エスペラント・アラカルト (4)

⑬自然語と人工語

 前回の終わりのところで、外国に住んでいる日本人が家庭で日本語を子どもに伝えていくのには、大変な努力がいる、ということに触れた。自由に話せる親が一緒に家にいる国語にしても、子どもが自然におぼえるためには、まわりの社会生活が必要とされているわけである。

 エスペラントは、国語が「自然語」といわれるのに対して「人工語」と言われてきた。ここに、誤解や偏見の原因があるように思う。人間は、自然が好きだから、自然という言葉には抵抗がない。それが人工となると、そうはいかない。とくに、相手はモノでなく、コトバなのだから、人工語と言われると、うさんくさいものではないかと見られるのである。

 これは、人工語と言うほうが、いけないのだ。人間は、言葉に影響されやすいものだから、人工語と言っておいて、何とも思うなというのが無理なのである。

 それに対して、いわゆる国語というのは、自然[・・]語と言われているため、何も人の手が加えられていないように思われてしまい、いわば得をしている。文字をもたない言葉ならともかく、近代国家と結びついた国語[・・]が、何の人手も加えられていないことはないのだが、ともかく自然語[・・・]という言い方のおかげで、人工性は見逃してもらっているのである。

 日本語も、旧仮名とか新仮名、送りがなの問題とか、いろいろあるけれど、だからと言って「人工語」とは呼ばれていない。国語[・・]問題にすぎないわけで、いずれにせよ「自然語」の中のこととして考えられているのであろう。

 さて、エスペラントが人工語と言われるのには、それなりの理由がある。この言葉がザメンホフによってつくられたからである。しかし、問題は、言葉をつくる[・・・]とはどういうことなのか、である。

 つくる[・・・]、と言っても、いろいろあるけれど、もし、創造することだと考えてみると、どうか。無から有を生ずることを創造することだとすれば、ザメンホフはエスペラントをつくった[・・・・]とは言えない。

 ザメンホフも、いま言ってきたような意味で創ろうとしたことはあるが、それは不可能だと気がついたのである。あるいは、創るだけは出来ても、そうして出来た人工語[・・・]を人間に使ってもらうことは不可能ではないかと考えたのだった。

 ザメンホフはコンピューター用の人工語[・・・]をつくろうとしたのではなく、人間同志が耳で聞いたり、手で書いたりできるような話し言葉、ふつうの言語をつくろうとしていた。いまは、結論だけ言うことにすると、ザメンホフは「つくらないという方法」によって、いまエスペラントと呼ばれている言葉に到達したのだ。

 ザメンホフの前には、無[・]どころか、言葉の「有」がいっぱいあった。その有から引き出してきたのが、いまのエスペラントであるが、それまでには何年もの時間がかかっている。一朝一夕にできた[・・・]わけではなかった。

 それにしても、それこそ自然に生まれた[・・・・・・・]のではないし、だれかがつくった[・・・]という言い方をすれば、やはりザメンホフがつくったのである。話は元へもどるが、言葉をつくるとはどういうことか。

 ザメンホフがつくったのは、結局、文法[・・]という作品である。しかも、目の前にある自然語をモデルにして、そこに見られる文法から、エッセンスを抽出してきたものである。モデル小説にならって言えば、モデル文法なのだ。

 そのモデルたちは、ヨーロッパ諸語の文法であったから、モデルが、できた文法にも影を落としているのは当然である。そこで、そのことに気を取られた人からは、エスペラントはヨーロッパ語にすぎない、などと言われてしまうことにもなる。複数とか冠詞とかがあるのも、モデルのせいである。

 しかしながら、モデル小説が、いくらモデルがあっても小説であって実生活そのものでないように、エスペラントの場合も、モデルそのままではなく、一種の作品になっている。モデルたちの全部を引き受けたのではなく選択がしてある。その作業こそ、ザメンホフがした仕事なのである。

 その結果できたのが、『十六カ条の文法』であるが、その見事さは、モデルがあったおかげであろう。さらに、言葉が具体的に表現されるためには語イが必要だが、こちらはさらに「つくらなかった」と言えよう。大部分は、ありあわせのコトバ、ヨーロッパ語を中心にして、当時そこにあった[・・・・・・]語イを採用したのだから。

