梅棹忠夫論

(1)

梅棹忠夫は、不遇の人物である。これは、不幸な一人、ということではない。世間的に言えば、文化勲章受賞者であり、勲一等瑞宝章その他、いくつもの賞を受けている。それで、何が不遇なのか、と思うであろう。
さらに、梅棹忠夫著作集(全2巻刊、別巻1巻)も刊行ずみであり、万博(1970年、大阪千里丘陵)の後に出来た、国立民俗学博物館の初代館長でもあった。「文明の生態史観」は、すでにして現代の古典と評価されている。
「情報産業論」は、現代(20世紀末から21世紀の現在まで)の様相を見事に予見した論考であった。1959年には「無用論」を婦人公論誌に発表し、読者からの反論が寄せられると、「母という名の切り札」で応えた。
1969年に出た岩波新書「知的生産の技術」はベストセラーになり、ロングセラーとなって今日にいたっている。
いまは、これ以上は言わないことにする。梅棹忠夫とは、いったい、何者かと問われば、私は、文明史家だと答える。世に文化論をする人はゴマンといる。が、文明の何たるかが分かっている人は、皆無とは言わないが、ほとんどいない、と言ってもよいであろう。
先に「不遇」と言った理由は、これまで、私の知るかぎり「梅棹忠夫論」が、ひとつも書かれていないという事実があるからだ。たしかに、<著作集>には、各巻それぞれに解説とコメントがついている。これらも、梅棹論と言えないこともないが、しかし族立した<論>ではない。
この、論が書かれていないのは何故かと言えば、文明の何たるかがわかっていない人には、論じようがないからである。
ついでに言っておけば、文化論は、いくらしても、ほとんど不毛、というのが、私の説である。その訳は、あとでのべる。
梅棹忠夫は、まず、学者である。しかも自然科学者であり、理学博士でもある。科学とは、すべて実証可能な世界である。科学的な仮説は、第三者によって論証できなければならない。これは、再現性と言われ、いまさら、言うまでもないことである。
ここにひとつ、理解できない事実がある。つまり、86際になる現在でも、私の知る限り、梅棹忠夫は、日本学士院の会員ではない。世の学者の皆さんがたによって、梅棹は、学者とは公認さていないのである。私は、もちろん、梅棹は、学士院の会員になる必要などない、と考えている。
司馬遼太郎や林真理子が有名人である、というような意味では、梅棹忠夫は、いわゆる有名人ではない。この人は、<知る人ぞ知る>という存在なのである。この連載は、当分、続く予定で、書き始めた。
(Nova Vojo 2007年、3月号)

(2)

それにしても、梅棹論が、なぜ本誌に?と思われる向きもあろうかと考え、今回は、その理由から書く。
Nova Vojo誌の発行元はエスペラント普及会(EPA)だが、このEPAの母体が宗教法人・大本であることは、ご存知のとおりである。
1959年7月12日、お盆映画の娯楽作品<海上スペクタクル>として、「ジャン・有馬の襲撃」(市川雷蔵主演)が封切られた。監督は巨匠・伊藤大輔で、エスペラントがポルトガルをフィクション化した架空の国、イベリアの言葉として使用された。その指導にあたったのが梅棹忠夫と藤本達生であった。そのことは映画のクレジットに書いてある。
数年前、この作品はビデオ化され、エスペラント界の一部では、改めて話題となった。私も、久しぶりにビデオで映画を見て、今さらのごとくオドロイタ。
なぜか。もちろんすべてのシーンにイベリア語が出てくる訳ではないけれど、印象としては、全編にわたってエスペラントが話されている感じがしたからである。
最初、この話からがあった時、大映京都撮影所に、およそ15日は通う必要があろう、とのことだったが、実際には、50日近く通うことになった。
その間に、私が見た、経験したことの詳細は、いまは省略するが、7月12日以降のある日、梅棹先生(本編では、私個人が関係する場合は、単に先生と書く)は、「ウチで、こういう会をしているのやけど、君も来てみるか」というようなことを言われた。
その会とは、京都市左京区北白川伊織町の梅棹家の応接間で開かれていた<談話会>であった。おそらく、その年(1959年)の夏、8月か9月から、それに出るために私は梅沢家に通うようになった。
当時、その談話会に出席していたのは、先生のお友だち、知りあいといった人たちで、大学の助教授や講師クラスの学者が中心であった。この会には、夕方、各自夕食をすませてから、7時〜8時頃にかけて、それらの人たちが集まってきた。会議ではないので、このおしゃべり会は、いつの間にか始まり、深夜の1時〜2時頃までつづくのだった。話のサカナは、ビールと、つまみぐらいではなかったか。
そのうち出席者が増え、表の間(応接間)から、その奥、居間に進出し、人数も多くなった。京大の探検部の学生や院生もいた。月に2回程、開かれたように思う。後に、この会は金曜会として知られ、今では伝説的な存在となっている。
私は1962年の8月まで丸3年間、ほとんど毎回出席した。先生は、1959年の11月頃であったか、「こんど、大本教のことを書こうと思うのやけど、どないしたらええやろか」と言われた。
(Nova Vojo 2007年、4月号)

