エスペラント・アラカルト (6)

㉑クメワワ少年の物語

(承前)この前は、すこし、先へ進みすぎたようなので、『ジャングルの少年』の作者として来日されたチボール・セケリさんのことを、昔にもどって紹介したいと思う。ただし、日付その他は、同書の「訳者あとがき」によることをお断わりしておきたい。

 わたしがエスペラントの勉強を始めた一九五三年から数年の間は、まだ、来日する外国人エスペランチストも少なく、たまに来た人は各地で大いに歓迎されるという時代だった。日本から海外へ出かける人となると、さらにめずらしく、一言でいえば、まことにうらやましい存在だった。そういう人たちの旅行記事を雑誌で読むばかりで、自分が外国へ行くようなことがあろうとは、思えなかった。

 京都に住んでいても、年に一人か、せいぜい二、三人という程度の来日エスペランチストと会って話ができればいい、というふうで、エスペラントで外国人と話す機会は、あまりなかった。地方の都市となると、そういうチャンスはめったになく、したがって、日本人エスペランチストの会話力は、かなり低かった。

 さて、セケリさんは、そういう時代がまだつづいていた一九六〇年の三月、日本へやってきた。わたしの感じでは、もっと以前であったようにも思われるが、ともかく、その時、セケリさんは、北海道から九州まで三十ばかりの都市を訪ねて歩いた。四ヵ月ほどの滞日中、各地のエスペラント会でスライドつきの講演をした。中には一般の市民向けの講演会もあったはずである。訳者の高杉一郎氏も当時は静岡大学の教授であったが、大学での講演の通訳をされたという。

 そういう、一般を対象にした「対外講演」ばかりか、エスペラントの会員向けの講演でも、ほとんどの場合、通訳が必要であった。これは、つねに初心者が存在する以上、いつになっても無用になることはないが、何しろ会話のチャンスがほとんどない時代なので、通訳を必要としたのは初心者だけではなかった。耳から入ってくる言葉になれていないと、ほんとに「分かったかどうか」と、心配なものである。通訳といっても、セケリさんに同行する専門家がいるわけではないから、各地のエスペラント会で、通訳の現地調達をするわけである。通訳の出来不出来は、その人それぞれの経験の有無によって、いろいろあったにちがいないと思う。

 エスペラント会の場合は、多少まずくても、内輪同士のことで別段気にすることもないが、対外講演となると、やはり問題である。通訳が立往生したりした場合、それが英語やフランス語だと、単に「その人が未熟だから」と思ってもらえるが、エスペラントだと、この言葉そのものに問題があると思われかねないからである。通訳は、単に一人の聴衆として聞いていて「分かった」からといって、だれにでもできることではないのだが、経験のない人には、それが分からない。

 それはともかく、わたしも、その時、セケリさんの通訳を、どこかでつとめたはずである。そればかりか、「アマゾン探険の話」を、エスペラントから訳すことまで手伝った。大本国際部の重栖度哉氏が翻訳を頼まれ、その一部を分担したように記憶している。セケリさんは、その訳文を持って新聞社へ行き、原稿を売り込んだのである。たしか、岡山の夕刊新聞に、何回かにわたって連載された。いわば『ジャングルの少年』前史だ。

 高杉さんは、大学での講演のときも、『彼は南米のジャングルに住むインディオの部族での生活体験を話したのだが、話の途中、耳なれないひとつの単語に通訳の私がとまどっていると、彼が即座に横から「トウモロコシ」と日本語で言ったので、学生たちがいっせいに笑った。おそらく、彼はその話をあちこちでくりかえしてきたのにちがいなかった』と書いていられるが、たしかに、セケリさんは、日本ばかりか世界の各地で何回も話してきたのである。

 さて、『ジャングルの少年』は、セケリさんの豊富な体験の中から生み出された児童文学作品で、元の題を『ジャングルの息子クメワワ』といい、インディオの少年クメワワを主人公とする物語だ。著者の「わたし」は、クメワワに「ニイクチャップ」と呼ばれている。これは、インディオのことばで「ひげづら男」という意味だが、この二人の交流を中心に展開される物語については、前回ちょっと紹介したように多くの書評が出た。
「一気に読ませ……ぞくぞくする臨場感を与えてくれる。訳文にもさし絵(注・松岡達英・画)にもこまかな気配りがあり、動物や自然の描写にも格調高い叙事詩を読むような美しさがある」(朝日新聞、八三・四・二八)

