初めてエスペラントの入門書を手にしてから三十年あまりになる。その当時からみると、日本の社会もずいぶん変化した。言葉は社会とともに変わって行くから、日本語も、ここ三十年の間にいろんな面で多様化した。
そのひとつは、カタカナ語が増大したことであろう。昔から外来語はカタカナで書いていたし、もちろん戦前からカタカナ語は、たくさんあった。しかしながら、それは戦後ほどではなかったのではなかろうか。
しかも、カタカナ語ばかりか、近年では、英字のままで使われる言葉も、すくなくない。とくに、略語は、LPとかSFとか、無数にあると言ってもいい。
このような現象を見て、なげかわしいと思うかどうかは、それこそ各自の自由にまかせられている。わたしとしては、昔、日本人が漢字をとりいれたときからの、これは宿命のようなものだと考えている。日本語のなかに漢語はあっていいけれども、カタカナ語はいけない、とは言いにくいからである。漢字もカタカナも、多くは古今東西の「外来語」を表記するのに使われているのだから、カタカナ語だけを差別し、排除するわけには行くまいと思う。
漢字、カタカナ、さらにローマ字のほかには、ひらがながある。これは、大和言葉の世界を表記する字であり、日本語の基本、あるいは中心に、なくてはならない字である。
もっとも、日本語全体のなかで、もともとからの「やまとことば」というのがどれぐらいあるのかは、わたしも、よく知らない。ただ、漢語よりは、やまとことば(と思われるもの)のほうが、自分としては、わかりやすいと思っているので、なるべくなら漢語は使わないようにしたい、というあたりのことは心がけている。
とはいえ、現に、「アラカルト」とか「現象」とかは、カナや漢字で書いている。このほうがひらがな[・・・・]にするより、すわりがよさそうだ。
ところで、エスペラントにも、日本語にならって言えば、「やまとことば」と「漢語」がある。おまけに「カタカナ語」も使われ始めている。右にあげたのは、いずれも「〜語」であって、「〜字」ではない。エスペラントは、字としては、すべてローマ字を使っている。同じローマ字を使いながら、よく見ると、言葉は漢語風あり、ひらがな語風あり、カタカナ語風あり、なのである。
まず、わかりやすい「カタカナ語」から。ここにいう、エスペラント版カタカナ語とは何かといえば、ゲタ、オビ、カケモノ、クロシオなど、日本語から入ったようなコトバのことなのである。
たとえば、日本人なら、オビは帯、クロシオは黒潮のように、まずは意味をもったコトバと結びつけて考えられるけれども、日本人でないエスペラント使用者にとっては、これらは、まず単なる音としてのオビであり、カケモノ、キモノなのだ。
たとえば「キモーノ」というコトバを聞いても、まさか「着る物」という意味は考えられず、ただの「キモーノ」にすぎない。そして、これは、そう呼ばれる「着物」のことであるとおぼえるほかはない。語源的には着る物から出たとはいえ、着物一般の意ではない。
さて、エスペラントでも、パンは「パン」という。ただし、PANと書く。しかも、ふつはPANでなく、PANOと書き、パーノと発音する。
また、「太陽」いわゆる「サン」は、SUNと書く。発音はサンでなく、スンであり、ふつうはSUNOと書き、パーノのときのように、スーノと発音している。
だが、なぜ、スンにオを足せば、「スンオ」でなく、スーノかと思われるかもしれない。これは、日本語の「ん」とエスペラントのN[ン]では、発音の仕方が多少ちがっているから、という理由による。Oの[オ]かわりにA[ア]とかE[エ]とかに変えると、SUNA(スーナ)、SUNE(スーネ)になるン、あるいは小さなヌ[・]、いわば、SUNOはスーヌオ、SUNAはスーヌア、SUNEはスーヌエであり、それを早く言うから、スーノ、スーナ、スーネと聞こえるのだと考えればいい。
さて、「太陽」を意味する語としてはSUN、つまりスーヌないしスヌだけでいいのだが、それにOだのAだのEだのが付け加えられるのは、もはや「文法」の世界に入っているからである。つまりSUNOとは、SUN+[プラス]Oであり、PANOとはPAN+Oなのである。この+[プラス]OのOは、『名詞の単数』という意味の、独立の単語であるが、文法用語としては『名詞語尾』のように言う。それに対してSUNとかPANとかは語根と呼んでいる。
