エスペラント・アラカルト (5)

⑰青年の国際語

 一九八五年は国連提唱による「国際青年年」だった。意味からいえば、また音の面から見ても、これは「青年国際年」としたほうがいいと思うが、日本語では前者のように言いたいもののようだ。それはさておき、この場合の青年とは二十五歳までをいうらしい。ちょうど百年前の一八八五年といえば、ザメンホフは十二月の誕生日までは青年だった。この年は一月にワルシャワ大学の医学部を出たばかりの青年ドクターと言ってよかった。だが、新米ながら医師ではあったが、まだ眼科医ではなかった。

 ところで、このころには、のちにエスペラントの名で知られることになる国際語は、ほとんど完成に近づいていた。この年から二年後にザメンホフの国際語は世に出たが、この期間は主として出版者さがしに費やされたようだ。また、一方では、医者として、病人、とくに子どもの死に直面したときの無力感から、転向を考えた時期でもあった。さらにもうひとつ、のちのクララ夫人とも、このころまでには出会っていたと言われている。

 ロシア領ワルシャワ在住のユダヤ人青年ザメンホフは、三つの問題をかかえていたと言えようか。生涯の目的である理想の追求、その手段としての国際語の発表がその一つ。生活のために必要な職業上の問題、具体的には、一般医から眼科専門医になるための研修がその二つめ。三番めはクララとの結婚である。

 初めはワルシャワ、次はウィーンで勉強した後、一八八六年の夏、ザメンホフはワルシャワの父の家で眼科医として開業した。で、たしかに、エスペラントが誕生したとき、ザメンホフは、すでに眼科医になっていたけれど、そのことと、エスペラントは「眼科医がつくった」と言われることには、多少の説明がいる。

 ザメンホフは、大学の言語学の教授がそうであるような意味での「言語学者」ではなかった。そこで、言語のことなら言語学の先生のほうが専門家である、という立場のひとが、エスペラントについて「眼科医がつくった」と言うときは、だから「素人の作品である」といったニュアンスが感じられるように思う。しかし、言語学者の仕事は、すでにある言語の研究をすることであって、新しく創り出すことではない。その点、エスペラントはザメンホフが言語学の専門家でなかったからこそ出来たのだとも言えよう。

 それに、何よりも、ザメンホフがエスペラントを生み出すにいたった原因は、ザメンホフの出自にあった。前回見ておいたように、ビヤリストクの地にユダヤ人の子として生まれたことが、決定的であった。しかし、ユダヤ人の家庭は、ザメンホフ家だけではなかったのだし、その他のユダヤ人の家からはザメンホフは生まれていないことを思えば、そう言っただけでは、すべてを説明したことにはならない。

 じつは、これこれだから、こうなったというふうに、明快に説明がつかないのは、ザメンホフにかぎらないわけで、せいぜいのところ、こうでもあったろうかと、知り得た知識にもとづいて述べるほかはない。また、ご本人の言われることだけで何もかもよくわかる、というものでもないと思われる。

 いずれにせよ、前回にも言うように、これは「大きな課題」なので、時間をかけて考え、できるだけ納得しやすい理由を見つけて行くほかはなさそうである。

 ちなみに、ザメンホフの伝記は数種ある、と言ったが、日本以外ではそうともいえないのである。生前のザメンホフを知る人の伝記として、代表的なものは、E・プリヴァーの『ザメンホフの生涯』であるが、これさえも、すべての国で翻訳されているとは言えないらしい。これはエスペラントで書かれ、初版が一九二〇年に出ている。日本語訳は戦前と戦後で二種類ある。ほかに、日本人の手になるものが大小合わせて六点ほどある。今後とも、まだ増えるにちがいない。ザメンホフ関係の資料も、近年にいたって次つぎ発見されつつあり、その面だけから見ても、先へ行くほど伝記作者にとっては有利だといえようか。もっとも、資料は、いくら豊富にあっても材料であってそれをどのようにして一個の「ザメンホフ伝」にするかは、別の問題だ。いまある資料からだけでも、まだまだ、いくつものザメンホフ伝が書かれてしかるべきであろう。