「読み上げた後、読者の胸にも暖かいものがしみこんでくる。珍しい素材を、きびきびした語り口で面白く読ませる……大人が読んでも楽しめる」(日本経済新聞、八三・四・六)

「少年よ、お前の澄んだ声をもっと聞かせてほしい……」(週刊朝日、八三・七・二九)
 このように、セケリさんが書いたエスペラント原作の物語が、絶賛といっていいほどに受け入れられたのは、昔から著者を知っているわたしとしても、うれしいことであった。
 大阪は梅田にある「日本一の売り上げをほこる」とも言われる本屋さんに、わたしはセケリさんを案内した。いまは出版関係者の間で、「本が売れない」と言われている時代だが、この店のフロアにいると、それはどこの話? と、不思議に思えるほど、活気がある。セケリさんは、「課題図書」を示すシールが貼ってある自分の本を、ここで一冊、買った。

㉒実験は間違いか

 エスペラントのことが、正面からマスコミに登場することは、めったにない。新聞や雑誌に、ちらっと言及されることなら、ときどきあるが、放送に出てくることは、うんとすくない。

 活字の場合も、何かのついでに、エスペラントが出てくるのはいいのだが、関係者から見ると、背後からバッサリ、いわば辻斬りにあったような気がする例が多い。しかるべき理由があって、読んだ者が納得できるように出てくれば、たとえ否定的な見解でも、それはそれで文句を言うべきほどのことではないが、次のような例は、やはり困るのである。 「翻訳の世界」という雑誌の一九八六年四月号に「文字の世界を考える」というテーマの対談が出ている。これは「人間の、ことば」というシリーズの第六回で榊原陽、赤瀬川原平両氏によるものであるが、途中、いきなり次のような発言が現われるのである。

「榊原(編集人注:「榊原」は太字)エスペラント語の実験というのは間違いだと思います。自然言語にまねて一般的な言語をつくろうというんですが、結局一つの人工的なことばを作っただけで、言語的なセクトを一つ誕生させただけのような気がします。人間が話す音声言語というのは、絶えず新しく創り出される創造という性格を持っている。日常の音声言語というのは個人の創造であり個別系なのです。ところあ、文字は統合系なのですよ。ヨーロッパは……」
 と、つづいて行くのだが、後半の「人間が話す音声言語うんぬん」というのが榊原氏の言いたかったことだとすれば、なぜ、何の必要があって前半のように言われるのであろうか。前半と後半が、どういう関係にあるのか、よく分からないのだが、ともかく間違いだと思います[・・・・・・・・・]、といわれたエスペラント語の関係者としては、傷つくことになる。実験の何が間違いなのか。「一般的な言語」を、自然語にまねて、つくろうという実験そのものか。それはいいとしても、結果としてできたのが「人工的なことば、言語的なセクト」なので、それが間違いなのか。

 いずれにせよ、右のような発言は、その当否は別として、人びとに、エスペラントは「結局、間違いなのだ」という印象を与えかねない。このような発言が困るのは、「正面から、くわしくエスペラントのことを論じたものではないから、反論がしにくいことと、そのくせ「と思います」とか「のような気がします」という風に、断定はしてないことである。「である」とは言ってない以上、こちらとしても、まともに反論しにくい。その分、内出血ぐらいは起こしているわけである。

 これに似たような、ついでにサッと傷を負わせて立ち去るような発言は、エスペラントに対しては昔からなされてきたことである。その理由は何であろうか。

 エスペラントは、やはり、気になる存在なのであろうか。無視して、知らん顔で通りすぎるわけには行かんものとして認められているのかもしれない。しかしながら、これは、一体、何者なのかとなると、よく分からない。それはそうと、聞くところによると、人工語だというから、ひとつ、そのあたりをつついて、ゴツンと一発やっつけておこう、というような理由からであろうか、右のような発言が出現する。