日本語でならパンでいいものを、なんでまた、わざわざPANO[パーノ]などと言うのだろうと思われる向きには、すでにそれは文法の世界に入っているから、と申し上げるほかはない。
同様に、下駄のことを「ゲターオ」というのは、語根としてはGETAなのだが、PANOやSUNOと同じく「O」がついているからにすぎない。
日本語にもパンタロンというカタカナ語があるが、これはエスペラントではPANTALON(語根だけの場合)、ネグリジェはNEGLIG(注:この単語の2番目のGは字上符「^」付き)と書く。
三十年まえ、わたしが初めて買った辞書、『新撰エス和辞典』では、PANTALONOには、「ズボン」、NEGLIGO(注:この単語の2番目のGは字上符「^」付き)には、「便服、略服」という訳語が書いてあった。「ズボン」はともかく「便服、略服」というのは、一体、どういうものか、さっぱり見当がつかなかった。日本の店頭にも「ネグリジェ」が出まわるようになったのは、何年もたってからのことであった。
前回はエスペラントにも、カタカナ語に相当する単語があることを紹介した。それは、たとえば日本語から入ったようなコトバで、ゲタやオビのことである。エスペラントにすれば、これらは外来語であるから、カタカナ語と言っていいように思う。
今回は、まず「漢語」ともいうべきコトバとは、どういうものかを考えてみたい。日本語でも、ふつうにいうみみ[・・]、はな[・・]、のど[・・]のほかに、「耳鼻咽喉科」などのように漢語の表現がある。ときに、「みみはなのど科」などという看板がないこともないようだが、一般には耳鼻咽喉科と書き、ジビインコウカと発音している。
エスペラントでは、耳鼻咽喉科学のことをOTORINOLARINGOLOGIO[オトリノラリンゴロギーオ]という。十音節もあって、いかにも長ったらしい単語であるが、辞書にはこの長い一語のほかに、もともとはどういうコトバで成り立っているかがわかる次のような単語も出ている。OTO[オト]、ギリシャ語に由来する学術用語で<耳>のこと。これは、中耳炎のように「耳炎」というとき、<炎>を意味するITをつけてOTITO[オティート]というように使われる。RINO[リノ]は同じく<鼻>のこと。LARINGO[ラリンゴ]は咽頭のこと。〜OLOGI〜[オロギー]は<〜学>を示す。つまり、それぞれの単語を組み合わせてジビインコウガクというのと同じ方法によっているわけだ。
OTOやRINOというのもあるけれど、日常用語としては<みみ>はOREL/O[オレーロ](つまり語根のオレール(プラス)名詞語尾のオ)、<はな>はNAZ/O(同じく、ナズにオがついたナーゾ)というのが使われる。右の例でいうと、ORELとかNAZとかいうのが、いわば「ひらがな語」にあたると考えていいかと思う。<はな>というのは、いつも<O>をつけてNAZOとしておぼえていると、語根だけがNAZとして出てきたときに、とまどうことがある。だからこういうのは、NAZとOの二語でできている単語だという風に意識しておいたほうがよさそうである。NAZ[ナズ]/MUKO[ムーコ](鼻汁)、NAZ/RINGO[リンゴ](鼻輪)、NAZ/TRUO[トゥルーオ](鼻孔、はなの穴)のように、他の語とくっつくばあいは、<はな>は単にNAZ[ナズ]と書くからだ。
<目>は、ふつう語としてはOKUL[オクール]というが、<眼科学>はOFTALMOLOGIO[オフタルモロギーオ]、<眼炎>はOFTALMITO[MITOのみに:ミート]のように言う。ただし、こういう漢語式表現のほかにOKULをつかって、OKULISTO[オクリスト](眼医者)、OKULVITROJ[オクルヴィトゥロィ](めがね。VITRはガラス、Oは名詞、Jは複数の意)のような言葉も、よく使われる。
カタカナ語にせよ漢語にせよ、エスペラントの場合は、「そういう風な単語」ということで、あくまでも「字」としては一種、エスペラント式ローマ字なので組み合わせは自由にできる。
そうして、OKULをつかうかぎり、<球>の意のGLOB[グロブ]と合わせてOKULGLOBO(眼球)としても、オクルグローボと発音する。<メ>が<ガン>に変わるようなことはない。<メタマ>であって、メンタマとかメダマにはならない。このように、ひらがな語とか漢語を、ほどよくまぜあわせながら、ときにはカタカナ語もとり入れる、という風にエスペラント語はできているのである。