 ただ、エスペラントという名の文法をあてはめるため、そのまま[・・・・]の部分とエスペラント化された部分がある。そして、この部分に、人びとは人工性を感じるのであろうが、もし、それもなければエスペラントの存在理由はなくなる。そしてヨーロッパ語以外の、日本語やその他のコトバの語イにも、エスペラント文法はあてはめられるわけで、そのため、エスペラントは「ヨーロッパ語にすぎない」とは言えないのである。

 たとえモデルはあっても、作品というのは、モデルそのままではない。有から有をつくったにしても、エスペラントはよくできた言葉だと思う。ザメンホフ(一八五九―一九一七)以後も、語イの面では新語も増えてきたし、それは今後とも必要に応じて増えていくことであろうがそれも『エスペラントの基礎』という土台があるから可能なことだ。
 モデルがいっぱいあって混乱していた文法を整理し、スッキリした文法にした上、語イの面でも、国際的に共通点の多い語根を採用し、練習問題という名の文例を実際に示したものが、右の基礎[・・]である。そのほか、ザメンホフは、シェイクスピアのハムレットやアンデルセンの童話集、旧約聖書など多くの文献を訳し、エスペラントの実際の表現力を作品によって示してもいる。土台をこしらえただけでなく、建物のつくり方についてもモデルとなったのがザメンホフであった。

⑭有利と不利

 この夏、大本本部安生館のミーティング・ルームで、ささやかな国際交流の会が開かれた。出席者の中心は、韓日エスペラントセミナーのため来日した韓国の青年たちだったが、中にスペイン人の青年がひとりいた。語学の教師をしているかれにとっても、エスペラントは「決してやさしくはない」と言う。英国に住んでいたこともあり、英語は話せるし、フランス語やドイツ語もできる。日本人から見れば、エスペラントを学んで使う人間としては、かなり有利な条件に恵まれている立場にあると言えようか。

 しかし、有利な条件は、必ずしも無条件に有利なことを意味しないらしく、それなりの努力をしないことには、エスペラントは自由に使いこなせないという。

「エスペラントはヨーロッパの共通語にすぎない」などと言いたい人には、理解しにくいことであろうが、まず、発音がむずかしいのだそうである。理由は、エスペラントで使う二十八個の音素のうちスペイン語にないものがあるからだ。

 この「自分の国語にない」というのが「むずかしい」ことの理由であるのは、どの言葉にもあてはまることである。自国語にある事項でカバーできるかぎり、外国語はわりに楽にマスターできる。韓国人たちは、C[ツォー](おとっつ[・]ぁん、ごっつぁん、などのツの音)が苦手らしく、KOMENCANTO[コメンツァント](初心者)と言うべきときも、ちゃんと言えなくて、しきりにコメンチャントのように言う。

 韓国人のひとりが、さきのスペイン人にCの発音を習っていたが、何度もやっているうちに上達していた。じつは、このスペイン人もいまは発音できるけれども、スペイン語にないということで、はじめはむずかしかったという。

 それは、文法事項についても言えることで、エスペラントの特長のひとつである膠着語的なところも、むずかしい。日本人にとっては、「鉄」と「道」で「鉄道」、それに従事者を意味するISTがつき、FER(鉄)/VOJ(道)/IST(員)O(発音はフェルヴォィイスト)となるような造語法は、納得しやすいが、そのあたりも、彼はむずかしいと言っていた。

 最近、ソ連で出版された入門書についての書評を読むと、ロシア語にない冠詞のせいであろうか、著者(二人)にも、「定冠詞」はむずかしいらしく、いっぱい間違いがあるという。日本語にも冠詞はないから、このむずかしさは、われわれにも共通のものである。
 もし、「何語にない」からという理由で、あれこれの事項を採り入れないで「世界語」をつくる[・・・]とすれば、発音や文法の点で、非常に不自由なものになるようだ。不自由、というのは、ことばをつくる側のことで、使う側にすれば、あらゆる国語の人びとにとって、「むずかしいことはない」言葉、ということになる。しかし、世界中のあらゆる言語に「すべて共通する要素」だけというのは、きわめて少ないらしい。いわば、「世界共通要素語」といえるものが、かりにできたとしても、果たしてそれが、みんなを満足させる、文句なしの「世界語」として認められるかどうか。

 発音、文法、語イ、それぞれの面で、何国人にとって苦手のところや、得手のところを含みながらも、エスペラントは現在あるような姿になっている。あとは各国語人が、自分なりのハンディを背負いながら、努力をかさね、この世界的な共同事業に参加して行くほかに道はない。

