桃から生まれた桃太郎、という式に言えば、エスペラントは本から生まれた。もちろん、この本は、ザメンホフの著作物であり、ザメンホフが「国際語」の考えにたどりつくについては、当時の環境に負うところが多かった。ザメンホフ個人に即していえば、その人の心から生まれたものである。しかし、世間的には、小さな本の姿で世に出たのだった。
いま、世界大会を主催しているUEA[ウエア](世界エスペラント協会)本部事務所の一室は、図書室になっている。このほど大学の休み(半年間)を利用して、この図書室にボランティアとしてこもり、調査と整理にあたった人がいる。UEAの雑誌の六月号に興味深い報告が出ている。ちなみに、この「エスペラント」誌は、このたび創刊八十周年を迎えている。
この人はアメリカのオハイオ州にあるデニソン大学の、おそらくは図書館学にも詳しい人であるらしい。発音はブレインかブラインか分からないが、ともかく、ロッテルダムの本部へやってきたこの人は、図書室の現状を見ておどろく。UEAは、専門の司書を雇ったことはないから、本はとりあえず本棚につっ込んでいく、というのが精いっぱいのところである。その他、箱に入れたものや、何年か前に上の階のシャワー室から水がもれ、水害にあったものなど、見るに見かねるところもあったらしい。これじゃ、とても図書室なんてものではない、と言う。
ところが、司書的見地からはロクなものではない、というだけで、内容はなかなかのものなのである。一万二千九百四十九冊(そう、わたしは数えたのです、と、ロジェーロさんは書いている)の中には、貴重な文献も多い。しかも、図書館らしからぬところにふさわしく、ここの本は、すべて、本棚の左上方から刊行の年代順に並べてある。わたしも、実際に見たとき、「これは便利だ」と思ったことであるが、はからずも、このことが、面白い結果を生み出した。というと、大げさになるが、要するに、単純作業をして、年代順に年間何点の本が出たかを数え、棒グラフにしたものが出ているのである。もちろん、この図書室は、いままでエスペラントで、あるいはエスペラントについて書かれた本を全部集めているわけではないし、多少は他の国際語関係の本もまじっている。また、このグラフには雑誌のことは出ていない。エスペラントと雑誌は、切っても切れないし、これはこれで別の調査がいるが、いまは、小なりといえども「本」に限っての話である。このグラフは、見開き二ページにまたがっているが、左端が一八八七年で十四冊、あとは各年ごとに十二、二十、十一、七、三、四、三、四、九、五、十七、七、十二、十とつづき、これが一九〇一年。十九世紀の末ごろは、本の数も少ないことが分かる。次は二十三、四十六、七十三、、八十五、百四十七、二百四十二、と上昇し、一九〇八年には二百七十七点でピークに達している。
あとは、現在まで、凹凸がつづいているが、二個所だけ、数年ずつ、深い谷間のところがある。一九一七年と一九四二年を最低とする両世界大戦の時代であって、戦争の影響がここにも明白に示されている。それでも、前者で五十、後者で二十冊は出ているから、その程度には本が出ていたのである。
一九〇八年は、エスペラント発表後二十一年目の年で、いわば成人式後の実力を発揮したようなものであろうか。じつは、この年の二百七十七点を上まわる点数が出たのは、やっと一九八二年になってからで、三百四点が収められている。
刊行年の不明のものも多数あって、五月末現在、この図書室の蔵書数は一万三千余となっている。棚の長さでいうと八十七㍍分あり、平均の厚さは〇・六七㌢という。本らしい本もあるが、うすい小冊子も多いから、平均にすれば、かなり薄い本、ということになる。それでも百年間、毎年平均三十点ぐらいの本は出ている。
エスペラントは、その時代時代のリトマス試験紙のような役割を果たしてきたところがあるが、出版点数によっても、それは確認できる。なお、戦後は、四十年前の一九四七年に百三冊、その後は上昇と下降が交互に来るが、一九六三年からは、全体として山が高くなっている。
最近の十年間は、各年とも二百数十点ずつ出ている。これはやはり百周年に向けて、という意欲のせいであろう。
この号には、ラジオによるエスペラント放送についても報告があるが、こちらの線グラフで見ても、放送時間数は、年によって上下はあるものの、全体としては近年に至るほど上昇している。
本にもどると、百年前、一冊の本から生まれたエスペラントは、本や雑誌も生みつづけているが、ほかにも生みつづけてきたものがある。一言でいうと、それは人間関係である。世界大会をはじめ、何百という数の大中小の会合があり、個人的な出会いがある。そこでは、何らかの人間と人間の結びつきが生まれる。
文通をしている人たちも多い。戦後、日本から自由に海外へ行けなかった時代には、国際文通はもっと盛んであったが、もちろん、いまも行われている。
