エスペラント・アラカルト (3)

⑨会話と読解

 異民族、あるいは異国の言葉を外国語と呼ぶとすれば、エスペラントは「外国」語とはいえない。この言葉は、本来、民族や国家のために存在しているものではないからだ。そこで「国際語」と呼ばれているわけだが、この呼び方も、まず先に国があって、そこから出てくる考え方に基づいているので、最善の表現ではない。たとえば、日本の場合、日本語とか国語と呼ばず、「地方際語」とか「県際語」と言うようなものであるからだ。

 日本という国を中心にすれば、日本語とか国語とか呼ぶほうが自然である。エスペラントも、固有名のエスペラント、ないし目的に応じた言い方としての、世界語、世界共通語、中立語、といった風な呼び名のほうが、理にかなっている。

 わたしは、はじめ、「日本語でない言葉」というものを、ひとつぐらい学んでみたい、という風に思っていた。それがエスペラントになったのは、偶然か必然か、いまとなっては、そうでなかった場合と、くらべようがないので、わからない。知ってみると、この、世界語というものの存在自体が、いいものだと思われた。この世に、世界というものが存在している以上、やはりそのための言葉があったほうがいい。おまけに、入門してみると、なんと、よくできた言葉だなあ、ということが、日ましに、わかってくるのだから、これは、もうやめられない。

 日本語の場合、「おれ、わし、わたくし等々」、ご存じのとおり、自分のことを表すコトバが、たくさんある。これは歴史的文化的社会的その他、要するに日本的事情によって生まれ、使われてきたものだ。反対しようが賛成しようが、それには関係なく「そうなっている」という事実は認めるほかはない。だが、そういう日本語的文化を、そのまま、世界語にまで持ち込むことはいらないわけで、エスペラントにはMI[ミ]ひとつしかない、と言ってさびしがることはないと思う。

 日本の社会でこそ、身分なり地位なりによって、おれ[・・]とわたくし[・・・・]等々を使いわける意味もあるが、エスペラントで話すときまで、自分を何と呼ぶかで思いわずらう必要はない。いつでも、だれと話すときでも、自分のことはMI[ミ]に決まっているというのは、まことに単純明快である。しかも、日本語の場合は、かりに、「あなた、わたし」というような代名詞ぬきで話すとしても、動詞にかかわる言い回しがいろいろあって、相手と自分という関係が、つねに、ついてまわるのである。その点、エスペラントは、過去、現在、未来といった時間による変化はあるけれども、人称による動詞の変化はしないから、その分気苦労をしないですむ。

 こう言っても、エスペラントは、だから一種類の言い方しかなく、したがって表現も変化にとぼしい、ということではない。日本語には日本語の、世界語には世界語の方法がある、ということで、表現力の豊かさとか、まずしさとかの問題ではない。

 独習書を相手に、ひとりで勉強していたときから、「エスペラントは、やはり話せるようになったほうが楽しいだろうな」という気が、しきりに、していた。

 言葉を勉強している人なら、まず、たいていの人が、この言葉で直接、ほかの人たちと話がしたい、と思うにちがいない。それでこそ、いわゆる「英会話」の人気も高いのである。

 街には、しかしながら、「エス会話」スクールなどはなかったから、会話も、自分で独習するしかなかった。ただ、エスペラントは、すでに書いてきたように文字と音声が発音しやすい関係にできているので、独習者にとっては、ありがたい言葉なのである。発音の仕方を本で読み、忠実に実行すれば、大体において通じる発音ができるようになっている。ここで「完全に」と言わないのは、用心しているからで、実用的には、まず大丈夫である。(ただ、中には、日本のある地方の方言のクセを、そのまま持ち込む人もいるから、だれでも[・・・・]とは言いにくい、ということは否定できない。これも、しかし、若い世代の日本人と、昔の人たちとでは、条件がちがうとか、人によってあるいは世代によっても事情はちがう)

 それから、エスペラントには「であります、である、です」といったような、書き言葉と話し言葉による違いが、基本的にはないため、独習者でも話せるようになるのに、都合よくなっている。
 もし、だれかの話をテープから文章におこすとして、日本語の場合、そのままだと談話体まるだしで、書き言葉とは大きな違いがある。文語と口語ではもちろん大いにちがう。エスペラントの場合はそれほどの差はない、ということで、みんなが「書くように話せる」とか、逆に、「話すとおりに書ける」とかいうこととは、ちがう。これは、個人の運用能力のことである。そこで、「基本的には」と言ったのである。