 正体不明のものに対する、一種の恐怖心からなされる発言なので、しばしば理屈に合わない、でたらめな見解を示す人が多いものと見える。わたしは、この欄を通じて、世の人びとに、エスペラントの正体を知ってもらうべく、努力しているつもりである。

 それで今回の、榊原氏の例に見るような発言に接すると、わが努力の足らざることを深く反省することにしている。氏の意見は、別にでたらめと言う訳ではないけれど、「間違いだと思います」というような言い方は、かなりきつい。

 エスペラント語の実験は、まだ、実験の途中なので、「結局」とか「だけ」というには、すこし早すぎると思う。中間報告的に、わたしの意見を言うとすれば「間違ってはいない」。もし、間違いだと思ったら、わたしはエスペラントから手を引く。わたしがやめたからといっても、それで、この実験が間違いだという証明にはならないが、わたしに関するかぎり、エスペラントは正しいからやっているのである。正しい、というのは、人類史的に正しいという意味である。

 エスペラントは、言葉として見ると、正しく使うことは、かなりむずかしい。間違いやすいようにできている。語尾の母音には、文法的な意味があるから、語尾のAをEと言えば当然、間違う。それと、文法というのは、各国語の常識ともいうべきものが、すべて共通というわけではないし、エスペラントには独特のクセもあるから、それぞれの国語の背景が違えば、間違いやすいところも、いろいろである。おそらく、エスペラントが完全に間違いなくできた人は、今まで一人もいなかったであろう。(もっとも、それを言えば、日本語だってそうであろうが)

 そういうことも含めて、エスペラントは正しい存在なのである、というのが、わたしの見方である。日本人にも日本語は完全に分かっているわけではない。エスペラントがエスペランチストにとって同様の関係にあっても不思議ではない。

 しかし、言葉の使い方は間違っても、日本語という言葉そのものは、日本人にとって正しい存在なのであり、人類にとってのエスペラントもそうなのである。(ただし、それに気がついていない人が多いため、エスペラント運動が必要な訳であるし、そのお陰で、この欄もあるという次第なのであります)

㉓八十周年と五十周年

 ことしは、日本にエスペラント運動の団体ができてから八十年になる。来年のエス語百周年に気をとられているせいであろうか、日本の八十周年は、ほとんど話題にならないようである。前史としては、それ以前にも個人的に勉強していた人は何人もあるし、岡山の六高英語教師であったガントレット氏による通信教授も行われていたが、一九〇六年六月十二日、東京に始めて日本エスペラント協会が設立せられてから八十年である。

 九月二十八日には、協会の第一回大会が神田青年館で開かれ、高橋順次郎氏の提案説明により、次のような議決が行われている。

 1、近き将来に開かるべき万国大博覧会[明治五〇年東京にて]を期し世界エス大会を東京に開く。2、各実業学校にエス語を随意科として課程に加えることを文部大臣に建議。3、エス語に日本固有語を増加する目的を以て委員を設け調査。

 この「明治三九年下半年におけるエス語の普及の目覚ましさは実に驚嘆に値する」と、『日本エスペラント運動史科』(日本エスペラント運動五〇周年記念行事委員会刊)にあるとおり、このころの一年間に九種もの学習書が発行された。中には、有名な二葉亭四迷の『世界語』(彩雲閣七月刊)もあり、これによって多くのエスペランチストが生まれた。

 さて、運動の「五〇周年記念大会」は一九五六年十一月、東京で開かれ、前記の『史科』は、その大会の記念品であった。

 いま、『エスペラント』誌(日本エスペラント学会刊)のバックナンバーをめくっているところだが、「空前の盛会 五〇周年記念大会(編集人注:「五〇周年記念大会」は太字) 出席者四〇〇人」という見出しの報告が出ている。十一月十日が第一日、不在参加を含む全参加申し込み者が七五七人、実際の出席者は三九四人で「空前」だったのだから、たしかにエス語の運動は数量的には小さなものというほかはない。絶後ではなかったが、出席者の数は、いずれにせよ、数百名というのが日本大会の規模である。