単語の総体、<語イ>というのは、したがって語源的には多くの言語に由来している。中心は、ギリシャ・ラテンという古典語から現代のロマンス系の諸語まで、いずれにせよ<ヨーロッパ語>である。そこで、エスペラントは一見して、ヨーロッパのゴタマゼ語、要するにヨーロッパ語にすぎない、と思われるような<見かけ>をしている。もちろん、外観は重要であるから、この<一見ヨーロッパ語そのもの>という点は無視できない要素である。アジア系諸語はどうしてくれる、アフリカはオセアニアは? と、世界中の各地の人たちが、エスペラントの語イについて、文句を言い出したら、エスペラントは成り立たない。これまでの人類史の成り行き上、いまのところ<そういう風になっている>ということを認めるほかはない。理論的には、世界共通語をめざす以上、エスペラントは、世界中に何千だかあるという言語から、平等に、すこしずつ単語を提供してもらい、全体として、いわば全世界ゴタマゼ語であるべきかもしれない。かりに、そういうことが可能としてみても、いますぐ実現する見込みはなさそうだ。
いずれにせよ、そういう語イの面ではエスペラントはこれからも大いに変化していくであろうが、それには時間がかかる。いまのところは、いまのエスペラントを見ていくほかはない。
それより、じつは、エスペラントがエスペラントたる本質は、文法にある。文法こそがエスペラントなのである。文法とは、言葉の運用法であるが、たとえばこういうことだ。
日本語で、ひところ<ナウい>とか、<ナウな>という表現が流行したことがある。いまでも使われているが、つぎには、<イマい>などというのまで出てきた。この<ナウ>というのは、カタカナ語であるが、それに、ひらがな語の<〜い> とか<〜な>がくっついている。これが<文法>である。<いま>は<今>で、別にカタカナ語ではないが、使い方が新しいところがミソであった。
さて、エスペラントの場合、日本語の<〜い>とか<〜な>にあたるコトバ、あるいは<テニヲハ>といわれるものなど、あれこれとりまえて、基本的な文法事項が決めてあって、これを『十六カ条の文法』と言う。
太陽のことをSUNOと言うのは、その文法で<名詞の語尾はOである>と決められているからだ。これに書いてあることが、エスペラントの大和言葉あるいは<ひらがな語>の中心になっている。
「エスペラントは、どういう言葉ですかと聞かれたら、どう言って説明すればいいでしょうか」
あるひとに、こういう質問をされた。じつは、このアラカルトは、毎回、手をかえ、品をかえ、そういう問いに答えようとして書いているのである。そのひとは、本誌の読者ではないので、
「それは、むずかしい問題ですね。しかし、簡単に言えば、いわゆる十六カ条の文法に書いてあるような言葉、ということしか言えないように思いますねえ」
と、前置きして、すこしばかり、口頭でお答えしておいた。ほかのひとなら、どういう説明をなさるのであろうか。
前回、すでに、「文法こそが、エスペラントなのである」と、書いたとおり、この言葉は、きわめて文法的な言語だとわたしは信じている。
エスペラントは、「一見、いかにもヨーロッパ語そのもの」という言葉ではあるが、じつは、必ずしもそうではない。というのは、『十六カ条の文法』があるからだ。パンのことをPAN、太陽をSUNと言うが、ここまでなら、たしかにヨーロッパ語そのままと言えるだろう。ところが、「名詞の語尾はO[オー]」という規則があるため、名詞(の単数)として使うときは、いちいちPANOとか、SUNOと言わねばならぬ。だから、SUNをサンと発音している英語国民といえども、SUNOはスーノと、一音節余分に発音せねばならない。いわば、一音節分めんどくさい思いをせねばならぬわけである。
それに、発音の規則としては、「単語はすべて書いてあるとおりに読む」とあって、書いてあることは、とばしたりしないで、ぜんぶ、バカ正直に読まねばならぬ、ということが加わる。書いてあるのに読まない、というサイレントとか、ここと思えばもうあちら……というようなリエゾンとか、要するに外国人泣かせのようなことがない。
いわゆる自然語というのは、子どものときからそれこそ自然におぼえ、身につけた者には、便利にできている。その分、外国人のように、あとから学習によって習得しようとする場合には、なかなか分かりにくいような点をかかえこんでいるのである。