 というような事情は、あとで分かったことで、わたしは、とくに、「会話のケイコ」いうものは、していない。ふつうの本を読み、読解し、なるべくなら音読にはげみ、書き写し……といった勉強法しか知らなかったからでもある。

 結果として、本が読めるようになっていたころ、初めて話されるエスペラントを耳にした。独習を始めて半年は、まったくひとり、次の半年は、たまたま知り合いになったエスペラントの先輩について、週に一度、習うようになっていた。これは、訳読の勉強で、とくに会話というのは、やっていない。入門書を手にしてから一年たったころ、アメリカのエスペランチストの話すエスペラントを聞いたのだった。その一週間ぐらい前に、日本人の学生たちが話すのも聞いていたのだが、このあたりが、わたしにとっての会話ことはじめ、ということになる。

 知らない単語が出てくると、それは分からなかったが、全体の流れとしては、耳で聞いて理解することができた。

⑩独習の仕方

 初めて読んだ独習書は、『エスペラント四週間』という本で、著者は小野田幸雄というひとだが、「序」には、「昭和六年十月 オリオンの昇り来る頃 麻布にて」とあった。第一版が八年十月、いま見ている第七版は二十四年十二月の発行だが、わたしが買ったのは二十八年でこれよりは後の版であった。その後、人に貸したままになり、いまは手元にない。持っているのは、古本屋で買った。

 現在入手できる『四週間』は、大島義夫氏による新稿の版で、まったく別の本である。わたしにとっての四週間(発行元は、いずれも大学書林)は、小野田氏の本、ということになる。これは会話も作文も、と、欲を出さず「読解専門」を目ざした本で、よくできていたと思う。「文の解釈は通り一遍でなく、解答に至る迄の考へ方を講じ、又文趣、文調を強調した事」や「本書全體としての體系を極度に組織的ならしめやうと努めた事」等が留意したことであったという。

 全部で二十八日間に割りふってあるわけだが、最初の二日は「発音」にあててある。「エスペラントを発音するには、其処に書いてある通り其のまゝを、聲として出せばよい」という説明に接して、自分が何となしに考えていた「日本語でない言葉とは、これだな」という気がした。これなら、自分にも、できそうだ、という思いであった。

 学校で習った英語は、文字と発音が一致していなかった。Aという字が、いろいろに読まれる。エスペラントでは、Aはア、アー、Eはエ、エーだという。これだけで、もう決まった、という感じであった。この言葉なら、独習でもできるのではないか。

 この本のいいところは、あまり詳しすぎないところにあった。体系的に、分かりやすく書いてはあったが、そうページ数の多いものではなかった。一日平均で約十ページ、という見当である。なにしろ、初めて学ぶのであるから、エスペラントがいくらやさしいとは言っても、あまり多すぎては消化できない。多い少ないは、人によって違うから一概には決められないが、わたしにとっては、手ごろな分量であったようである。毎日、せっせと勉強し、一回めを終了するには一カ月はかからなかった。六月の下旬から始め、暑い夏の間に、もう一度よんだ。

 そのころ、ずっと通っていた図書館でエスペラント講習会のポスターを見かけた。一応、一通りは終わりまで行っていたころではなかったかと思う。独習をしていて、「これでいいのかな」という心配でもあったのか、その入門講習会へ行ってみようかという気をおこした。

 会場の近くへ行ってみたところ、それらしい人たちの姿が見えないのだった。本で読んで、「こんないいものはない。これだったら、たくさんの人が押しかけてくるにちがいない」と思い込んでいたのに、会場へ通じる道にいても、だれも来ない。何だか不安になり、参加する勇気が出ずに引き返してしまった。あとで、そのときのことをきくと、五人ぐらいの参加はあったらしいのだが、ともかく、わたしとしては、講習会で教えてもらう、という経験は、しそこなったわけである。

 自分がいいと信じて勉強しているエスペラントであったが、世間の人びとは、必ずしもそうは思わないらしく、講習会があるからといって押し寄せてもこないことが分かった。「多くの人」という、数についての「夢」は、そのとき、やぶれてしまったのだが、それでも、がっかりして自分の勉強をやめる、ということには、ならなかった。

