ここでいう「言葉」とは、広い意味では日本語、中国語などと言うときの言葉のことで、いわゆる「言語」を意味している。せまい意味、あるいは具体的にはコーヒーとかココア、手とか頭といった単語、「責任をとれ、責任を!」といったような文章を含む、言葉による個々の表現全体のことである。
責任とは、どういうことを意味しているかを理解していただくためには、そのまえに、いったい、言葉とは、どのようにして働いているのか、ということから考えておかなくてはならないと思う。平たく言えば、言葉の役割が分かっていないと、責任のとりようもないからだ。
「これはコーヒーです」という文と、「これはココアです」という文では、それぞれ前後の表現は同じである。コーヒーとココア、この二つの単語がちがっているだけだ。「…ではありません」とは言っていない。両方とも、「…です」と言っている。いわゆる肯定文である。
では、「これ」なるものが、「コーヒーである」というのは、どういうことなのか。世の中に、コーヒー以外に、少なくとも「ココア」なるモノがあるからには、この両者は区別できなくてはなるまい。「これはコーヒーです」という文は、いちいち言わないけれども、同時に「これは(すくなくとも)ココアではありません」という意味を含んでいる。
ここには、二つしか出てきていないけれども、世の中には、モノはゴマンとあって、じつは、とても言い切れないほどなのである。だから「すくなくとも」なのであって、それを言わなければ、たとえば、こう言うことになってしまう。
「これは(ココア、紅茶、ミルク、コーラ、ジュース、その他もろもろのモノ、ではないところの)コーヒーです」
つまり、「…です」という肯定文は、「――ではないところの…です」といういわば「否定文の帰結としての肯定」だということである。もうすこし簡単に言い直すと、こういうことになる。
「これは、(コーヒー以外の、あらゆるモノではない)コーヒーです」
ところで、言葉の役割というのは、
「コーヒー、ください」
と、たとえば喫茶店で注文した場合、ココアやコーラでないコーヒーが出てくるところまでだ。それが、どういう味のコーヒーかは、言葉の知ったことではない。店によっては、ただの「コーヒー」というのはなくて、たいていは「ブレンド」と呼ばれるものが、まずトップにある。あとは固有名詞になって、モカ、コロンビア、キリマンジャロ、ブルーマウンテン、プラジル等々。コーヒー一杯飲むのにも、それなりのガクが要るほどに世の中は進んできているのである。
さて、右に述べてきたような、コーヒーに関わるモノゴトのすべてを「コーヒー文化」と呼ぶことにする。一方に、事実としての「文化」があり、それに対応する表現のシステムとしての「言葉」があって、コーヒー文化という体系は世の中に行なわれてれいるといえよう。
広くは世界全体の中で、もうすこし身近なところでは日本の、それぞれの都市や家庭の中で、文化としてのコーヒーは存在している。日本の場合は、日本語でそれは表現されているから、モノゴトとコトバ両方が、分かちがたく結びついた全体として「コーヒー」は日本の生活文化の中にある。とはいえ、言葉としてのコーヒーは、ココアその他のものでない「コーヒー」を意味しているだけだ。
さて、右に、くどくどと書いてきたのは言う必要もないほど「あたりまえ」のことである。ところが、世の中には、エスペラントのことを聞くと、
「エスペラント? あれは、背景に文化がないので、ダメです」
と、それでもう、エスペラントのダメであることが証明されたかのように、いともあっさりと片づけてしまう人たちが多いのである。日本語でコーヒーと言おうと、エスペラントでKAFO[カーフォ]と言おうと、モノとしてのコーヒーの味が変わるわけではない。それは、日本語の中だけで見ても、別に「珈琲」という言い方があるけれど、これで味が変わったりしないのと同じである。
いや、そうではない。たしかに、ただのコーヒーより珈琲のほうがおいしいと言いたい人もいるだろう。それを言えばコーヒーより「コーヒ」のほうが、もっとまずい、とも言えるわけで、こうなると、モノの味というよりはコトバの問題である。同じ日本語の内部のことは、その中で責任をとってもらえばいい。モノ自体としてのコーヒーの知ったことではない。また逆に、コーヒーとかコーヒとか珈琲とか、あるいはKAFOとか、どういうコトバで呼ぼうとも、それはコトバの勝手で、モノの味については、どのコトバも責任はとれない。言葉として責任がとれることは、コーヒーといえばココアやコーラでないコーヒーが出てくるところまでなのである。
