ウィリアム・オールドさんのこと

 

オールドさんは、イラチ(関西弁で「いらだちやすい人」)だった。自分で巻いて、しょっちゅうタバコをすう人だった。仕事は、バスの中でも、副校長をしていた学校(スコットランドの中等学校)でも、昼食後、少しでも時間があると、何か書いていた。あれだけ大量の仕事ができたのは、そういう生まれついての勤勉さがあったためであろうか。破顔一笑という感じで、よく笑う人でもあったが・・・。
ひとり残された未亡人はミータさんという。このひとが、詩人オールドの詩の女神(Muzo)だった。1975年夏、サンフランシスコ州立大学の夏季エスペラント・ワークショップには、70年の第1回以来、講師(=教授)をしてきたオールドさんと、初めてよばれた私は、そこで親しくなった。もっとも、初めてお目にかかったのは、73年の夏、亀岡での日本大会の時だから、すでに面識はあった。また、大会後、京都にも数日滞在されたが、北白川にあった旅館を私ども(藤本ますみと私)が紹介したのだった。この時は、ウィリアム・ハーモンさんの夫人、ルーシィさんも一緒で、夜、近くの児童公園を4人で散歩したことを覚えている。オールドさんは、「ユーゾラハレテ アキカゼフキー」と、日本語で歌ってみせた。
サンフランシスコには、オールドさんは、キルトをはいてやってきた。
「だあれも、見てくれなかった」と言う。
花森安治は、女の人がはく普通のスカートを着用したので、勇気が要ったであろうが、伝統衣装であるキルトでは、迫力がなかったものと見える。
「それにしても、手紙が来ないのは、どうしてか」と、大学の宿舎の受付で、よくそんなことを言っていた。ミータ夫人から来るはずの便りが、なかなか来ない、と言って待ちきれないでいたのである。私も、同じ思いだった。しばらくして分かったのは、名前がHuĝimotoないしHuzimotoとして手紙が来るのに、私はパスポート通りに、ここではFujimotoとして登録されていたからである。つまり、別のファイルに入っていた。
これもやがて解決し、私もオールドさんも、数日ごとに手紙を受け取るようになった。ふたりは、それぞれ、妻からの手紙を支えとして、4週間という長丁場を生き抜いた、という感が強い。オールドさんは初級と上級、私は中級と上級を担当した。週末(土と日)には授業がなく、学内食堂も開かれない。この時は、シュルツ夫妻が中心となってパーティーを開き、みんなをなぐさめてくださった。
その他の日は、夜の講座が終わると、キャンパスのわりに近くにあった、レッドチムニーという、バーというか、パブというのか、ともかく飲める店に行くことが多かった。ハーモンさんも時おりやってきた。この人は名前も同じウィリアムなので、おたがいVilĉjo(英語ならビルというのは、皆さんご存じのとおり)、短くしたいときはVilĉj'と呼び合っていた。手紙も、だいぶ書き合った仲らしい。
たしか、予定されていた講師のダンカン・チャーターズの都合がつかなくなり、やむを得ず(?)だれかアジアないし日本からという話になった時、小西岳さんと私が対象になったらしい。ハンブルグUK(1974年)のあと、10月の下旬に帰国した私が11月初旬にあった福岡での日本大会に出たところ。ほかの人たちがその話をしてくれた。私には、初めてきく話だった。小西岳さんは、諾否の手紙をなかなか出さなかったようで、結局、私に・・・となった時は、かなり遅かった。国際交流基金に申請して旅費の補助金をもらったのだが、すでに5月、一般の締め切りは過ぎていたように思う。基金の役員であった梅棹忠夫先生が直接書類を持参してくださり、かろうじて間に合った。
75年の夏、コペンハーゲンUKのあと、UEAの本部があるロッテルダムに行き、その夜、マルカリアン君枝さんが住むイギリス(ロンドンその他)を訪ねた私たちは、フライイング・スコッチマンという夜行急行でスコットランドに行った。オールドさんのお宅に着くと、そこにミータ夫人がいらしゃった。この時はまだ中年女性だったミータさんは、それとなく、はにかむようにしていらして、私はなんと優雅な女性だろうと思った。声もよく、話し方も落ち着いて、心地よく響いたのだった。2泊したように思うが、一緒に近所を散歩したり、街へ買い物に出かけたりした。Vilĉjoとは、パブにも行った。
後年、家内が、「我が輩は猫である」にも出てくる画家、アンドレア・デルサルトに関心があると言うと、全訳ではなかったが、この人に関する詩を訳しておくってくださった。
1996年のプラハUKの時、オールド、f-ino Barlaston、それに藤本両人でお茶を飲んだか、昼食を一緒に食べたことがあった。私が何か言うと、ふたりがおおいに笑うのだった。先に書いた(破顔一笑)というのには、そういう事実の裏づけがある。

インタヴューをして出来たオールドさんについての本の中で、わざわざ私の名を引き、amikoだと言ってくださった。Vilĉjoは、誠に人間らしい男で、おまけに偉大な詩人でもあった。

結語:ノーベル文学賞は、大江健三郎はともかく、William Auldには値しない、というのが私の説である。

 

(Resumo)

Tacuo Huĝimoto estis, laǔ propra diro de la poeto mem, amiko de W. Auld kaj mi kolege kunlaboris sanfranciske en 1975; tiun jaron somere la Huĝimotoj (Masumi kaj Tacuo) gastis hejme ĉe Auld kaj konatiĝis ankaǔ kun sinjorino Auld (Meta), kiun ili ambaǔ trovis ĉarme eleganta kun trankvila voĉo kaj bona intonacio. Konklude la aǔtoro asertis, ke la nobel-premio por literaturo ne indas je William Auld.
(La Revuo Orienta, 2002 februaro - n-ro 1029)