 ところで、なぜ、日本では、このように、ザメンホフについて書きやすいかと言えば、これまた、かれがユダヤ人だから、かもしれない。日本人も、知識としては、ユダヤ民族が欧米あたりでは差別され、きらわれてきた人たちであることは知っている。また、戦前から、ユダヤ問題を論じた本もいろいろ出ていたようだし、その辺の事情についても、まったく知らぬわけではないだろう。しかしながら、生活の中での実感としては、どうもピンとこないのではないか。つまり、感情の問題としては、日本人には、ユダヤ人は問題になる民族ではない、と言ってもいいのではなかろうか。あるいは逆に、ユダヤ人といえば、いちいち名はあげないが、世界的に有名な偉い人たちを数多く出している民族ということで、決してわるく思われていないというべきであろうか。

 日本では、ユダヤ人は、同じ市内に住んでいる民族ではないため、生活感情の面からでは、どうもわかりにくい。ということは、ユダヤ人に対する差別についても、具体的にわかっているとは言えないことを意味しているが、そのおかげでザメンホフのことも、わりに平気で書きやすいのである。あとは、個人の想像力によって多少の違いはあるにしても、大まかに言えば、右のようなことになる。

 一九八六年は「国際平和年(意味は、平和国際年)」であるが、文字どおり国際平和の年でもあってほしいものだ。国際語[エスペラント]は七月から百年めに入る。

⑱創始者の伝記

 このアラカルトは、数回ずつ話題を変えて書いている。いまはザメンホフがテーマで、今回も予定のうちである。ところで、⑰を書いたあと、『人類愛善新聞』に一月号から「ザメンホフの世界」という欄を連載することが決まった。わたしとしては「たすかった」という思いだった。本誌では、始まってから一年間は、「ザ」の字も出さずにきたが、いったん書き出すと、切るに切れなくなってくる。ザメンホフなしにエスペラントは語れないが、本欄の主題は、エスペラントにある。「ザメンホフの世界」というそのためのコラムが出来た以上、そちらにお移り願うことができるからである。

 ザメンホフそのひとの生涯からエスペラントをぬくことはできないけれど、言葉はそれ自体が目的ではなく、手段であった。とすれば、ザメンホフの目的を語らないわけにはいかないし、そうなると、語るべきことは山ほどある。「世界」のほうは、スペースも小さいし、そこで何もかも書けるわけではないが、もっぱらザメンホフを語れる場ができたのであるから、関心のあるかたは、どうか、そちらでお読みいただければと思う。

 こちらには、エスペラントという言葉に関して必要なときはお出ましいただくとして、その他のことは「世界」のほうで考えていくことにしたい。とはいえ、今回はポイントの切りかえというか、⑯と⑰のつづきとして、もう一度、ザメンホフの伝記がテーマとなる。

 プリヴァー著『ザメンホフの生涯』の解説で山室静氏が述べられたことは⑯で紹介したが『とにかくこれは感動的な読物であり、読み終わった時には、ザメンホフとエスペラント運動に、心からの敬愛を寄せずにはいられなくなるだろう』とも書かれている。また、『世界の人間像』の同じ巻に入った他の作品は三篇だが、始めのほうで、『これは四篇のうちでも最も普通の伝記になっていて、手際よくまとまってい、興味深く読むことができた』と評価されている。しかし、いまは古書店でさがすか図書館であたってみるほかはない。

 ところで、感動的、ということは、そのように仕立てたプリヴァーの力量による。ザメンホフの生涯は、事実としても感動的には違いないが、読者が読んで感動するかどうかは、文章の力によるところが大きい。原文はエスペラントの古典的名著であり、どのように評価するにせよ、無視できない文献となっている。あとから書く伝記作者たちは、この作品にとってかわるものが書けるかどうかが、常に問われていると言えようか。

 とってかわることはむずかしいが、それを補足するような意味では、いろんな伝記が書かれている。日本語では、戦後間もない一九四八年、土岐善麿著『ひとりと世界』(日高書房、横浜市)が出版された。これは、プリヴァーの本をなぞりながら、かなりの部分では、そっくり訳しながら、ザメンホフの生涯をたどったものである。同年6月号の『エスペラント』誌(日本エスペラント学会刊)には短い新刊紹介が出ている。

 『土岐さんが「感動の中に、ペンをとりはじめ」「ぼくにとって楽しい仕事の一つであった」と言っていられるだけあって、すっきりした文章で楽しく読むことができた。ザメンホフ精神にたいして不感症になったようなわたくしは、これをある停年の科学者に贈って、その感想を求めたところ、大きい感激を受けたと告げられた』