さて、背景にない、と俗に言われるところの「文化」とは、右に見てきたように、言葉としてのエスペラントの責任外のことであることが多い。言葉としてのエスペラントが表現すべき文化ということなら、エスペラントの背景は世界の文化、とくにヨーロッパ文化に満ちているというのが事実で、もし「ない」というのなら、文化と呼べるものがヨーロッパには、なかった、ということになる。
いや、文化はある、しかしエスペラントにはない、という人がいれば、その人は文化とか言語ということが理解できていない、というだけのことで論外である。
わたしなどは、もしもかりに、「文化なき言語」として、エスペラントが存在し得てきたのなら、どれだけ助かったか知れない、と思っている。まったく、「ないはずの文化」のおかげで、エスペラントは、そう言われるほどやさしくはないのだから。
NHK教育テレビが一月七日夜八時から放送した『人間は何を食べてきたか』シリーズの第一回、「一滴の血も生かす・肉』を見た。西ドイツ、フランスに取材したもので、見ごたえのある番組であった。なかに、担当ディレクターの高木由美子さんが語る部分もあり、そこでこういうことを言っていた。西ドイツの農家の庭で、ブタを一頭解体し、つぎつぎにソーセージやその他、いろんな食品を作っていく場面でのことである。
「ここの肉は、日本の魚と非常によく似ていると思いました」
つまり、文化としての「肉」は、日本の場合の「魚」として見ると、よく分かる、ということである。わたしは、やっぱり、と思って、うれしかった。わたしも、昔、そう思ったことがあったからである。
初めてヨーロッパへ行った一九六八年の十二月、東ヨーロッパのルーマニアでクリスマスを迎えたときだった。首都のブカレストでは、あるエスペランチストの買い物について歩いていて、大きな市場にも入ってみた。日本の肉屋さんの店頭で、すきやき用の肉を買うのとはちがい、ここでは、ウシやブタの肉が大きな枝肉のまま、ぶらさがっていてショックを受けた。なかには、ヒツジの、皮だけとった、丸ごとの肉をかついで売り歩いている男も見かけた。
その晩、夕食をごちそうになったのだが、出てきた料理を見ると、なんと、ヒツジの頭が入っている。あまり肉好きでないわたしとしては、ギョッとした。そのとき、日本料理にも、魚の頭が出てくるのを思い出し、なるほど、ヨーロッパの肉というのは、日本の魚に置きかえてみればいいのだ、というふうに納得したのであった。しかし、それは文化的にそうだということで、具体的にヒツジの頭が目の前の皿に入っているというのは、なかなかのものだ。がんばって食べたはずだけれども、味はよくおぼえていない。
魚に慣れていない民族の人が、「活作[いきづく]り」を出されたら、やはりビックリするにちがいない。これは、日本人でも、「あれはイヤ」という人もいるから、必ずしも民族だけでは割り切れない食文化ということになろうか。
このように、同じ肉と魚という言葉で表現されることでも、その文化的内容には、国や民族、あるいは時代や個人によってちがいがある。「肉を食べる」「魚を食べる」というのは、日本語でもエスペラントでも言えるけれども、その意味していることの異同は、まず、使う言葉ではなく、その土地の文化によって決まることである。さらに言えば、文化というものは、特定の個人まで、行きつく性質をもっている。
前回は、「言葉の責任」という題で、言葉は、文化については責任がとれない、ということを書いた。しかし、それは言語の「背景にある」とされる文化、という意味である。言語自体の中での責任ということになると、別に考えなければならない。「肉」と言っても、西ドイツとフランスでは、文化的にいうと、ゲンミツには同じではないかもしれないが、日本の「肉」とくらべると、まあ同じ文化に属していると見ていいであろう。それなのに、肉を意味するドイツ語とフランス語は同じではない。大ざっぱに言えば、両国では「同じ肉文化を別の言葉で表現している」わけである。ただし、これはたとえば日本の肉とくらべるからで、両国同士で見ると、やはり同じではないかもしれない。