海外旅行をする人は、大体、保険をかけて行く。わたしは二ヵ月間有効の保険に入り、それが切れる当日、九月七日に無事帰国することができた。保険は万一にそなえてかけるのだが、わたしの場合は、もうひとつ、その期間内に帰ってくるためのタガにする意味もあった。
旅では旧知の人たちに加えて、新しい人たちにも出会う。そういう人たちを訪ねて行き出したら、日数が足りなくなる。今回は、そういう個人的な希望はなるべくおさえ、将来役に立ちそうな所を見て来ることにした。
役に立つ、とは、また団体でエスペラント語の海外研修に出かける際に、というほどの意味である。今回、初めて団体旅行を経験したが、修学旅行の先生がたとちがって、下見というものをせずに出かけた。しかも、一行の全員がいっしょに出発し、同時に帰ってくるというのが常識だとすれば、非常識というか、無茶な計画をたてたのであった。
まず、七月七日、神戸港から上海に向けて船出した時は十八人。このAルート組に七月十三日北京十人が大阪と東京から別の便で空路到着して合流。さらに一人は都合で十四日に北京入りした。そうして七月十五日早朝、北京駅を国際列車で出発した時は二十九人。モンゴルのウランバートルを通り、ソ連のイルクーツク経由、モスクワに着いた二十一日には、さらに三人が加わり、いよいよ二十四日早朝、目的地のワルシャワ中央駅に着いた時は総勢三十二人であった(出発直前、一人がやむを得ぬ事情でキャンセルされたため、㉟で紹介した時より一人少なくなっている)。
世界大会の閉会式当日、八月一日にワルシャワ発の便で帰国した人が三人、七日のウィーン発が十二人、十七日のチューリヒ発が七人(以上で二十二人)。残る十人のうち、ワルシャワ到着後解散し、自由行動をして各自それぞれの日程で帰国した人が五人、十七日まで行動を共にし、その後自由に動き出したのが五人という風であった。そのうち二人は、十月までヨーロッパに滞在中であるし、日程も短い人で十九日から二十一日、二十六日、長い人では五週間から六週間、団体行動をしたのであった。
団体といえば、新聞公告などで見ているかぎり、旅行社の主催するツアーで一ヵ月にわたるようなものはないと言っていい。それなのに、わたしたちは、初めての団体旅行だというのに、長い人では五週から六週間にもなるツアーを組んでしまった。
出発前、経験者から、「とにかく、団体というのは、いろんなことがあって、たいへんですよ」と、何度も聞かされていた。わたしは、それはそうであろう、とは思ったけれど、別に心配はしていなかった。人間が何人か集まれば、何かがあるに決まっている。それでも船や列車は前へ進むのである。感情のもつれや、あるいは逆に、個人的な楽しみなど、人の気持ちは、いろいろあるにしても、交通機関というものは、別の論理で動いている。予定どおりに行けば、七月二十四日にはワルシャワに到着するはずだし、一日おくれたにしても、二十五日午後からの前夜祭に間に合うはずであった。
心配したのは、ともかく全員が、それぞれの便で合流点に無事到着してくれるかどうかだけであった。それと、もうひとつは体の健康であるが、これは心配のしがいがあった。何しろ、Aルートの人では、ワルシャワ到着まで十七日もかかるのである。だれかが風邪を引くとせまい車室にいるのだから、どうしても移りやすい。さいわい、団のなかにお医者さんがいて、何人かの人は診てもらっていた。その程度のことはあったものの、シベリア鉄道の車中で休養することができたからか、ワルシャワには全員、まずは元気になって到着することができた。
百周年記念の第七十二回世界エスペラント大会は、本紙九月号のルポにあったように、大筋としては、ほぼあのように行われた。あとは個人的に、自分はこのようなことを体験した、という点が、各自それぞれの立場でちがうだけのことであろう。で、ここでは、大会が終わった後の話に移る。
今回のためには、旅行先の下見ができなかったから、次の機会のための下見をかねて、行ってみたい所がいくつかあった。そのひとつはスイスの地方都市、ショードフォン市にあるKCE(エスペラント文化センター)であり、もうひとつはフランスの田舎にあるシャトー・グレジョン(エスペラント会館)である。
先に書いた日程には入っていなかったが、八月三日、満員で汽車の切符が買えなかった大原喬さんとわたしは、空路ウィーンへ行き、そこから鉄道でユーゴのザグレブへ向かった。大原さんは予定どおり最終日の九日まで滞在されたが、わたしは三日間いて、六日の夜行列車でウィーンへ引き返した。ツアーの「本隊」二十一人のうち、七日ウィーン発で帰国する人たちを見送るためらう。残った九人にわたしが合流し、八日の朝、ウィーン西駅九時発の特急でスイスへ出発した。一日中、まったく見事な快晴で、一同は沿線の風景を大いに楽しんだ。