 無署名の記事だが、「わたくし」というのは三宅史平氏であろうか。広告文には「エスペランチストはぜひ読んで感激を新たにするとともに、友人、知人に贈って、この人を一層ひろく日本人に知らせるべきである」とある。この本は定価六十円、当時、どの程度読まれたのであろうか。「あとがき」には、『新制中学校の国語教科書には三宅史平君のザメンホフに関する応募の短い文章も載せられている。それを読んでエスペランチストになるものもあろうし、人類に対する協同の心意を養うものもあろう。ぼくは老いたる一「同志」に過ぎないが、一方わが国語と国字問題について、ローマ字採用によるその解決を若いときから実践しているため、それらの著述と共に、エスペラントについて微力を尽くすことも、一種の責務と思っていたのである。今回そのほんの一端を果たし得ることは、まことに喜ばしいこと』だとある。

 わたしがエスペラントを学び始めた一九五三年ごろには、別の伝記が世に行われていた。伊東三郎著『エスペラントの父 ザメンホフ』がそれで、これは岩波新書、青版の30番という、わりに早い時期に刊行されている(一九五〇年刊)。

 訳書は別として、日本人の手になる伝記が六点ほどあると⑰で書いておいたが、いちばん広く読まれたのはこれである。岩波新書という、当時としては現在よりもっと手に入れやすい本の一冊に入ったのだから、その気があれば、だれにでも読むことが可能であった。新刊当時の評価は知らないが、わたしはそのころ通っていた図書館で見つけて読んだのが最初であった。「だれにでも」と言ったが、当時のわたしは本を買うことはめったにない生活をしていたから、これは訂正すべき表現かもしれない。プリヴァーの原著も訳書も知らないころで、おそらくザメンホフの伝記としては初めて読んだ本であったから、それなりの感動はしたのであろうが、判然としない。生涯や運動についての知識を得たことは、たしかであったが。

 世界のエスペラント界でプリヴァーの『生涯』が果たして来たような役割を、この伊東三郎の『父』は、日本語で果たしているように思う。「新書」としてはもう絶版になっているが、現在は「特装版」(B6判、八百円)が一般の書店で入手できるから、日本語で読めるザメンホフ伝の基本図書としておすすめしたい。

⑲エスペラントの人口

 百年まえ、ザメンホフが自分の国際語を世に出すべく、出版者をさがしていたころ、この言葉の人口は何人だったのだろう。まず、本人が第一番目であるから一人は確実にいた。二人目は、おそらく弟たちのうちのだれか、というのが、ありそうなところであろう。何番目かはさておき、のちに夫人となるクララも、ごく初期に、この言葉ができるようになった人のうちに入るにちがいない。

 いや、すこし早く先へ行きすぎたかもしれない。やはり、一八八七年の夏、いわゆる『第一書』のロシア語版が出た時には、著者ひとりしかいなかったと考えたほうがいい。

 それから約百年後のいま、世界のエスペラント人口は何人になっているのだろうか。まず、エスペラントって何? という程度にしか、世に知られていないという事実がある。たとえ、そういう国際語があることは聞いて知っている人の場合でも、実際にそれを使っている人には会ったことがない、という人が大部分ではなかろうか。で、そういう人が、たまたま、「エスペランチスト」だという、たとえば筆者のような人間に会うことがあると、その人は、ほとんど例外なしに、「その、エスペラントの人口は何人あるんですか」という難問を発することになっている。ほかに、これといって、きく材料がないから、無理からぬ質問なのであるが、これはきわめて答えにくい。

 理由のひとつは、国勢調査で調べのつく日本の人口、といったものとちがい、はっきりした数字がないことである。正直にいえば「わかりません」というのが一番正しい答えである。しかし、それでは、あまりに正直すぎるというわけであろうか、つい、サービス精神を発揮して、エスペランチストたちは、思い思いの数字をあげて答えてきた。

 ところで答えにくい理由の、もうひとつには、いずれにせよ、その数については「すくない」と自覚している人が多いという事実がある。そこで、実際には、どちらかと言うと答える人が思っている数よりも多い目に言ってしまいやすい。