(3)

(承前)「それでしたら」と、私は言った。「中央市場」(京都市)の近くに、中村陽宇さんという方が、いはりますので、きいてみましょうか」
「そうしてくれるか」と、先生は言われる。
12月(?)のある日、私は先生の自家用車、オースチンに同乗し、朱雀分木町の中村家に案内した。お二人を引き合わせたとことで、私の役目は終わった。
おそらく電話で、陽宇さんから大本本部に連絡がいき、その結果、先生の大本取材が始まった。
1960年、中央公論誌の3月号に出たのが、その成果である。「日本探検 綾部・亀岡 大本教と世界連邦」と題されたこの論文は、ひとことで言えば、まさに画期的なもので、この一作によって、大本に対する世間の見方は変わってしまった。大逆転満塁ホームランのような効果があった。それまでの「邪教大本」(1935年の第2次大本事件以来の偏見)観は、覆された。
朝日新聞の論壇時評を担当していた桑原武夫は、この論文を高く評価した上で、「いっそ梅棹は大本信徒になったらどうか」とまで書いている。まあ、この評言は勇み足だが、これは執筆者梅棹忠夫の大本に対する共感がなければ、有りえない言葉であろう。
実は(というのは、梅棹忠夫愛用の決まり文句である--)、この作品は、1月号から連載が始まった<日本探検>の2版目の論文で、第1回目は「福山誠之館」であった。これは、日本のことを探ろうというこの企画の第1作にふさわしい出来栄えの作品で、日本人のことがよく分かる。
大本論文では2月号に載る予定であったが、大本関連の資料が多すぎて、執筆に手間取り、2月号の締め切りには、ついに間に合わず、1カ月先に掲載が延ばされたものであった。
その後出た、2編の論文とともに、その年の秋、「日本探検」という単行本が刊行された。中央公論誌上での連載は、その後も続き、興味深い<日本探検>は続いたのだが、先に出た4編以外は、今日に至るまで単行本にはなっていない。また「日本探検」も、文庫本にはなっていない。あまり売れなかったのかも知れない。
そういう次第で、梅棹忠夫と大本本部との関係が生じたのであるが、その原因は、すべてエスペラントにある。梅棹は、仙谷のエスペランティストとしては早い方のひとりで、京大の院生時代、自分でビラも貼って入門講座も開いたという。「その第1回の時に来たのが(KLEGの重鎮)坂本昭二やったとは、梅棹忠夫の語る所であるが、サカモト本人は「確か、2回目のはず...」と言っていた。
(Nova Vojo 2007年、5月号)

(4)