 おそらく、そういうことがあったころから二回目の読みにかかったのではなかったろうか。「四週間」のあと、さらに別の独習書を三、四冊は読んだ。入門書であるから、どの本にも、似たようなことが出てくる。著者の個性によって、書き方は違っているが、書かれている文法の規則などは、同じである。そこが、いいのである。前に、四週間で得た知識の確認ができるし、忘れていたことは、あらたに、おぼえられる。入門、初級、中級と、一冊ごとに上へ進んで行くのも、それができれば、一番いいことだが、同じレベルのことを、いくつかの面から見て行く、というのも有効な方法である。岡本好次、城戸崎益敏、小坂狷二、こういった人たちの本を、古本屋で見て、買ったり、立ち読みですませたりした。

 入門書ではなかったが、川崎直一氏の『愛あるところ神なり』という本も、河原町の古本屋で見つけた。これは、トルストイの同名の作品をエスペラント訳したものが本文で、これに詳細な訳注をつけ、さらにはエスペラント研究書などの書籍解題を加えた、おどろくべき本であった。本文は二十ページ足らずなのに、全体では三百ページぐらい(いま、手元にないので、確認できないが……)もあるという、大変な本であったが、たしか十月ごろで、この詳しさにもついて行けるほどのちからは、すでについていた。この本のおかげで、語学面でも勉強になったし、エスペラントの本についても、多くのことを教えてもらうことができた。

 さて、多少の不安はあったものの、独習によって発音もわかり、読解の基本もおぼえ、川崎氏の本で初級から中級あたりまでの知識の一端にもふれ、という風に学習の実もあがっていたころ、もう一冊、手に入れた本がある。岡本好次編『新撰エス和辞典』で、これは寺町通りの古本屋にあった。五十円という値がついていたが、交渉の結果、五円まけてもらった。

 独習書と辞書が、これでそろったわけで、ほかに『愛ある…』もあり、独習者としては、最低限必要な基本図書がそろったことになる。エスペラントだけで書かれた読み物の本は、このあたりで持っていたかどうかとなると、はっきりしない。ともかく、あるあけの本は、くりかえして読み、紙にも書き、音読も欠かさず、というのが、独習のやり方であった。

⑪規則と単語

 文法は、考えようによっては、いくらでもむずかしくなるもののようである。「文法こそがエスペラント」だとは、すでに本稿の②で書いたとおりである。エスペラントには『十六カ条の文法』といわれるものがあることも、そのとき書いておいたが、これについてまた考えてみたい。じつは、この「十六」という数はひとつの目安としてはいいが、数えようによっては、正確ではない。

 第一、エスペラントの全文法[・・・]は、本にして三ページ足らずで、A、B、C、の三部に分けてあるのだが、Aは字母(アルファベート)の二十八文字を示してあるにもかかわらず、十六の数には入っていない。BとCが八条ずつあるが、各条の長さは長短いろいろある。一行ずつですんでいるのが四カ条あるが、長短はともかく、いずれも規則[・・]を示したものである。何の解説もなく、ただ単に規則を読んだだけで、ただちに、それらの規則が意味している文法的事実が理解できる人にとっては、十六が十七や、あるいは倍の三十二に増えたところで、とくに問題にはならないであろう。ちなみに、何行あるかと思って、いま数えてみると、約七十行あった。その程度の分量[・・]の規則だと思っていただきたい。

 規則の示す内容となると、個人の能力や、エスペラントを勉強する以前に得ていた国語や外国語の知識によって、分かり方が一様ではなくなる。文法の規則についての解説は、相手によって変えなくてはなるまい。たとえば、冠詞のない日本語しか知らないものにとっては、第一条に「不定冠詞はない。あるのは、あらゆる性、格、数によって変化しない定冠詞(LA)のみ」とあっても、何のことか、よくわからないと思う。そこで、それぞれの必要に応じた「文法書」あるいは入門書の中の解説の出番となる。城戸崎益敏著『エスペラント第一歩』には、「論理的・組織的・且簡明なエスペラント文法」対「煩雑な外国語文法」が一ページの表にして出してあった。

 ここにいう「外国語」とは、ドイツ語やフランス語のことだが、たとえば、これらの言葉では、冠詞は、名詞の性・格・数によって変化するが、エスペラントでは、しない。これも、そういう知識がなければ、くらべようがないし、具体例で教えてもらわないと、わかりにくいことである。