 広報活動の面では、かなり見るべきものがあり、新聞やラジオのほか「もっとも成果をあげたのはテレビとニュース映画であった。テレビでは、NHK、NTV、KR三局とも全部がとりあげ、ニュース映画は、朝日ニュースと読売ニュースがとりあげた」という。東京でもテレビは三局しかなく、ニュース映画があったということなどが、三十年前という時代色を感じさせる。

 ところで、八十周年のことし三月、ちょっとした事件[・・]があった。㉒でエス語が「放送に出てくることは、うんとすくない」と書いたけれども、事件とはテレビ番組がエスペラントをとりあげたことなのだ。久しぶりのことで、取材を受けた日本エスペラント学会から、全国各地の主な関係筋に向けて、三月七日金曜日夜十一時からの『ニュースステーション』で「エスペラントのことが放送される」という予告が流された。一般の人たちの場合、この番組をいつも見ている人か、たまたまチャンネルを合わせた人が見たぐらいであろうが、エス語関係者たちは大変な期待をして待ちかまえていたにちがいない。

 天恩郷でも、EPA事務局を通じて予告を受け、テレビの前にいた人たちのうち、筆者が知り得ただけでも、二人ほどは、待てど暮らせど出て来ないため眠り込んでしまったのであった。

 まさか、そういう情景が、おそらくは全国的に展開されているとは思いもしていない放送局からは、一時間番組が終盤に入ってからようやく、エスペラントに関する番組が流され始めた。「ミステリー」仕立ての画面が始まると、早速、ビデオ録画のスイッチを入れた。すると、すぐ「消えたエスペラントの謎‼︎」というタイトルが出てきた。一時間番組のうち、七分間ちょっとの放送であった。『エスペラント』誌五月号によれば、放送のあった翌八日に日本エスペラント学会では理事会と評議員会があったが「そこでの意見は、運動の現状を正しく伝えていない、真剣に学ぼうとする人たちをガッカリさせるという批判的意見、おもしろかった、世間の見方はあの程度だとする中間的な意見、テレビの娯楽性から考えればよく出来ている、評価すべきだという肯定的な意見まで、実に様々であった」という(同学会広報部長、梅田善美氏)。

 さらに、『ラ・モバード』誌(東海・九州・中国・四国・関西の各エスペラント連盟共同機関誌)四月号には「エスペラントは消えた言語か?」という、大阪の吉田彌氏の―朝日系「ニュースステーション」の放映に抗議―する文が出た。

 氏は「番組の企画構成はテレビ局のなさることなので、余り、いちゃもんつけにくいかも知れないが、あのようなひどい番組―われわれエスペラントにとって―が放映されるということは、取材された側に問題があるのではないかと思われた。思想としてのエスペラントが全くとりあげられていなかった。(中略)場合によってはその企画を断念させるべきではなかったか。もっとも、どんなことであれ、エスペラントさえマスコミにのればよいというのなら論外だが!

 ただ、戦後間もなくの義務教育の教科書にはエスペラントのことが記述されていたが、現在はないようなので、エスペラントなんて聞いたこともないという人が多くなっていることは事実のようだ。今後はエスペラントとは何かということは衆知の事実であり常識であるという意識は捨てて、展示会やマスコミ対策を考えねばなるまい」と言う。これは、たしかに正論であるが、わたしの意見は、氏の言われる「論外」も含めて次回に。

㉔小さな行動の積み重ねが・・・

 この欄では、なるべくエスペラントという言葉そのものについて書くようにしたいと思ってきた。それなのに、このところ何回にもわたって、言葉以外のコトがつづいている。マスコミがどうの、だれがどういう意見を述べているだのと、これを言いだすと、きりがなくなる。困ったことに、もともと「この道」は好きでたまらないのである。エスペラントあるいは言葉に関するかぎり、百万人といえども……というわけで、変なことを言っている人がいると、だまっていられなくなる。若いときは、とくにそうであった。というわけで、今回は、まだ「つづき」ということで、お許しねがいたい。

 じつは、前回引用したテレビ番組については、その後、別の雑誌にも関連記事が出た。それも紹介していると、またまた引用がつづくので、ひとまず置き、わたしの意見から――。