 ところで、有利か不利かといえば、一般的にヨーロッパ人のほうが、その他の例えばアジア人よりは有利である。しかしながら、ヨーロッパ人といっても、言語の系統からいえば一様ではなく、フランス人とハンガリー人、ドイツ人とブルガリア人では、かなり条件が違う。アジア人についてもそれは言えるはずだ。ヨーロッパは、「アジアではない」ことでは同じでも、その内部に入ってみれば言語事情は複雑なのである。それにしても結局、決め手になるのは、例えば冠詞なら冠詞が、自国語にあるかどうか、といういわば理屈をこえた点である。とりあえずは、そこから出発するほかはない。

 そこでエスペラント文法では、冠詞についても、「注」がついていて、「冠詞の使い方は、ほかの言語のそれと同様である。冠詞の使い方がむずかしい人たちは、初めのうちは全く使わなくてもよろしい」とされている。じつは、右の注のうち、前段は、かなりおおづかみな言い方で、こまかいことを言うと、ほかの言葉といっても、英語とフランス語では、多少の違いがあるらしい。大筋のところでは、ぐらいに解釈しておく。また、後段の、使わなくてもよろしい、というところも、始めのうちは[・・・・・・]ということで、いつまでたっても使えないようでは困る。で、あとは各自において勉強し、使い方に慣れて行くことになる。これは何も冠詞にかぎったことではない。

 不利だからやらない、というのであれば、逆に、有利だったら、みんなやらねばならぬことになるが、有利なはずの人たちも、なかなかエスペラントには手を出そうとしない。いまのところは、意欲のあるものが、多少の不利は承知で、あるいはそんなことは気にもせず、世界語思想の意義を認めて、エスペラントを学んで使っている、というのが実情である。

 まず、国語とは別に、どのような言葉にせよ、中立の国際語ないし世界語というものの必要性を認めるか否かというのが、第一に重要なことであろう。それがなければ、エスペラントが具体的にどのような言葉であっても、大して意味はないことになる。わたしは、そういう必要性を認めているため、エスペラントにむずかしいところがあっても、あるいは逆に、やさしすぎる?ところがあっても、やめたりせずに、気長につきあって行こうと思っている。

⑮日本語式の語順

 前回、スペイン人の青年の話を紹介したが、このベン・パルキンソン氏は、エスペラントの語順についても、意見を述べていた。日本人は、もっと日本語式の語順をエスペラントに持ち込んだほうがよい、というのである。語順とは例えば「犬が猫を見た」というような文型の文は、どの順序で言うか、ということだ。英国の西部で使われているウェールズ語では、(原文省略)直訳すると、「見た、犬が、猫を」の順で言うらしいが、英語では、「犬が、見た、猫を」式に言う。ただし、これは、「順序」のことで「が」や「を」にあたる語があるという意味ではない。そういう語順を日本語式にしてはどうかとかれは言うのだ。言い直すと「英語と同じ語順にしようとしないほうがよい」ということになる。もっとも、英語と同じ、などと簡単に言うと、よくないかもしれないが。要するに、かれが言いたいのは、ヨーロッパ人でない日本人(など)が、もっと自由に創造性を発揮することが、世界共通語(を目ざすところの)エスペラントとしては、望ましい、ということである。

 語順というのは、慣れてしまえば、英語式であろうと、日本語式であろうと、それほど不自由ではなくなるが、慣れるまでの努力を少なくしようと思うならばかれの説にも一理あるかもしれない。

 一口に日本語式と言っても、実際にエスペラントで言おうとすると、百パーセントそのとおりには行かない。あるいはそのような気がするだけで、実験してみれば、案外うまく行くのかもしれないが。

 じつはその時、手元に「日航機事故」の新聞記事があったので、かれの依頼によって、リード部分の一部を日本語式の語順でエスペラントに訳して聞かせたのである。この人は、すこし日本語を勉強し始めていたせいか、「わかる」と言っていた。前置詞をどこに持ってくるかとか、日本語式にするのも苦心がいるのだけれど、実験してみるべきことにはちがいない。エスペラントは、まだまだ、そういう意味でも可能性の大きい言葉なのである。

 ところで、新聞のニュース記事は長いし、文章も単純ではないため、苦心がいるのであるが、さきにあげたような場合は、なんでもない。

① 見た、犬が、猫を。(ウェールズ語)

② 犬が、見た、猫を。(英語、中国語)

③ 犬が、猫を、見た。(日本語その他)