さきに、文化には個人まで行きつく性質がある、言いったが、「文化とは固有名詞のことである」という定義が、いちばん文化の文化らしい特徴を示していると考えられる。じつは、この「固有名詞こそが文化」である、と言うところに、エスペラントの最大の弱点があるのだ。すくなくとも、現時点では、もっとも弱いところ、だと言っていいだろう。固有名詞は、その属する言語に支配される。したがって、それぞれの言葉の中では、なんでもなく言える固有名詞でも、別の体系の言葉であるエスペラントの中で発音しようとすると、原語音とは同じようにはいかない、ということがある。ところで、世の中にはエスペラントしか分からないという人はいなくて、何かの民族語を母語としているから、固有名詞については、こちらのほうが優先する。で、エスペラントの文章や談話の中に、平気で原音のままの固有名詞が入ってくることになる。当人は、その原語での固有名詞が頭にあるから、それで不都合は感じないとしても、それを聞いたり読んだりする「異語人」には、つまずきの石となってしまう。もっとも、地名とか人名のなかで、目ぼしいものは、エスペラント化されているから、固有名詞は、すべて原語のまま、というわけではない。それにしても、世界中には数えきれないほどの固有名詞があるから、問題はなくならない。
いまのは、コトバとしてみた固有名だが、文化面から考えると、さらにむずかしい。世界中に存在する固有名の文化的内容がむずかしいのは、しかし、エスペラント特有のことではないから、それはいいとしても、問題は、普通の単語にある。まえに「文法の力」で書いたように言葉の働きを百とした場合、文法と語イの割合を一対九十九としてみたときの、後者にあたる。たしかに、この「一分」の文法の力は偉大なものではあるが、量的にみただけでも、九十九の部分は無視できない。
今回出てきたので言えば、日本語で肉とか魚、あるいは皮は、エスペラントではなんというのかと調べてみると、それぞれ一語ずつ、一対一で対応する単語が見つかるとは限らない。「かわ」は植物でも動物でもいいが、エスペラントの場合「SEL[シェル]」は動物の皮を意味しない、といったズレがあり、これがむずかしい。
中国では、エスペラントのことを世界語と呼んでいる。カタカナがないので、音を写すより、意をくんで世界語というのであろうか。ここでも、それを借用して使うことにする。
中国というのは、多民族国家であり、漢民族のほかにも五十以上の少数民族が住んでいる国である。そういう巨大な国のことだから、「国際語」とか「民際語」などというより、世界語といったほうがふさわしいような気もする。
中国ほどではないにせよ、ソ連にも、その他の国にも、いわゆる少数民族が住んでいる。日本は俗に「単一民族国家」と言われているが、すべての「国民」が 同じ民族の人間かというと、そうではない。つまり、日本でさえも、民族と国民は同一視できないのである。世界的に見れば、仮にも単一民族国家などと言える国は、ほとんどないと考えたほうがいいのではないかと思う。
現代は、国家中心の時代であるから、それぞれの国内で、民族問題は自分流に処理して行くよりほかはないが、これは簡単に「解決」できるような問題ではないだろう。そこで、ときどき、民族問題から流血さわぎが発生したりする。
民族には言葉がつきものである。そこでまた「言語戦争」と呼ばれるようなことが、同じ国の内部で起きたりもする。
ある国の「国語」というのは、そういう次第で、複数の民族で成り立っている国民の場合、いわば国内民族際共通語、とも言うべきものとなっている。少数派が多数派に何歩もゆずって、そうせざるを得ないからである。それと似たようなわけで、国家間においても、大国の「国語」が「国家間の国際語」としても使われている。「英語は国際語」などといわれる場合がそれである。
しかしながら、国連でも、英語一つだけを代表国際語とするわけにもいかず、つねに複数の公用語が認められている。国内で複数の公用語が使われている国があるようなものである。一国の内部においてさえも、複数民族から成る国民をかかえている場合には、唯一の「国語」で押し切れないのだから、「世界」ともなると、それこそ無数の民族がいることではあり、唯一の「世界語」というわけにはいかないだろう。
もっとも、それは、もともとは、どの民族かの民族語を「世界語」にしようとするから、他の民族から「そうはさせないぞ」という声がかかるのである。英語なら英語という民族語についても、「いまや英語国民だけのものではない。英語は国際語である」と言ってみても、英語が、まずは複数の国の国語であることはどうしようもない。
