっていれば、世界が平和になる[・・・・・]ということではない。ふつう、平和をする、とは言わない。また、非常時といえば戦争に結びつくが、わたしは、これからの時代は必死で平和をして行かなくてはならぬと思っている。人類が平和でいて、しかも間が持つようにしなくてはならぬ。

 戦争にも仕方があるように、平和にもなんらかの仕方がなくてはできない。主権国家が戦争をするように、世界が平和をして行くひとつの方法として、何か共通のものがなくてはいけない。

 国際化という、国中心の行き方とは別に、世界化をすすめて行くには、まだ世界になくて、しかも世界が必要としているものが要る。世界には、まだ、万人が認める世界語というものがないから、これを目ざすべきであろう。

 意識の世界化といっても、何もしないでパッと世界化はできまい。人間が変わっていくためには、何か具体的なモノがあったほうがいい。宇宙船から丸い地球をながめた飛行士には大きな変化が生じたという。地球の大切さ、人類、というものが実感として分かったからであろう。

 自分では実際にながめなくても、映像を見ただけでも何かは感じられる。エスペラントは、宇宙とは別の次元で人間の人類化、世界化に役立つ具体的な方法のひとつであると言えようか。

㉛世界大会と国際セミナー

 世界エスペラント協会(UEA[ウエア])の主催で開かれる、ワルシャワでの第七十二回世界エスペラント大会は、七月二十六日に開会式がある。この百周年記念大会は、二十五日の前夜祭から八月一日の閉会まで一週間にわたるが、エスペラントは一世紀前の、奇しくも同じ七月二十六日に生まれ出たのであった。

 大会参加申し込み者は一月中旬現在、三千人を越えたという。いまのところ、東欧諸国から二千人、西側から千二百人、日本からは約百人とのことである。

「エスペラント―国際文化の百年」というのが大会テーマで、これに沿ってプログラムが組まれる。また、その中で言語学、社会学、さらには歴史的ならびに文化的な側面から、百年を迎えるエスペラントを検討する学術会議も開かれる。

 芸術面では、劇の上演やコンサートが企画されている。ほかに、市内や近郊の観光も毎日できるし、二十九日にはザメンホフの生地ビャリストクなど、各地方への一日旅行もある。ポーランドと言えばショパンだが、その生地を訪ねるプランもあるなど、大会以外の楽しみも盛りだくさんに用意してある。

 演説や講演、討議など、言葉で理解するのが当然の行事を楽しんだり、また自分でも参加するためには、それなりに言葉が出来なくてはならない。しかしながら、大会の意義は、単に言葉を通して理解し合うことにつきるわけではない。

 いっしょに食事をしたり、散歩したり、歌ったり、というような、人間的な触れ合いが大切なのだ。たとえ一週間にせよ、生活をともにする相手のことを分かろうとするときに、言葉は必要となる。十分に話せない人同士でも、いっしょに時間をすごしていると、心が通い合うようになるが、その上、言葉がよく分かれば、申し分ないというものである。

 世界大会へは、エスペラントがよく分からないうちに行ってみるのもいい。何年も勉強してから「さあ行くぞ」と乗り込んで、さて、エスペラントが分からないでは、ショックが大きい。日ごろ、目だけで勉強して、あまり耳を使ってなかった人の場合は、これはあり得ることだ。ボソボソとカタコトで話す人も多いが、中には早口の人もいるから、なれないうちはついて行けなくても不思議ではない。

 初心者なら、分からなくてあたり前、すこしでも分かったら、それだけでうれしくなってしまう。というわけで、ともかく大会をのぞいてみるのも有効な方法であろうと思う。

 エスペラントの集いは、世界大会のほかにも、いっぱいある。UEAの「エスペラント」誌一月号には、ケルンで開かれた第三十回国際セミナーの報告も出ている。これは十二月二十七日から一月三日まで、ドイツ・エスペラント青年団の主催で開かれたもので、二十三ヵ国三百五十人の若者たちが集まった。

 このセミナーは、エスペラントを使って、いろんなテーマについて学ぶためのものだが、今回は三十回ということと百周年の開幕ということもあり、初めてエスペラント運動がテーマとなった。「国際文化の実践」というのだが、あらかじめ決まっていたプログラムのほかに、期間中に十五もの企画が生まれたという。

 ロック・ミュージックのライブなどもあって、若者が楽しめる集まりである。正月休みしかとれない人は、一度、これに行かれるといい。西ドイツのどこかの都市のユースホステルなどが会場となるが、これを経験すると、ヨーロッパのエスペランチストは年寄りばかり、などとは言えなくなる。今回の三百五十人というのは、例年の倍ぐらいの数で、とくに多かったのだが、百数十人が一週間、同じ所にいて、ひとつの言葉で共同生活をするというのは、なかなか得がたい体験だといっていいのではなかろうか。

 これは、年末から年始にかけての、ドイツ版越年合宿だが、常設のものも各地にある。フランス、スイス、ブルガリアなどには、一週間とか二週間の単位で、エスペラントの勉強をしたり、あるいはこの言葉を介して何かを習ったりすることができる文化センターがある。

 現在、エスペラントはどのように使われているかということを知るのには、旅行者の実例が具体的で分かりやすい。明治大学教授の水野義明さん著『新・エスペラント国周遊記』(「ソ連・東欧編」千六百円、「西欧編」千七百円、いずれも新泉社刊)という二冊の本を見ると、その辺の事情がよく分かる。書店で入手できるし、エスペラントを使って旅行したい人には、参考になる本である。