今回は、(1)に書いた「文化論は、いくらしても、ほとんど不毛、というのが、私の持論である。その訳はあとでのべる」ということから始める。文化論は、もちろん、することは自由だし、現に盛んに行われている。
私が、それでも「ほとんど不毛」というのは、文化論は、いわば美人論のようなものだからである。韓国の美人と日本の美人とでは、どちらが美しいかと言っても、これでは具体性に欠ける。固有名詞を出し、何という韓国の美人と、何という日本の美人とでは、どうか、と言えば、少しはわかりやすくなる。しかし、この場合は、その両者を知っていなければ答えられない。
文化論には、どうしても固有名詞が出てこざるを得ない。これは、逆に言えば、日本人に向かって、日本文化論をするのは、楽な仕事だということを意味している。いくら固有名詞が出てきても、一々、注や解説は要らないからである。しかしながら、これは日本人なら当然、これらの固有名詞は知っているはず、というのが前提条件となる。
ところで「文化の寿命は20年」という自説もあって、ほとんどすべての文化現象は20年ぐらいしかもたない、というのである。中には15年のしかもたないものもあるし、25年は何とかか持ちこたえるものもあるが、平均して言えば20年のということである。LPレコードは、全世界に20年で広まり、その時には、次のCDが出てきた、という例だけあげておく。
さて梅棹論文に戻るが、我が家で、単に「先生」と言えば、梅棹忠夫先生のことである。これはしかし、1966年4月、家内(藤本ますみ)が、京都市大学人文科学研究所社会人文学助教授梅棹忠夫研究室の個人秘書として勤めるようになってからできた習慣である。
私個人としては、1959年に面識を得て以来、京都市での習慣に従い、「梅棹さん」と言っていた。京都市生まれに絵スペランントの先輩、川野邦造さんなどは、「ウメサオはん」と言う。京都のエスペラント会では皆そう言っていた。
先生は、長い間、「大阪市立大学助教授」というのが、その肩書きであった。先に紹介した大本論文の頃もそうであった。京大の人文学科学研究所に移籍してこられたのは1965年だが、ここでも助教授であった。教授になられたのは1969年で、市大の時と合わせて助教授歴は20年つづいた。
先生の本職は学者であるが、一派には、マスコミでの執筆活動によって知られることになった、その最初は。岩波新書「モゴール族探検記」(1956年)である。中味もさることながら、この本職で読者が実感することの第一は、その文章力、いかにも、さっそうとした文体である。感じに頼らない、分かりやすい日本語である。この一作によって、梅棹忠夫は著述家として、日本語の論壇に確固たる地位を占めたと言ってよい。
(Nova Vojo 2007年、6月号)

(5)

本稿には、梅棹忠夫の著書からの引用が、これまで一切なかったことに、お気づきであろうか。これはもちろん、意図的にそうしたことである。なぜか?
もし私が、「梅棹は、こう言っている」と引用を始めたら、それこそ引用につぐ引用、結局は梅棹の言葉だらけの文章となるからである。それほどに、梅棹の文章は、引用に値するものばかりなのである。
それは、ザメンホフの書いた文章は、どこをとってきても、モハン文となっている、というのに似ている。つまり、本稿は梅棹名文選ではなから、これからも(当分は)引用しないつもりである。筧邦麿さんが、この「論」は何枚(400字詰原稿用紙で)ぐらいつづくのですかと、私に問われたことがある。私は、即座に「とりあえず、300枚」とお答えした。これは、あれこれ計算した上での数字ではない。
300枚というのは、いわゆる「新書版」といわれる本の、平均的あるいは基本的な分量だからである。
閑話休息。(と、昔のエッセーなどには、よく出てきた。小生としては、おそらくは生まれて初めて、これを書いた)本題に入る前に、きょう(6月20日)発売の岩波新書「エスペラント--異端の言語」(田中克彦著)をゼヒお読みください、と宣伝しておく(別稿参照:筧邦麿氏「良書推薦」本号)。
1961年7月10日。65年夏、東京で開かれる予定の第50会世界エスペラント大会(UK)を前に、日本エスペラント学会(JEI)主催のエスペラント会話力向上を目的とした「合宿」が始まった。16日までの1週間、信州大学野辺山牧場が会場で、参加者は約30人であった。「約」というのは、全期間の参加者のほかにも、お客さん(?)のようなかたちで、顔を出された方もいたからである。これが「野辺山合宿」として、いまや伝説的な存在と化している感のある合宿なのである。
講師というのはなく、3人(JEI専務理事・三宅史平、EPA・梅田善美、KLEG・藤本達生)が、中核員と呼ばれた。参加者(北海道から九州まで)のうち、6名が女性であった。本稿は、野辺山合宿の紹介が目的ではないので、これ以上のことは言わない。
要するに、この中にいた宮内ますみという女性が私と20カ月後に結婚し、藤本ますみとなってのち、福井県勝山市の保健所栄養士(地方公務員であった)をやめ、1966年4月から、京大人文研・梅棹忠夫助教授の個人秘書になった、というところで、「論」とつながるのである。これも、すべてエスペラントというものによる縁である。梅棹は、この「えにし」ということを大切に考える人なのである。世の中はすべて、縁によって動く。
(Nova Vojo 2007年、7月号)