④ 見た、猫を、犬が。 ⑤ 猫を、犬が、見た。 ⑥ 猫を、見た、犬が。

 この六通りが、論理的には可能であるが、多いのは②型、それと③型に属する言語で、①型はわりに少数らしい。④⑤⑥の三つは、いずれも「見た」という動詞はともかく、「猫を」(目的語)が、「犬が」(主語)よりも先に来ている。それに対して、①②③は、主語が目的語より先に置かれている。

 さて、いわゆる「主語」には、いちいち「が」がついているけれど、主語であることを示すためには、なくてはならぬシルシではない。目的語に「を」がついてさえいれば、それでよい。エスペラントでは、この「を」にあたるコトバとしてはN[ン]というのがある。どちらが、どちらを、見た、のかが分かればいいのだから、Nひとつあれば用をなす。そのおかげで、エスペラントでは、さきにあげた六通りの語順が全部使えることになる。

 かりに、日本語では「が」は主語を、「を」は目的語を示すものだとすれば、エスペラントには「が」にあたるものはない。それでも、Nひとつで六通り全部が言えるので、エスペラントでは「語順は自由である」などと言われることがある。しかし、これは、どの順序で言っても、まったく同じ意味を表すということではない。犬が猫を見た、と言う事実には変わりはないが、どちらが先に来るかによってニュアンスの違いは出てくる。自由といえば、表現したいことの重要度に応じて語順がかわってくるから、自由だと言えないことはない。

 エスペラントは、一応、②型を基本にしているが、パルキンソン氏は、もっと③型を!と、すすめているわけである。①型や④⑤⑥型も、必要に応じて使い分ければいいのだし、現に、「昔々、王様がありました」のようなときには、エスペラントでは「昔、ありました、王様が」の語順になることが一般的である。

 さて、これはエスペラントではなく、日本語のことになるが、「犬が、猫を」でなく、「犬は」だったらどうなるか。「見た」のなら、「犬は、猫を、見た」でいいけれど、「好きだ」だったら、どうであろう。「犬は、猫が、好きだ」というが、では、「食べた」なら?

「犬は、猫が、食べた」というのが、わかりにくいとすれば、「魚は、猫が、食べた」だったら、どうか。

 このように、同じ語が同じ位置にあっても、つまり語順は同じでも、が[・]なりは[・]なりのつく単語次第で、わかりやすかったりそうでなかったりすることがある。

 いずれにせよ、各国語には、このような具合に、いろいろな文法上の問題があり、主語とか目的語とか言ってみても、なかなか一筋縄では行かないのが言語というものである。

 エスペラントが、いまのような姿をしているについては、創始者であるザメンホフという人物の個性と関係はあるけれども、「自分が好きなように創れたとしたら、いまのような姿はしていなかったと思う」と、ザメンホフは言っている。

 十九世紀後半の帝政ロシア領に住んでいた青年ザメンホフが、どのようにしてこの「国際語」に到達したかについてはいずれ見て行くとして、結果論的に言えば、エスペラントが現在の姿をしているのは、いわば「必然的にそうならざるを得なかった」ということであろうか。個人の好みをこえた、歴史的な産物、という面が、たしかに、エスペラントにはある。

⑯ザメンホフの課題

 十二月十五日はルドビコ・ザメンホフが生まれた日で、エスペランチストたちは世界の各地で「ザメンホフ祭」という催しをしてこれを祝っている。ことしは生誕一二六年になるが、たまたま日曜日なので、ちょうど十五日にザメンホフ祭を行うところが多いかもしれない。

 誕生日は不動だが、ザメンホフ祭そのものは流動的で、十五日前後の都合のよい日を選んで開かれる。この数日間のズレは、ときには便利なこともある。初めて海外へ行ったのは十二月の初旬だったが、まずユーゴスラビアのベオグラード(の近くのゼムンという町)のザメンホフ祭に出たあと、次はブルガリアのソフィアのにも出ることができた、というのもそうである。世界中では何か所であるのかわからないが、同じ年に外国のを二つも経験できたのはよかったと思う。

 とくに、ソフィアのザメンホフ祭は国立人形劇場で行われ、満員だった。何でも整理券が発行され、だれでも入場できるというものではなかったのだが、わたしは外国人なので都合をつけてもらえたようであった。人形劇が上演され、詩の朗読やザメンホフをたたえる講演などもあったが、そういう内容にもまして一番おどろいたのは、その数であった。日本で数十名、最大限百名ぐらいまでのザメンホフ祭というのは知っていたが、小さいながら劇場が満員になるほどのものがあるとは想像外のことだった。