何語であれ、日常語として、毎日、口にしている人たちにとっては何でもないような言葉でも、外国語として、たまに耳にする人には聞きとりにくい、ということがある。聞いて分からないコトバははやく聞こえるし、ますます理解しにくい、ということになる。そういうとき、一音節でも多いコトバだと、耳にしている時間が、それだけ長くなるから、すこしは聞きとりやすくなるはずである。
もし語根だけで「パンとリンゴ」つまり
PAN KAJ POM[パン カイ ポム]
と言えば、三音節(つまり、母音が三つ)ですんでしまう。それより、〜Oをつけて、
PANO KAJ POMO[パーノ カイ ポーモ]
とすれば、五音節になり、耳にしている時間が二音節分長くなる。これは、日常語として使われる機会が、まだまだ少ない国際語であるエスペラントの場合、有利な条件のように思う。
パンもリンゴも、名詞なので、意味の上から言えば、「パンとリンゴ」は「パン・カィ・ポム」だけあれば、それで足りる。わざわざ、名詞(の単数)という単語を語尾としてくっつけて「パーノ・カィ・ポーモ」というのは、いわばムダなことなのだ。で、日常会話とちがい、詩など、必要なときには、〜Oを省略して、それこそ「パン・カィ・ポム」としてもいいことになっている。これも第十六条に「名詞と冠詞の終わりの母音は省略して、省略符(アポストロフ)で代用してもよい」と書いてあるからだ。
ともかく、意味の点からだけ見ればムダのような面も含んでいる文法のおかげで、未知の言葉として学習に取り組む、非ヨーロッパ語系の人間にとっても、エスペラントは、それぞれの個人の能力と必要に応じて運用できるようにできているのである。十六カ条の文法という、いわば「共通の広場」があるために、通りや横丁に、多少のわかりにくさをかかえていても、エスペラントは全体としてはよく機能を果たしている、と言えるのではなかろうか。
日本人であるわたしにも、エスペラントなら、やればなんとかなるだろうと思えるのは、まったくの話、この「文法」があるからだ。ちょうど、このアラカルト欄をぜんぶ使えば一回で紹介できるほどの文法規則にすぎないけれども、その力は大変なものなのである。
たしかに、語イの面では、エスペラントは非ヨーロッパ語系の民族にとって負担が大きい言葉である。けれども、英語やフランス語が、それこそ、全面的にヨーロッパ語なのにくらべると、エスペラントは必ずしもそうでない点があることも事実である。言葉の働きを百とした場合、文法と語イの割合はどうなっているのかは知らないが、量的に見れば、一対九十九ぐらいかもしれない。つまり、エスペラントの場合、十六カ条の文法をマスターするのと、基本語イを習得するのに要する時間ならびに努力を計算してみたら、という話である。ヨーロッパ語を母語としないわたしにとっては、この「百分の一」が頼りになっている。この「一分」は、実際に言葉を使うときには、もう少し大きな力を出す。いわば「十分やって行ける」感じなのだ。
言葉には、単語をならべていけば、なんとか分かるという面があるし、その意味では、文法なんかどうでもいい、という説も成り立つであろう。しかし、それでは、「外国人の話す下手な日本語」のように、通じはしても、「日本語らしくない」ことになる。エスペラントは「外国語」ではないのだから、話す以上はエスペラントらしいほうがいい。
前回、「単語はすべて書いてあるとおりに読む」という、発音の規則を紹介したが、今回は、もうすこし詳しく、発音について考えてみたい。言葉は、読むだけでなく、話したほうが楽しい。そのためにも発音は大事だ。
もちろん、読むときも、文字は音声を表現しているのだから、発音と無関係ではない。音読か黙読かのちがいはあっても、音声が消えてしまうことはあるまい。
ところで、言葉は、音楽ではないから発音で問題となるのは、「単なる音」ではなくて、「意味のある音声」である。具体的にいうと、「意味上、区別する必要のある音声」のことである。エスペラントには、二十八の音と、それに対応する二十八の文字がある。
たとえば、日本語で、デンワ、デントウ、デンポウと発音するとき、「ン」の音は、同一には発音されていない。つまり、音としては「同じン」ではなく、それぞれ、ンの次の音、ワとかトとかポとかが、発音しやすいように発音された、別べつの「ン」である。しかし、日本語としては、要するに「電話」「電灯」「電報」の「電」という意味の音として聞きとれれば、それで用は足りているから、「ン」という、ひとつの文字で書く。