スイスにあるエスペラント文化センター(KCE)の研修に参加するために、わたしたちは八月八日の夜、ラ・ショードフォンの駅に着いた。知らせてあったので、所長のガコンさん、それにもうひとり若い人がホームに待っていた。駅前からバスで何分というほどもなく、すぐセンターに通じる停留所に着く。
この日着いた十人分の部屋割りは、二軒にふり分けて四人と六人ずつ、それぞれ二人一室となっていた。センターは現在、七棟の家屋を持ち、研修室や食堂、宿泊室等に使っている。このあたりはゆるやかな斜面になっていて、表玄関から見ると三階建て、裏は地階を含めて四階建て、という造りの家である。センターは、約十年ほど前から、同じ形式の古い市営住宅(一九二五年に建ったもの)を順次買いとり、改装してはエスペラント研修用に使っているが、いまでも、これまでどおり、住んでいる人たちがいる。
階段を上ると、右側はそういうアパート、左側のドアを入るとセンターの宿泊客用の部屋が三つ、それに共用のトイレ、洗面所とシャワー室(アパート時代の台所を改造したもの)があるというようになっている。すでに左右ともセンター用に使われている階もあり、その場合は五人家族用のアパート式のものもまじっているという風で、各棟の中身は、一様ではなかった。いずれにせよ、センター全体では、五〜六十人の収容力があり、この夏は常時ほぼ満員のようであった。
とくに家族用は台所もついており、長期滞在客に人気があるとかで、早く申し込まないと、なかなか利用できないほどである。もともとは、エスペラント研修用にある宿泊棟ではあるが、中には夏休みをゆっくりすごすために滞在している人たちもある。
センターは、まだ完成したわけではなく、常に工事中なのであり、そのためには費用もかさむ。年中開かれてはいるものの、やはりシーズンオフには空いていることが多い。夏は当然、かきいれ時である。ガコンさんは、自分でもシーツなどを洗濯したり、ベッドにシーツをとりつけたり、というようなことも含めて、あらゆる仕事をしている。
センターの仕事は、しかし、エスペランチストとしてのボランティア活動であり、本職は別にあって、週の半分は小学校の先生をしている。このときは夏休み中であったが、八月の終わりごろから新学年が始まった。もっとも、センターが一番忙しい時期はもう過ぎていた。わたしたちは、団体で来た人たちが十七日にチューリヒから帰国した後も残り、いったん他の国へ行ってから九月の初めにもう一度、ここへもどってきたりしたので、いろんなことがわかったのであった。
さて、研修であるが、エスペラント語の講座は初級と中級があり、上級にあたるのはセミナーという。着いた日、迎えに来ていた若い人というのは、ポーランドから招かれて滞在中のトマシュ青年で本職は小学校の先生。この人がガコンさんと交代で初級と中級を担当した。セミナーの担当はオランダから招かれたボルスボームさんで、本職は高等専門学校の先生。ヨーロッパの場合も、現役の人で長期の休みがとりやすいのは、やはり学校の先生ということなのであろうか。
人数は各クラスとも十人前後から十五人ぐらいまで。初級と中級では、エスペラントという言葉の勉強をするが、セミナーでは、一応、すでにできる人たちを対象にエスペラント語で本をいっしょに読んで議論したりする。研修期間は月曜の午後から金曜の夜までで、土曜の朝食後解散(または週末を過ごすために、あるいは次週もいる人は滞在延長)する。
勉強ばかりするのではなく、散歩、自由時間、あるいはピクニックなど、変化をつけてある。夜は、夕食後、講演の夕べ、というのがあったりする。日本風に言えば、国際的な「合宿」である。
センターは高台の住宅地区にあり、すぐ裏山といっていい近いところには牧場もあって、カウベルの音が風に乗って聞こえてきたりする。またショードフォンがある地方一帯も、きれいなところで、何度も汽車に乗って沿線の風景をながめたけれど、いつ見ても美しいところであった。
夏は、みんな「世界大会に参加する」と言って出かけて行くが、大会そのものは人数も多く、なかなか落ち着けない。大会には大会ならではのよさはあるが、なにかとあわただしく過ぎてしまう一週間なのである。
今回、わたしたちのグループは、ワルシャワの大会に出た後、十二人がスイスのセンターまで足をのばしたわけだけれど、何人もの人から、「ショードフォンに行ったのがよかった」という感想を聞いている。前の週の週末から全部で九泊し、その間、センターを足場にして日帰り旅行をしたり、一泊の旅をしてきたりした人たちもあった。
ガコンさんは、「日本から大勢の人たちに来てほしい」と言っていたが、わたしは言われるまでもなく、なるべくたくさん、日本からも研修に行く人がふえてほしいと願っている。ほかにも研修センターはあるが、それはまた次の回に。