 そこで、いわゆる『十六カ条の文法』というのは、憲法のようなものであるから、簡単明瞭でなければならないが、条文がそうであるからといって、だれにでも同じように理解できるとは限らない、という問題が生まれる。冠詞とはなんぞやということから説明がいる場合もあり、それでも、なかなか分からない、ということもある。それは、各国語の文法とも関連することだから、それぞれの事情に応じて、いろんな文法書があって当然だといえよう。

 ところで、日本の場合は、どうなっているか。独習者向けの入門書には、文法の規則についての説明と例文もあり、一応、入門から初級、あるいは中級の入口あたりまでは、なんとか行ける。ところが、この「中級」というのは、日本人の九割だかが「中流」と思っているらしいことにも似て、幅がひろい。なのに、中級クラスの学習者にとって必要な文法書といえるものが、見あたらないのだ。上級というか、エスペラントで書かれた、「エスペラント広文典」というようなものはあるのだが、そこへ行くまでの段階のものが、なかったし、それは、いまでも、三十年まえと同じといってよい。

 前回、独習書を三、四冊読んだことを書いたが、それはそれで勉強にはなったけれど、その次の段階では、もうひとつ伸び悩んでいたことも事実であった。そこで、というか、文法書に頼るのではなく、急がば回れ、ということで、読み物をたくさん読むことにした。たくさん[・・・・]、と言うのは、もうすこし後のことで、独習を始めて一年後あたりでは、せいぜい五、六冊よんだぐらいではなかったか。

 エスペラントの特長は、文法の規則が具体的な単語によって示される、というところにある。①で見てきたように、パンはPAN、太陽はSUN、下駄はGETAと書く部分が語根で、意味上は、それで十分のはずである。そのあとにOがつくと、語根プラス語尾でPANO等となり、ふつうはこの形で使われる。これは「名詞(単数)」という文法規則がOという一字に含まれているからで、複数を示すのには、さらにJという語尾が付けられる。リンゴはPOM[ポム]、POMO[ポーモ]、POMOJ[ポーモィ]となる。

 形容詞はAで終わるから、POMA[ポーマ]、POMAJ[ポーマィ]となる。これは、格と数は名詞と同じ、という規則による。このようなOとかAというカタチをおぼえるのは簡単であるが、それらが文章の中でどのような働き方をするかは、使用例に多く触れて実地におぼえるほかはない。文法書には、文法用語が出てくるが、そのまえに文法的事実を知っていないと、それらの用語が何を意味しているかがピンと来ないものである。基本的な規則を心得たあたりで実際の文章に接するのが一番いいのではないか。

 文法規則でさえも、すべて具体的な単語によって示される、ということであれば、要するに単語に始まって単語に終わるといってもいいぐらい、単語の勉強が重要となる。単語は文字と音声というカタチをしている。まずはここから入る。しかし、単語を組み合わせた文や文章によって「文意を伝える」のが言葉の役目であるから、単語さえ知っていればいいというわけではない。言葉は総合的に働いて意味を伝えるものであるから、単語という部品が分かっただけでは全体は理解できない。

 単語に規則が示されているとはいえ、全体を知るためには、やはり実際の文章をなるべく多く読むに限る。

⑫有限と無限

 エスペラントの語彙[ごい]は、大きく二つに分けるとすれば、有限語と無限語に分けられる。有限の語イとは、たとえば接辞とか助辞の類で、接頭辞が約十個、接尾辞が約三十個ある、というように数えられるものを意味している。ほかに、前置詞三十三個、接続詞九個、副詞的助辞三十三、相関詞四十五……と、およその数でいっても以上で百六十個。さらに、冠詞、人称代名詞、数詞、間投詞、あるいは名詞その他の品詞語尾にいたるまで、全部合計しても、せいぜい二百数十語であろうか。
 これらは、特定の語尾を持たず、いわば裸の姿、あるいは辞書に出てくるままのカタチで使われるものと、他の語根の前(接頭)や後(接尾)に付けて使われるものに分類できるが、いずれも有限語ということでは同じだと見ていい。