 吉田氏の言葉(㉓参照)の中に、「取材された側に問題があるのではないか」というのがあった。それもあったかもしれないが、しかし、こう言われては、取材に応じた人たちの立場が気の毒ではなかろうか。何しろ、めったに来ないテレビ局から、取材の申し込みがあったのである。まさか「消えたエスペラント」云云ということになるとは、想像もしていなかったにちがいない。「ニュースステーション」の中で放映されることは聞いていても、その段階ではミステリー仕立てになるとは知らされていなかったはずである。「知らなかったでは済まない」といわれれば、それまでであるし、さらに「場合によってはその企画を断念させるべきではなかったか」というのも、分からない意見ではない。

 しかし、相手は、何といっても、テレビである。そんな強い態度に出られるであろうか。もちろん、テレビが何だ、という立場もあるだろう。だが、マスコミの片隅に「エスペラント」のことが一言出ていても「出た出た」と言うわけで、『エスペラント』誌などに記録されるのも、エスペラント界の現状である。それがテレビともなれば、宣伝効果が違うであろう。実際は、どうだか知れたものではないが、ともかく、それについての期待は大きかったのである。だからこそ、ちょっとした「事件」にもなった。

 ところで、テレビ局にかぎらず、マスコミの人たちというのは、取材するにあたって、白紙の状態ということはない。一定の枠が設定してあって、それに沿って取材する。そのとき、取材される側がいくらいいことを言っても、その枠に入らないことであれば、効果はない。つまり、たとえ言っても、「思想としてのエスペラントが全くとりあげられていなかった」(吉田氏)ということになる。

 エスペラントの関係者には、それぞれの立場で程度の差こそあれ、ともかく、エスペラントに対する「思い入れ」がある。しかし、世間一般の人たちには、そういう思い入れというものはない。テレビ番組に、たまたま「エスペラント」が出てきても、感激も失望もしないはずである。番組として、面白かったかどうかということがあるだけであろう。

 あの番組を見て、すぐエスペラントを勉強しようと思った人もいないかもしれないが、「あんな、消えた? エスペラント」なんか、やるもんかと思った人もいないのではないか。つまり思い入れのない人たちにすれば、「ふーん」とか「へえー」とかいう程度の番組であったのではなかったか。

 しかし、である。もし、それでも、あのテレビ放映に何らかの宣伝効果があったとすれば、ともかく「エスペラント」という言葉がテレビを通じて流れたことにある。人間は一度聞いたら、聞かなかったことにはならない。それ自体は、どうということはなくても、次の機会に「エスペラント」について聞いたとき、「前に聞いたことがある」という気がする。いわば「おなじみ」なのである。これが心理的に大切なことである。人間は、知らないことに対しては冷たいが、すこしでも知っていると、態度が違ってくる。

 たとえば、「パルメ首相」という名にしても、不幸のためとは言え、そのために知った人もいたであろう。そのパルメ首相から手紙が来た、と聞けば、信頼できる感じがするのではないか。画面にはパルメ首相の手紙が出たが、この「署名入り手紙」は、エスペラント文ではなかった。そのあと出た文はエスペラントであったから、おそらく、首相のスウェーデン語の原文に対して訳文がつけられていたものであろう。久米宏キャスターは、「それには、まぎれもなくエスペラントでこう記されていた」と前置きして『小さな行動の積み重ねが、今われわれに一番必要なことだと思っている』という、パルメ首相の言葉を伝えた。

 途中、何が出て来たにせよ、この言葉は、人びとの心に残ったのではないか。

 横浜のエスペランチストたちが、神奈川県の反核宣言をエス語に訳して海外に送ったのも、そういう、小さな行動であるし、それに応じて返ってきたエス文の手紙が、「ニュース・ミステリー」なるテレビ番組で紹介されたのも、ひとつの小さな行動である。

 いずれにせよ、あの「ニュースステーション」の中に現われたのは、「どんなことであれ、エスペラントさえマスコミにのればよいというのなら論外だが」というような意味での「論外」的なものではなかった。エスペラント関係者の中でも評価が分かれているように、その内容についてはともかく、一時間番組のうちの七分間ほどはエスペラントが「テレビに出た」のである。次にはもっと別の角度からの番組が作られることを期待する。