国内の共通語としてにせよ、一民族だけの民族語としてにせよ、日常生活に使われている民族語というのは、なんといっても強力なものである。多民族、それも、よその国の民族の人間が、外国語として習う場合の民族語と、その同じ民族語を毎日「国語」として使っている人の民族語では、大きな差があるのは、どうしようもない。一方は国語として使い、他方は国際語としてしか使わない、というのは大きな違いである。
しかしながら、いまのところ、他に手がないのだから、異民族同士の人間が交流する場合、どこかの民族語を借りて、とりあえずの「族際語」として使っているのである。それでは、どうしても不公平になる。これは、なんとかできないものだろうか。他に手がない、などと言わず、打つ手はないのか、ということから生まれてきたのが、民族語ではないところの言葉、はじめから民族間の公平をそこなわないような言葉、本来の民族際用語を目的とした世界語なのであった。
民族語として、まずは民族の用を足すためにあるどこかの民族語を、いわば必要悪として転用するのではなく、異民族間の使用を目ざして生まれたのが世界語であるから、エスペラントは、他の民族語とは、もともと立場がちがうのである。次元がちがうのだから、民族語と対立するものではない。
民族語には、各地方にある方言、あるいは地方共通語など、世界語以外の言葉を全部含めて考えると、世界には本来、民族語と世界語の二種類あればいい、ということになる。すくなくとも、理想としては、そういうことになる。ただ、現実には、世界語の力が弱いから、まだまだ世界中の人たちが、世界語の存在を認めるところまでは行っていない。
右に、二種類といったが、これとは別に各種の専門業界には専門語が使われているけれども、これらは、ある言語の中の用語であって、言語として考える必要はないであろう。
ところで、日本の国内でみても、いわゆる共通語としての国語が広まるにつれて、各地の方言の力が弱まり、だんだん消えていくのではないか、という心配があるようだ。方言は、主として話し言葉であるから、そう簡単には、なくならないのではないか。新聞や雑誌に書いてある日本語と、日常、みんなが話している日本語には、かなりの違いがある。もしも、みんなが「書いてあるとおりに話すように」なってしまえば、あるいは方言は消えることになるかもしれないが、まあ、当分、そのようなことにはならないと思う。
また、世界各国で国語として使われている多くの民族語も、たとえば、世界語が広まった結果として[・・・・・・・・・・・・・]、消えていくようなことには、なるまいと思う。もし、消えるようなことがあるとすれば、何か別の理由からであろう。なにしろ、民族語の力たるや、まことに強大であるから、いまから消えるかもしれない時の心配までする必要はあるまい。それより消えるかもしれないのは世界語のほうである。民族中心、国家中心に動いている世界そのものが消えてしまうことにでもなれば世界語もいらないからだ。
四月は新学年の月で、小学校の一年生には国語、中学一年生には外国語(ほとんどの場合、英語)の授業が始まる。
小学生は、学校で国語の読み書きを習うまえに、すでに日本語が話せるし、聞いて分かるようになっている。その上国語以外の授業もすべて日本語で行なわれる。
中学生と英語の関係は、そういうようにはなっていない。国語と外国語の、この違いは、決定的に大きい。入学以前、また以後の、言葉と接する時間が、どうしようもなく、ちがうのである。英語の授業が、週に[・・]三時間では少なすぎる、というのは当然すぎる話で、本当は、日に[・・]三時間でも、まだ足りないと考えるべきであろう。もっとも、これは、英語を勉強する目的がハッキリしている時の話である。何のために、また、どの程度に、という目的次第では、週に三時間でも、多すぎる、あるいはムダだともいえる。
自分の健康のため、楽しみのために走るのと、オリンピックの選手にでもなろうかというのでは、練習の時間も方法もちがってくるはずである。それにしても言葉というのは、何語でも、やはりそれなりに時間をかけなければ、使えるようにはならない。勉強の仕方にもよるが、基本的には、しかるべき時間がかかる。それなくしてできる[・・・]ほど、言葉というものは甘くないのである。