(6)

他の国のことは知らないが、日本の大学では、教授に個人秘書が公費で配属されることはない。秘書に働いてもらいたい場合は、自費で雇うほかはない。
梅棹忠夫には、秘書の役割について、明確な考え方があった。秘書は、単なるお手伝いではなく、研究者にとって<頭脳の分身>というものである。
1866年4月、藤本ますみは、福井県勝山保健所の栄養士の仕事をやめ、梅棹の個人秘書になった。梅棹は、まず、こう言った。
「私は、自分の仕事で忙しいから、いちいち指示はしない。秘書の仕事は、図分で見つけてください」
梅棹研究室に通い始めた第1日めの夜、帰宅した新米秘書は、夫である私に言った。
「あそこは、私が行く所とは、違うと思う。皆さんの言うてはることが、まったく理解できない。もう、やめたい」
皆さんとは、京大人文科学研究所の同僚たち、研究者、同じ部屋にいる助手などである。関係者の間にでは、略語が使われることが多い。しかし、それらは、始めて聞く者には分からない。
「まあ、そう思うのは、もっともやと思うけど、1日めでやめると決めなくてもいいのではないか。せめて、3日は行った方が、ええのやないかな」と、私は言った。
2日めも、そして3日めも、彼女は出かけて行った。そうして、やめたい、とは言わなくなった。「ファイルなど、見ていると、まったく分からなかった言葉も、少しずつわかってきた」のだそうである。秘書は、はじめの頃は一人であったが、研究室での仕事が増えるにつれ、常に二人の秘書が分担して働く体制ができた。この第二秘書は若い女性で、二年ぐらいすると、結婚でやめて行く。
第一秘書であった藤本ますみは、結局、1974年の6月まで、8年間、梅棹の個人秘書をつとめた。大阪万博の跡地に設立が決まった国立民族学博物館の初代館長に梅棹がなったのを潮に、藤本は退職した。千里の博物館について行ったのは、それまで2年間、第二秘書であった三原喜久子である。この人は、現在(2007年間)に至るまで、すでに32年間も梅棹の秘書をつとめてきた。二人体制は現在も生きていて、第二秘書は明星恭子である。
梅棹は1986年間春、ウィルスにより、失明した。その後、梅棹忠夫著作集が刊行された時は、数年間にわたり、二人の秘書たち、特に三原は、文字どおり、先生の「頭脳の分身」として、全面的に働いた。これは、著者である梅棹の、秘書に対する信頼があるから可能なことである。マスコミ等からたのまれる仕事を引き受けるかどうかは梅棹本人が決めるが、スケジュール管理については、一切秘書にまかせている。
(Nova Vojo 2007年、9月号)