 それに対して、無限語とは、名詞、形容詞、副詞、動詞などの、規則を示す語尾を付けて使われる語根を意味する。もっとも「無限」というと言いすぎかもしれない。かりに、有限語を三百とした場合、十倍で三千だが、語根で三千もあれば、常用語はほとんどカバーしてしまうし、百倍の三万語根ともなると、いまのエスペラント辞書には載ってないほどの数になってしまう。千倍の三十万語根ともなれば、ほとんど「無限」と変わらないほどである。

 これほどの数になると、その大部分は名詞的語根、とくにモノの名前になってしまう。「名詞語尾」のOが付くまでもないようなものである。ここまできてしまうと、発音のしやすさは別として、他の外国語と大して変わらないかもしれない。しかし、そういう、ゴマンとあるモノの名というのは、あらかじめ全部おぼえておく必要はない。実用的には、一生のうち一度も使わないコトバが大部分であろうから、である。

 それより、まずは有限語の三百足らずと、その五倍ないし十倍、合わせて千五百から三千語根もおぼえておけば、間に合うと見ていいであろう。「語根」というのは、それ以下には縮められない最小の単位で、実際に使われるカタチでの単語とはちがう。語根に接頭辞や接尾辞、あるいは語尾が付いて「単語」となるとすると、有限語と無限語を組み合わせて行くことによって、多くの語イを作り出して使うことができる。その組み合わせ方さえ分かっていれば、個々の単語としておぼえておかなくても、使えるし、分かる、ということになっているのである。

 しかし、規則上そうなっているからといっても、やはり、「慣れ」がないと、自由に使いこなすわけには行かぬ。有限語プラス無限語のうちの重要語根、合わせて基本語千五百ないし三千語ぐらいは早い時期におぼえたほうがいいと思う。そういう常用語イの使い方に習熟することが当面の目標ということになる。そのためには、本を読むのが一番だと思う。

 ただし、急速に語イを増やしたいときは、本を読んで、知らない単語を辞書で引いておぼえる、という方式では間に合わない。直接、辞書を読んで、いわば倉庫から直接仕入れるようにしないと増えない。これだと、若いうちならとくに、相当量の単語をおぼえることができるけれども、これには害もある。文脈と無関係に、ともかく単なる「語」としておぼえ込んでしまうのだから、いざ、自分で使おうかというときには、文の中で正確に使うことができない、ということになりがちなのである。まったく知らなければ、迷わなくてすむことまで、「あ、それは、たしかナントカのことで……」というように、あやふやなことを言って迷うこともでてくる始末である。

 わたしも、ひところは、いつも『新撰エス和』を持ち歩いて、不必要な単語までおぼえてしまったが、めったに使うこともないコトバは、さびついたり、思い出せないことが多くなってきた。無駄と言えばムダな努力をしたものだが、その時は好きこのんでやっていたことなので、それなりに楽しかった。

 本を読んでいるかぎり、それほど正確に語意をつかんでいなくても、全体の文意は理解できるが、自分で書くときは、それでは頼りない。日本語でも、書いてあるのは読めても、書くときは辞書を見て漢字を確かめることが多いと思う。エスペラントでも、書く段になると、とくにエス=エス辞典が欠かせない。エス=和の訳語を逆にしたような「エス語」では、誤用しやすいから、エス=エスの定義や用例を見る必要がある。

 ところで、生まれた時から、いわゆる自然に[・・・]おぼえた言語は別として、おとなになってから意識して勉強する言葉、たとえばエスペラントなどは、どうしても立場が弱い。あるいは、おぼえている語イなども、どこか、片寄りがちである。生活の中で、多くの人の中で、多様な使われ方の中で、時間をかけておぼえてしまった「国語」のようには行かない。言葉が社会的な生き物である以上、そういう社会生活の中で使いなれた言葉と、そうでないものとは同じようには行かないのである。

 これは、そういう「自然語」に対してエスペラントが「人工語」だから、というのが原因ではない。いわゆる海外帰国子女たちは、日本人の両親と生活していながら、海外における生活地の社会用語であるたとえば英語のほうができて、国語であるはずの日本語ができないことが珍しくない。これは、自然[・・]というのがいかに社会生活に頼っているかを示している例である。日本人が日本語を習得するのは、日本語を話す家庭で生活しているから、というより、まわりの社会、遊び友だちや学校社会の中で、実際に使うことによって、そうなるのだと考えたほうが事実に合っている。日本では、家庭でも社会でも全面的に日本語が使われているから分からないが、家庭だけで国語を伝えて行くのには大変な努力がいる。