エスペラントは、昔から、「やさしい言葉」だと言われてきたが、それは、どういうことか。また、そのエスペラントでさえ、甘くはないとすれば、どういうところが、そうなのか。
言葉には、大きく分けて、二つの面がある。文字と音声である。学校で英語を学ぶにせよ、どこかでエスペラントを学ぶにせよ、まずは文字から、それぞれの言葉に接することが多いと思う。ところが、文字を見て、それを音声にして出すという、目から口へ……という順序は、かなりむずかしいことらしいのである。
それより、耳から口へ、つまり、音声を耳で聞いて、それを口で発音するほうが、うんとやさしいように思う。思う、というより、長年、見てきた経験から、そうである、と断言してもいい。
これは、赤ん坊が、自然に[・・・]言葉をおぼえていく順序とも合っている。そこで、まずは大量に、耳からきき、それを口でマネて、新しい言葉の音声に、なれるようにすることが第一歩となる。これは、しかし、外国語の場合は、日常、身のまわりで話されている国語のようには行かない。単に大人同士で話し合っているばかりでなく、子どもにも話しかけて[・・・・・]くれる国語とは、そのことからして違う。英語は、まだ、テレビやラジオから聞こえてくることも多いが、エスペラントになると、自分から努力しないと、耳から入ってくることさえ、ほとんどない。
いまは、日本でも、毎日、北京放送のエスペラント番組が受信できるが、昔はそれもなかった。そのうちにテープが出てきたが、いまのカセットのように便利なものではなかった。ともかく、音声には恵まれていなかった。文字の面でも、活字印刷の本はあまりなく、ひところはタイプ・トーシャの本で読んでいた。
これは、終戦後十年ぐらいまでの事情で、だんだんマシになり、一九六〇年代には、高度成長のおこぼれに、エスペラント界もあずかり、文字と音声の両面で多少は恵まれるようになった。
わたしの場合は、独習書で発音の仕方をおぼえ、声に出してケイコをした。本の説明を読み、「こうもあろうか」と、自分で決めて、文字を音声化するのだから、果たして、それで正しいのかどうかそれも分からないのだった。心がけたことは、なるべく声に出して読む、ということ、つまり音読であった。ところで、横文字[・・・]と呼ばれるローマ字は、日本人にとって「やさしい字面」とは言えないのである。漢字かなまじり文、という日本語の字面からすると、やさしい[・・・・]どころか、何かといえば、なじみにくい[・・・・・・]字面、というところであろうか。言葉は日本語なのに、いわゆるローマ字書きの文章が、あまり人気がないことからも、そう言えるのではなかろうか。
だとすれば、われわれにとって、文字の面で、エスペラントは、まず、なじみにくい言葉だと言わざるを得ない。だからといって、エスペラントの文字をローマ字でなく、こういう漢字カナまじり[・・・・・・・]の文字にすれば、日本人がエスペラントにとびついてくるか、というと、それは何とも言えない。MONDOのかわりに、世界と書いて、これをモンドと発音するということであれば、もっと多くの人がエスペラントに目を向けるだろうか。
将来、そういう字面の、それこそ世界語[エスペラント]文を作成して、実験してみると面白いかもしれない。すくなくとも、極東の漢字文化圏に属する国での実験は可能であろう。
ただし、これは、あくまでも、字面のなじみにくさ、という面から考えてみたまでのことで、文字は、単に字面としてのみあるのではない。次に、これをどう読むか、という問題がある。英語は、読める[・・・](つまり読解できる)けれども、話せない[・・・]、という人が、日本には多いが、これは、どういうことか。ひとつは、英語らしい発音ができない[・・・・・・・]ということ、もうひとつは、発音の上手下手はともかく「会話」ができない、ということであろうか。
会話ができるかどうかは、次のこととして、まず、発音だけ[・・・・]ということなら、エスペラントは、すくなくとも英語などよりは、たしかに「やさしい言葉」といっても、ウソにはならないと思う。同じ日本人でも、個人によって上手下手はあるが、ともかく「通じる発音」ということなら、まずは大丈夫である。言葉の基本は音声にあるとすれば、これは何といっても心づよいことというべきであろう。ただし、それなりの時間をかけて、ケイコはしなければならない。