 そういう理由がかさなって、たとえば「それは八百万です」といった数から、「二百万」あるいは「五十万」というように、かなりちがう答えとなってきた。それより多い数も出されたかと思うが、わたしのおぼえているかぎり、八百万というのは大きい数であった。これらの数は、もちろん「現在の人口」の話で、過去、約百年間にエスペランチストになった人の数を合計したものではない。

 ところで、話をわかりやすくするため仮に「百万」だとしてみる。世界中にたったの百万、すくないですねえ、と思うか、それとも「それはウソでしょう、そんなにいるはずがない」と考えるかは人によってちがうだろう。

 それに何をもって「エスペラント人口」とするかにも、答えにくい、おそらく最大の理由がある。ある言語の「人口」には、それを学んでいる人が全部入るのだとすれば、日本の英語人口は、すくなくとも中、高、大学生の数ほどはあることになる。しかし、日本で、あなたは英語ができますかと聞かれたら、そのうち何人ぐらいが、「英語人口」に入ると思っているのだろうか。

 エスペラントの場合は、まず学習している人の数がすくないし、いったい、そのうちの何人が自分は「エスペランチスト」だと自覚しているのだろうか、ということになると、さらにすくなくなるだろう。また、自覚はともかく、この言葉の運用能力はどうか、といった実力中心主義で見ていくと、ますますモノサシがあてにくくなる。

 そこで筆者などは、大体、こう答えることにしている。

「それが、じつは、これこれの理由で、よくわからない、というのが正直なところなんです。ただ、こういうことは言えるんですね、つまり、世界エスペラント大会というのが毎年一回、七月から八月ごろ、一週間ほど開かれていまして、これに参加する人たちが西ヨーロッパの都市で千五百人前後、東ヨーロッパですと三千から五千ぐらい。しかも、このほかに、大小の国内大会や国際集会、セミナーなど、いろいろありますから、そういう会合に出席する人たちの数を合わせると、相当なものになりますね」

 これは、エスペラント人口の一端がわかる具体的な数字である。このようにエスペラント関係の集まりに顔を出すほどの人なら、たとえ初心者といえども数のうちに入ると考えれば、どうだろう。

ところで、こういう数字は、現状ではあまり意味がない。大切なことは、エスペランチストが、多くはなくても、世界の各地に散在しているという事実だ。

 たとえば、街を歩いていて、だれに話しかけても答えがかえってくるという便利さはないにしても、連絡をつければ、世界のあちこちに話の通じる人たちが、ちらばっているというのは、なかなか大したことだというべきではなかろうか。

 一粒万倍という言葉がある。百年前、一人だったエスペラント人口が、どうすくなく見ても、現在、一万人はいるにちがいないから、まあまあの人口ではなかろうか。

 それにしても、と、ここであらためて創始者ザメンホフの考えた数字に思いをはせてみたくなる。『国際語』などと言ってみても、だれも学んでくれなければ何にもならない。そこで、『もし、一千万人の人が学ぶと約束したら、わたしもこの言葉を学ぶことを約束します』という約束を集めようとしたのだから。十万や百万でも、どうかと思うが、一千万という非常識な数字を見せられては、だれだって待っていられない。そこで「無条件に」学ぶ人は、すぐに始めてもいいようになっていた。最初のころ、この無条件組が何人あったかは不明だが、多くても数百名であったろう。

⑳チボール・セケリさん

 言葉は、外国を旅行するときにはとくに必要なものである。見れば分かる、ということもあるが、やはり聞いて初めて分かることも多い。

 わたしの場合、エスペラントを知ってから十五年ほどは日本にいて外国からのお客さんを迎える立場にいた。主として京都に見える人たちの相手をしたが、ときには他の地方へも案内して行ったこともある。その間に知り合いになった人たちは多いが、たいていは一度だけの出会いで、二度、三度と出会う人となると、そう多くはない。

 そういう人のなかに、ユーゴのチボール・セケリさんがある。日本で二度ばかり会った後、こんどはわたしがユーゴへ行く番がきた。出発前に手紙を出し、あらかじめ連絡をつけておいた。

 さて、そのチボール・セケリさんは、「ユーゴの植村直己さん」のような人だそうである。直接、わたしが聞いたのではないから、そうである、というのであるが、これは、東京の駐日ユーゴ大使館のある人が言った言葉である。植村さんは冒険家として有名だが、セケリさんは「ユーゴの探検家」として有名な人だという意味であろうか。