 昨年、東欧編が出たとき新聞でも紹介されるなど評判になり、この本がキッカケとなって、水野教授は昨秋から東京の朝日カルチャー・センターで「入門エスペラント語」講座の講師もされている。まだスタートしたばかりだが、常設講座にしたいとの意向もあるらしい。水野氏を団長とする「東欧エスペラント・ツアー」(正月休みの十一日間)も旅行社によって企画され、この「ザメンホフゆかりの地を訪ねて各地のエスペランチストとの交歓」の旅に参加した一人はエス語には「他の言葉にはない『何か』がある、と肌で感じながら思った」という。

㉜クララ・ザメンホフのこと

 今年は、エスペラント発表百周年の年だが、創始者ザメンホフの没後七十年の年でもある。その日、四月十四日をまえに、今回はクララ夫人の一面を紹介してみよう。クララの義弟にあたるレオノ・ザメンホフ博士の「思い出」によれば、ほぼ次のようになる。

 「初めてクララを知ったのは、まだ少年のころで、まるで濃い霧につつまれた大気をつらぬく陽光のようにして彼女がわが家に入ってきたときであった。兄のルドビコは、わしの記憶にあるかぎり、いつもまじめで、口数が少なかった。ところが、この一見かた苦しく物に動じない外見の下には、脈動する生活の楽しさに憧れる、きわめて感じやすい心があったのだ。自分の中にそれを見いだせなかった兄は、むさぼるようにして周囲のものたちの中に求めた。この、自身に欠けていたものを兄は、さいわいにも生涯の伴侶によって得ることができたのであった。クララは、身にそなわった落ち着いた態度や楽天主義によって、兄のまわりから心配事や悲しみの黒雲を生涯を通じて払いのけてやったのだ。これらの性質はクララが夫のルドビコにもたらした最も価値のある、そして決してなくなることのない宝物であった」

 じつは、この宝物というのは、原文ではドートというが、持って生まれた資質という意味と、いわゆる「持参金」の意味がある。ザメンホフの『国際語』という小冊子を始め、エスペラントの初期の本は、クララの持参金によって印刷出版が可能になったという事実がある。これは無限というわけには行かなかったが、性質のほうは「くめどもつきぬ」泉であったというのである。ザメンホフは、何年もの間、生活の糧を求めて、あちらへ行き、またこちらへ戻ってくる暮らしをつづけたのだが、このクララの「最もすばらしい元金だけは、手つかず」だったという。もちろん、楽天主義のことだ。

「日々の苦労に加えて、人びとに対する幻滅の悲哀も味わった。自分の職業に誇りをもった医者が良心的にまた献身的に医療にあたっても、人びとに認められることもないことを確信するに至った。人びとは、嘘をついたり、だましたりする方に引かれていたのだ。

 こういう生活になじめなかった兄は、このままだと一生みじめな暮らしをすることになりそうな予感がした。どこへ行っても同じで、兄は瀬戸際に立たされた。ワルシャワへ戻ることも考えてみたが、その元気もなく、大都会へのおそれもあって、決心をすることができなかった。このとき、兄は、身近にいるだれかの助言と強力な信念を必要としていた。結局その人物を彼は妻のクララに見いだした。夫の思いを知ると、クララは、全力をあげて協力を惜しまなかった。クララの楽天主義が決め手となり、かれらは背水の陣でワルシャワに戻ってきた。もはや最後の切り札しか残っていなかった。

 わたしは、兄夫婦のこの時期のことをよくおぼえている。兄は、将来のことが心配でたまらず、まわりに陸地の見えないところで難破した人のようであった。クララは反対に希望と信念に満ちていた。夫に欠けていたものが妻にはあふるほどにそなわっていた。この夫婦が最後には安全な人生の港に入ることができたのは、そのおかげなのである」

 ザメンホフは、クララ夫人の助けを借りて、地球上の各地から送られてくる手紙に目を通し、毎週金曜日には、注文のきた本の発送の用意をし、土曜日に郵便で送り出すことにしていた。これはかなりの量に達することが多かったが、大切なこととして、いつも二人であたっていたという。手紙にはすべて返事を出した。そのころには、エスペラントの普及運動も相当の広がりを見せていたが、クララは細かい情報にも通じていて、あらゆる仕事に全面的に参加していた。

 「やがて勝利の年月がやってきた。エスペラント大会の時代である。この時期はさいわいザメンホフ夫妻にとって物質的な面でも前より恵まれた時期と重なっていた。その当時書かれたり言われたりしたことに、ザメンホフ博士のように仕合わせな人はほかにいない、というのがあった。というのは、生きているうちに、自分の考えたことが勝利するのを見ることができ、その名誉をたたえるために、世界的な儀式が行われ、それに参加することができたのだから。

 このような見方は、ザメンホフ博士を身近に知ることがなかった人びとの意見である。他の人たちにとっては夢のようなことであっても、兄にとっては苦痛にすぎなかった」

 ザメンホフは世界大会が始まった(一九〇五年)ころには動脈硬化になり、大会に出かけるのも病身をおして、というところがあった。しかし、ザメンホフの出ない大会は考えられない、という、人びとの要望が強く、無理をかさねた。

「大会は」とザメンホフは言った。「どれもわたしに大きな満足をあたえてくれます。これは国際語思想の勝利の証明でもあるのですが、同時に一回出るごとに寿命が何年か縮まる思いがするのです」

 その間ずっと、クララは夫につきそって出席し、面倒を見たのだった。(つづく)