いま思うと、惜しい気もするが、パリは乗りかえのため、駅から駅へ行くタクシーとバスの中から眺めただけだった。フランスでは、一九〇五年に第一回世界大会があったブーローニュへ行き、ザメンホフが開会式で演説した劇場を見たのがよかった。
次は、今回の目的のひとつであったグレジヨーンを訪ねたことだった。わたしがエスペラントを始めた一九五三年よりすこし前から、フランスのロワール地方に、エスペラントの家というか館というか、いわゆるシャトーがあって、その名をグレジヨーンという。ここでは、エスペラント語の講座が開かれ、いろいろな文化活動が行われているらしかった。ここから発行されている雑誌「文化手帖」を時どき読んでは、一度行ってみたいものだと思っていた。それから三十年ぐらいたってしまった。
グレジヨーンでは、六月中旬から八月いっぱいを中心に、毎年、いくつかの研修コースを開いている。わたしたちは、団体行動としてはスイスで研修にも参加したので、フランスまでは手が回らなかった。八月十七日に解散したあと個人的に旅をつづけ、そのグレジヨーンに行った。
パリから南西方向に鉄道で行くと、自動車レースで知られるルマンがある。駅のプラットホームの橋のところにバス停があって、それでボジョという町まで行く。途中、何度か鉄道の駅前に停車するのだが、これは鉄道が廃線になって走るようになったバス路線だからである。そういえば、昔読んだときには、鉄道で行けるような話だった。
グレジヨーンの人には、あらかじめ電話で連絡してあったので、ボジョの駅前に着くと、車が待っていた。ここから二キロほど田舎の方へ走り、右手にまがると、なんども写真で見たとおりのシャトーが見えてきた。
入り口を入ると、右手に集会室、図書室それに事務所があり、左手には二部屋つづきの食堂(と調理室)がある。前へ進むと階段で、二階と三階には大小の宿泊室があり、廊下のむこうにはトイレとシャワー室があった。
お昼の時間で、合図の鐘が鳴った。食堂には、およそ三十人ほどの人がいた。ちゃんとスープから始まり、デザートまである。スープは、おかわりもできた。これは、もう、八月の末で、あまり人が多くなかったせいかもしれない。ワインは、好みによって買って飲むことができる。この食事は、おいしかった。
食事中の雰囲気も、なんというか、家族的な感じで、ゆとりが感じられた。わたしたちは、一泊しただけだが、一週間から二週間ぐらい滞在している人たちがかもし出すなごやかさ、あたたかさであったように思う。調理室には中年の女の人がいて、給仕にはアルバイトの娘さんがあたっている。やはりセルフサービスより、行き届いているのである。
客はスェーデン、スペインなど、各国から来ていて、国際的な顔ぶれである。もちろん、地元フランスの人もいる。
もともと、グレジヨーンは、フランスのエスペランチストが、夏季学校を開いていたことから始まっている。戦前からあったらしいが、終戦後は復活した夏季学校の会場さがしに毎年苦労していたとき、「家を買えばいいのに」というひとが出てきた。当時、売りに出されていた館をいくつか見て歩いているうちに、このグレジヨーンに出あったという。とくにアンリ・ミカールさんという先生が熱心になり、エスペランチストに訴えて資金をかき集め、やっと買いとった。一九五二年の一月、エスペランチストがつくった協同組合の所有物になったとき、関係者の財布は空になっていた。
お金もなく、シャトーの中や外には家具も何もなかったため、みんなが労力奉仕をして、すこしずつ、充実させて行った。ともかく五十二年の夏には、開所式も行い、林間学校は新設のグレジヨーンで開かれたのであった。
いま、グレジヨーンには、本館のほか裏にはいくつかの教室があり、作業室もあるし、勉強のあいまに開かれる「売店兼喫茶店」もある、十七㌶の敷地(庭や森というか林になっている)もあり、ゆっくり散歩もできる。
わたしたちが行ったとき、なかに一人アメリカ人もいた。講師のひとりで、イリノイ大学の英語教育の専門家だった。このデニス・キーフさんは、数年前から、語学教育者の立場からエスペラント語に注目し出した。グレジヨーンは、まるで金の鉱脈を掘り当てたようなもので、ここにいてエスペラントを勉強している人たちを観察していると、得るところが多い、という、
去年の八月いっぱいまでスペインとかフランスにおいて英語を教えるが(仕事だから)、ほんとはエスペラントの効果的な享受法をあみ出したいのだそうだ。この夏は、ここで本になるぐらいの分量、エスペラントのテキストを書いたーー。
できれば来年、またグレジヨーンで会いたいですね、と言って別れてきた。
さて、アラカルトは今回で終わらせていただきます。三年あまりにわたってのご愛読どうもありがとうございました。
(「おほもと」昭和五十九年九月号〜六十二年十二月号)