私が長い間、Plena Verkaro de L. L. Zamenhof刊行のために、伊東幹治というひとりの日本人に協力したのは、特に伊東さんのためを思ったからではない。それは、もっぱらザメンホフのためである。では、なぜザメンホフなのかと言えば、いまのところまだ、エスペラントは「ザメンホフ語」だと考えているからである。何かについて書く場合、他の人ではなく、ザメンホフから引用しておくほうが、無難だという事実がある。これは、何も、ザメンホフがエスペラント語の創始者だったからではない。それも事実であるが、それよりも、圧倒的な事実は、ザメンホフが大量の文章を書いたということである。原作と翻訳の散文(論文、文芸作品、手紙など)が、たくさんあり、演説もある。初級から中級にかけての学習者は、せめてこの演説集だけは音読すべきであろう。このparoladojは、ザメンホフが自分の声で、大会の参加者に語りかけたものである。第1回のUK(ブーローニュ大会)では、すでに、この演説が速記者によって記録されている。
ナントカ全集といえば、そのナントカ氏の書いた文、あるいは翻訳した文を集成したものである。ところが、本著作全集には、原作と翻訳は当然のこととして、さらに、ザメンホフが刊行した他の人たちの本まで入っているのである。これはおそらく、前代未聞、空前絶後のことではあるまいか。第1巻が1973年に出て、それから約25年の間に57巻が刊行された。結果として、それだけ多くの巻数になったのであって、スタートしたときは、全何巻になるかは見当もついていなかった。
それが可能になったのは、内外の実力者たちが、資料の提供や書評などで、協力を惜しまなかったからである。なお、いとうかんじさんの個人的な好みで、その執筆になる解説文は、全編小文字が使われている。このludovikitoの文章は、読む人によって面白いとも、無用の長物だとも思われよう。
個人で全巻買う、というのは無理であろうが、各地のエスペラント会が、共同購入するというのは、絶対に不可能なことではあるまい。個人としては、せめて1冊、お買い上げいただく、というわけにはいくまいか。
それは何も、在庫があり余っているから、という理由からではない。本年はザメンホフ生誕150周年である。この人に感謝するためには、本を買い、すこしでも読むことであろうと、私は考えている。
(Resumo)
Por danki Zamenhofon okaze de la 150a naskiĝjaro, ni aĉetu almenaŭ unu libron.
(La Revuo Orienta、2009年4月号)