日本語ではアイウエオの五つ、エスペラントではAEIOU[アエイオウ](アルファベットで、出てくる順番が、こうなっている)の五つ、これが、それぞれの言葉における「母音」ということになっている。
エスペラントでは、Aは、アというときとアーというときがある。もっと正確にいうと「ふつうのア、強くて短いア、強くて(やや)長いアー」となる。しかし、これらは、いわゆるアクセントのせいで、それ自体では意味に関係のないことである。たとえば、
KAROTO[カロート](にんじん)のKAのとき、Aは「ふつうのA」として発音されるが、
KARTO[カルト](カード、など)のKARではAは「強くて短いア」、つまり、全体としてはカルトのようになる。さらにそれが、
KATO[カート](ねこ)のKAでは、「強くて長めのアー」つまり、音節としてはカーのようになる。
これは、「アクセント(力点)は、つねに最後から二番めの音節にある」という第十条の規則によっている。もし、前から数えたら一番め、二番め…と、単語ごとに音節の数に応じて変化するところだが、後から数えるから、つねに一定していて「規則」としては簡明になる。
さて、日本語の場合はどうであろう。コイとコーイ、ダンコとダンコー、オサカとオーサカ、など、長音になると、前者とは別の意味の言葉になる。もっとも書けばコイとコウイ等になるから別の母音とは考えなくてもいいのだろうが。
それはさておき、日本語のアイウエオとエスペラントのAIUEOは、同じように発音して、いいものかどうか、について。簡単にいえば「大体おなじ」ということになるが、日本語では「ヨコスカ」のスカは、SUKAというよりSKAに近く発音されているようだから、注意を要する。もしエスペラントでSUKAとあればウの音もハッキリ発音するし、SKAとあれば、ウの音は入らない。
AEIOU[アエイオウ]の五つの母音を引くと、残るのは二十三の子音である。これら、合わせて二十八の音が、エスペラントで意味上区別すべき音声で、ひとつひとつの音のことは音素と呼ばれる。単語は、これら二十八の音素の組み合わせで成り立っており、「すべて書いてあるとおりに読」まれるのである。この辺のことを俗に「一音一字、一字一音」と言っているのだが、同じひとつの音素でも、ある単語の、どの位置に出てくるかで、発音のしやすさ、しにくさは、ちがってくる。
たとえばRという音素が語頭にくるか語中か、語尾にくるかで、発音がしにくくなったりすることがある、ということである。KARTO[カルト]と言うときのR音とRATO[ラート](ねずみ)と言うときのR音では、ゲンミツには同じ音声ではないかもしれないが、他の音と区別してRの音だと聞きとれさえすれば、それでいい。
日本語のラ行音は、ラジオのラも、テレビのレも区別しないが、エスペラントでは、R音とL音、つまりRとLという別の音素になる。日本人は、実際には、ラ行音は、RでもLでもなく、それこそ日本語のラリルレロで発音している。だが、単なる「音声」としてみれば、LになったりRになったり、あるいは、LというよりはR、RというよりはLというように発音していることがある。だが、発音はたまたまできていても、意味上区別すべき音素として、意識していない。
そこに、日本人の学習者にとってLとRの区別がむずかしい原因のひとつがある。この他にも、BとVとか、区別すべき音素で、われわれにとって、やっかいな発音もあるけれども、単語は、それこそ「意味と結びついている」ので、単なる音声として区別するときよりは、まあなんとかなるものである。何回も何回も練習は必要だけれども……
わたしも、日本人のひとりとして、かなり練習をした結果、エスペラントの発音ができるようになった。発音ができるということは、話をする場合に、自信をもって話せる、ということにつながる。
発音といえば、おもしろい現象がある。ポーランド人が吹き込んだ会話のテープがあって、日本でも人気があるのだが、そのテープの話し方をマネしようとは、だれもしないことである。耳ならしに聞くけれど、それはそれ、これはこれ、という感じで、いざ、自分でもテキストを読むときは、各自が思い思いに発音し、それで平気な顔をしている。
この辺にも、エスペラントが「外国語ではない」という事情がうかがわれるようだ。外国語なら、もうすこしマネをするはずなのに……。