富士正晴と伊東幹治

本稿では敬称は省く。
初めて富士正晴を見たのは、1966年5月、京郁で開かれたVikingの例会(合評会)の席である。会議は御所の少し南にあるユネスコ関係の家であった。会員でもない私が顔を出したのは、京都での会だから伊東幹治も出て来るだろうと期待したからである。伊東とは、少し前から、エスペラントで手紙のやりとりをしていた。伊東は来ていなかった。私は家内と一緒だったが、二人が伊東に会いたいがために来たことを富士が知った。
「伊東を呼び出せ。北川、杉本、電話をかけに行ったれ」
土間に口の字形に机が並べてある部屋の横に、奥へ通じる通路があり、その先に電話があった。部屋の中にいたはずの私は、なぜか北川荘平、杉本秀太郎の二人が電話をかけている姿を覚えている。
やがて伊東は到着した。私どもは初対面の挨拶を当然のごとくエスペラントでかわした。これは、一種のカルチャーショックであったらしい。
この日の、その後のことは、例会記に出ているが、いま手許にないので引用はできない。会が終わると、伊東は私ども二人を誘い、タクシーで岡崎北御所町の自宅へ連れて行った。伊東夫人による手料理で夕食を御馳走になった。私が伊東の存在を知ったのは、前年の春、梅棹忠夫宅のソファーの上にあったVikingによってである。小説「ザメンホフ」が連載中であった。知らぬ人、しかも私と同じ京都在住の人が、こともあろうに、ザメンホフを書いている。自分でも書こうとしていたわけではないが、何となく、先を越されたという感じだった。手紙によって、伊東はエスペラント界の住人を一人も知らぬことが分かった。
65年、Vikingに連載された分は、四百字詰原稿用紙で約千枚、単行本の第一巻として67年8月22日に出た。知り合ってから、私は各種の古い資料を提供することで、伊東に協力した。自分で持っていないものは、古い人から借り出してきた。外国の人とも手紙のやりとりをして資料集めをした。
伊東に、私は牛飼いで干し草を集めてくるから、あなたはせっせと食べて、牛乳を出してください、と言った。
「ザメンホフ」は全7巻と「余滴」(これも約千枚)を合わせて八千枚以上の作品となった。その刊行の途中、73年からは、小説でなく、ザメンホフが書いたり訳したりした原典(エスペラント版)の全集もスタートした。じつは、「ザメンホフ」も、巻が進むに従い、ザメンホフ関連資料集のようになっていた。
エスペラント版が出るようになって、伊東は国際的にも有名になってきた。しかし、小説「ザメンホフ」は、その後もVikingに連載され、同人誌にとっては、ケッタイな作品として(一部の人には)読まれていたらしい。私も数年間は会員になり、例会にも何回か出たことがある。伊東の異色すぎる作に、みなさん、とまどっている様子であった。
84年4月、東京で青年劇場第34回公演、『そこを右に曲がって』(飯沢匡作・演出)を見た。中に少しエスペラントが出てきた。それで、帰りがけに作者を見かけたので、私は話しかけた。すると飯沢は思いがけないことを言い出した。ただし、以下は、私が理解した、または思い込んだことで、飯沢の言葉そのままではない(後述参照)。
それによると、菊池寛賞に伊東幹治が内定し(決定し?)おたずねしたところ、辞退され、残念でした、と。
私は不審に思い、その後、伊東にこの件をきいたところ、「知らん。もらえるもんなら、どんな賞でも欲しい」と言った。
そこで、私が考えたのは、どうやら、これには富士正晴が介在しているらしい、ということだった。飯沢匡と當士は交友関係があった。そこで、前記の件について、飯沢は富士に電話をしたのではないか。この先は、私の勝手な想像だが、富士はおそらく、「伊東は賞なんか、もらう男とちがう」と、いわば伊東になりかわって、ことわったのではないか。
そうだとしたら、いかにも残念なことと言わなければならない。で、今日に至るまで、このことが、ずっと気になっていた。
2006年7月12目。これは直接あたってみるほかないと思い、文春本社に電話をかけ、理由を話して菊池寛賞の事務局の方につないでもらった。相手の人は中年ないし初老の男性だった。こちらの事情を説明すると、ほぼ、次のような答えがかえってき来た。
「84年ごろと言いますと、飯沢先生はマンガ(賞)の審査員をなさっていましたが、菊池寛賞の選考委員ではありませんでした。飯沢先生からそのようなお知らせが行くことはありません。決まったら、私どもから直接ご本人にお知らせします。ただ、候補者についてアンケートはとっておりましたので、飯沢先生がアンケートに対して伊東さんを推薦なさろうとされたことはあるかも知れません。84年当時の選考委員は……(即座に、五人程、有名人の名が出てきた)でした。」この係の人は、資料にあたらなくても、20?年以上前の人たちのことを覚えていたのである。
この日、私にとっての「伊東幹治まぼろしの菊池寛賞」の一件は終わった。
しかし、たとえアンケートの段階にせよ、飯沢匡が富士正晴にたずねたことも、それに対して富士が自分の考えで、否定的な答えをしたことも、あり得たことと思われる。
賞がまぼろしだと分かる前、この件を伊東夫人に話した時、私は、「富士さんが、ことわらはったとしたら、嫉妬からだと思う。あの人は、やきもちやきやったんと違いますか」と言った。すると夫人は、「そうや」と言った。
人間は、ほとんどの場合、嫉妬深い。だから、富士がそうであっても不思議はないだろう。ただ、作家としては、伊東はViking所属の同人雑誌作家のまま、途中から横道にそれ、ザメンホフ研究に行ってしまった。
富士は、一般にも少しは知られた作家であったし、岩波書店から作品集も出た人である。そういう富士が伊東にやきもちをやいた理由は何であろうか。単なる性格的なもののせいか。
私は、これはひょっとすると、伊東がエスペラントなどという、訳の分からないものに走り、おまけにザメンホフについては世界的な存在になったらしいことを知って、いわば、伊東の訳の分からなさに対して、富士が嫉妬したのではなかったのかと思う。ついでながら、伊東の仕事について言っておけば、ウルリッヒ・リンス(岩波新書『危険な言語』著者。エスペラント運動史家)は言う。「……十分に評価し、十分に賞賛するのは不可能です。事実、いとう・かんじさんの功績をまっとうに記述するには言葉が足りません。」
フランスのエッセイスト、ガストン・ヴァランギャンは、「私は(無神論者ですが)いとうさんの仕事に対しては、神に感謝したい程です」と言った。
菊池寛賞とはともかく、エスペラント界では、伊東は生前いくつか受賞している。ひとつはドイツのファーメ財団の文化賞で、賞金は1万マルク(当時、約90万円)だった。伊東は行かないので、私が代理で受賞式に出席し、小切手をもらった。なぜかオランダで現金化するとき、署名は私が漢字で、伊東幹治と書いた。
(CABIN第9号、2007年3月31日発行)