 外国の、ある人が、どのように有名かを実感として理解するのは、なかなか、むずかしい。そこで、このように「だれのような人」だと言われると、すこし分かったような気がする。わたしも、セケリさんがユーゴで有名人であることは知っていたが、ウエムラさん云云というのを聞いて、なるほどと納得したのだった。もっとも、これは有名度の例えであって、二人の人がしてきたことの中身の話ではない。

 きょうは三月十日だが、十七年前のいまごろ、わたしはユーゴに滞在中で、セケリさんのお世話になっていた。約一年後に開かれることになっていた日本万国博覧会のために「世界民族資料調査収集団」なるものが結成され、二十人ほどの人間が世界の各地域へ出かけていたのだが、わたしも一員で東欧の担当だった。前年の十二月五日、三ヵ月の予定で日本をたち、右往左往しているうちに、もう三月になってしまっていた。それなのに一向に収集の成果はあがっていなくて、つい何日か前までお先まっくらだった。収集団を送り出した事務局には、団員から行動の報告が行くことになっていたのだが、何しろモノが集まっていない以上「大本営発表」のようには行かず、報告が書けない。二月の下旬まで、そういう状態がつづき、日本では関係者のみなさまに大変なご迷惑、ご心配をおかけしていることが、家からの手紙に書いてあった。やっと、二月の末日、ハンガリーの村で数点収集し、やっとかすかな光がさしてきたかというところだった。

 初めて外国へ行き、観光ならともかくモノを買って集め、日本へ送り出すという仕事をかかえているというのは、しんどいことにちがいない。が、「できませんでした」と、手ぶらで帰るわけには行かない以上、なんとかしなくては。

 やっと、収集物を持ってバスで南下、ユーゴに入ってからも、いくらか買うことができ、ホッとしているとき、セケリさんからはがきをいただいた。氏が顧問をしている「青年探検家クラブ」の人たちと、九日に収集に行く話が進んでいたのだが、OKだという知らせであった。

 すでに、十二月中旬、最初にユーゴ入りしたとき、首都のベオグラードで、このクラブの会合にも顔を出し、再会を約束していたのだが、具体化するわけであった。八日のうちにバリエボ市に着き、セケリさんやクラブの人たちと会う。会員は、この地方の出身者が多く、また、クラブは青年の文化活動として公認されているらしく、かれらのたまり場のような店に案内された。この家は、当地出身作家の記念館で、文化人のクラブのようでもあった。何だか訳のわからないうちにそのクラブの「名誉会員」にされて、ちゃんと立派な「ディプローマ」までいただいてしまった。これも、セケリさんの顔が物を言った結果であったろうか。

 三月八日は「国際婦人デー」で、日本ではほとんど何もないが、東欧では盛大に祝われる。夜は、高校の女性の先生を中心にした宴会があり、それにも招待されて大歓迎を受けたりした。

 九日は、さらに三十㌔ばかり山の中へ車で入り、山道には雪が残っていてスリップするため、あとは徒歩で谷間の分教場のようなところに着く。一行十七名が二班に分かれ、収集にあたった結果、小さいものばかりではあったが、約二十点ほど収集できた。中には、現にまだ使っていて、わたしもマメの煮たのをそれで食べてきたという、木のサジも入っていた。セケリさんは、集まった生活用具などをノートにスケッチし、説明をエスペラントでつけてくださった。長年の探検家としてのキャリアがあり、土地の言葉も分かる人なので、こういうことは、わたしがするよりセケリさんに頼んだ方が確実であった。

 そのセケリさんが、二年前の夏、何度目かの来日をされた。こんどは、著書の日本語訳『ジャングルの少年』(福音館書店刊)が縁で、日本側からの招待によるものだった。それまでは、エスペランチストとしての自前の旅行であったが、今回の来日は有名な児童書出版社から刊行された本の著者として、東京や名古屋などで講演をするためである。植村さん云云はレセプションで出版社の人が聞いたことであるが、大使館の人たちも「あのセケリさんが見えた」というわけで会いたかったもののようである。
 本は、エスペラントが原作で、十以上の言葉に訳されているが、高杉一郎氏の訳による日本語版は「第三〇回青少年読書感想文全国コンクール小学校高学年の部」の課題図書になり版を重ねた。書評でも「大人が読んでも楽しめる」本であると評価が高かった。(この項つづく)