 ブルガリアはエスペラントが盛んな国だとは聞いていたものの、ザメンホフ祭に出ただけでそのことがよくわかった。

 もちろん、そういう、にぎやかなものばかりではない。これは日本の例だが、ある年のザメンホフ祭について、数人の出席者を得てしめやか[・・・・]に行われたと、手紙に書いて寄こした人もあったほどだ。多くは、その中間の規模であろうか。

 人数やプログラムの違いはさておき、十日後のクリスマスから見れば、まだまだザメンホフ祭は、ささやかなものである。二千年にちかいキリスト教の歴史と百年未満のエスペラント運動とでは、くらべようもないが、イエス・キリストとルドビコ・ザメンホフとなら、縁がないわけでもない。

 ザメンホフは、一八五九年十二月十五日、ポーランドのビヤリストクでユダヤ人の家庭に生まれた。父のマルクスは、私塾をしていたが、あとでは国立中学校の地理と現代語の教師になった。ザメンホフは長男で、きょうだいは他に男が四人、女が三人生まれた。

 その当時、独立国としてのポーランドはなく、ロシア、プロシアそれにオーストリアの三国に分割されていて、ビアリストク市はロシア領にあった。じつは、このあたりから、ザメンホフについて語るのは、きわめてむずかしくなるのである。これまで、わりに広く知られていたように「ポーランドの眼科医ザメンホフが……」というわけにはいかない。たとえば、「ポーランド人の」といえば、ご本人も、「わたしはポーランド人ではない」と否定なさる。第一、いまでこそポーランドという独立国は存在しているけれども、ザメンホフは生前、ついにポーランドなる独立国の住民であったことはなかった。ところで、いまは、この問題にあまり深入りすることなく、先へ行くが、一八七三年になると、ザメンホフ一家はワルシャワに移り住んだ。国名のポーランドはともかく、このワルシャワ市の住民としてザメンホフは長いこと暮らすことになる。

 国のことも単純ではない上に、さらに民族の問題がからんでくる。ザメンホフの伝記は数種あるが、そのひとつエドモン・プリヴァーの『ザメンホフの生涯』について、すこし見ておくことにする。この本の訳が二十年前、角川書店の「世界の人間像」第16巻の一部として入ったとき、解説を書かれた山室静氏は、次のように述べられた。

『ザメンホフがなぜ国際語エスペラントの創設に心を傾けたか? これは誰しも関心するところと思うが、著者はそれをザメンホフが悲劇の土地ポーランドにユダヤ系の子として生まれ、少年時代からポーランド、ロシア、ドイツ、ユダヤらの諸民族の反目と抗争を見、被圧迫民族としてその間に悲惨な体験をしたことにおいて、この点の叙述に力をそそいでいる。……「キリストが人間の罪のために十字架にかけられたように、ポーランドはわが身を引き裂かれて、諸国家の罪のつぐないをしたのである」

 われらのルドビーコ・ラザロ・ザメンホフもそういう苦難の中から生まれた人類の贖罪者の一人として、その眼を「民族的なエゴイズムを越えて、純粋に人間的な世界観へ」とより深く、より高く、とどかせたのだ、と。

 たしかにそういう事情があるだろう。しかし、そういう悲劇の土地に生まれた人間なら、それだけいよいよ刻薄に、我利我利なエゴイストに、排外的な民族主義者になったとしても、またふしぎではない。むしろ、そうなるほうが普通だろう。しかしザメンホフは、そうならずに、諸民族の相互理解と世界平和を願って国際語エスペラントの創造に向かった。そこには単に、彼が悲劇の土地に生まれて苦しい体験をしたという以上のものがなくてはならないだろう。そして、そのものこそがザメンホフをザメンホフたらしめたものなのだから、それを鮮やかに取り出して見せてくれたら、全体としてその伝記はもっと精彩のある、強い感動をよぶ読物となったろう。しかし、この点の叙述は残念ながら十分ではないようだ。
 それにしても……』と、山室氏の文章は先へ進むのだが、今回はここまでとする。長い引用になったが、氏の言われる「そのものこそが」というポイントをご理解いただくため、そうさせていただいた。そういう土地にユダヤ人の子として生まれたラザロ少年が、なぜ「ザメンホフ」になったかは、大きな課題である。