父の友

さみしい男

「子どもが一人でもいて、よかったね」と、妻が時どき言う。私はその都度、そうだね、と賛成する。
一人娘は30代の年女も過ぎた大人であるが、よくある例で結婚はしていない。教職に就いていたこともあるが、いまでは大阪にある、ちょっとした学校に勤めている。朝は早く、帰りは遅い。そのことが心配だが、そこで働いている以上、どうにもならない。
妻は、向学心が大いにあり、2、3年かけて先頃、放送大学を卒業した。45年も前に卒業していた短大卒の資格があったので、3年に編入したのであった。本人も、「わたし、ガリ勉好きやねん」と言っている。その人の夫である私は、妻の勉強中は自室に引きこもる。昔、目がよく、読書欲が盛んであった時代は、新聞、雑誌、本などを次つぎに読んでいた。今はメガネのおかげで、読めることは読めるが、昔のようにはいかない。
活字を読むのが少なくなった分、テレビを見ることが多くなった気がする。一般的には習慣で見ているだけで、それほど熱中している訳ではない。ただ、2003年のNHK大河ドラマ「武蔵 Musashi」は別格で、毎週待ちかかねて見た。はじめてムサシを映画で見たのは、1943年のはずである。この時も、当然、お通さんは出ていたのだが、憶えていない。子どもにとっての関心は、お通よりムサシであった。今回は、それが、ちがった。
ムサシもさることながら、途中から私の興味はお通が中心となった。お通は、人前でこそ「ムサシ様」と言ったりするが、面と向かっては終始「タケゾウ」と呼んでいた。昔からそうだったのかも知れないが、私は新しい感じを受けた。不満なのはお通の出番が少ないことだった。お通を演じた米倉涼子が好きになっただけに、余計そう思ったのであろう。
私は、世のおじさんの例にもれず、女の人が好きなのである。もちろん、あらゆる女性が好きであると言う程寛大ではないが、好みに合う人は大好きということである。
妻のことは、昔、会った時、タイプであったので好きになり、結婚した。これは、しかし、すんなりとは行かなかった。先方の両親その他、みんなが反対した。私が無職だったからである。1960年代の初め、今で言うボランティアで国際語エスペラント関係の仕事をしていたが、金にはならなかった。
妻は地方公務員で保健所で働いていた。手紙は彼女の自宅あてに出していたが、余りに数が多いので問題化し、私書箱を借りてそこへ出した。つきあい始めて20力月で、やっと結婚したが、その時も、それから2年間も無職であった。一度、なぜ、無職の男と結婚したのかとたずねてみたことがある。「世の中に、こんなにお金のない人がいるとは想像もできなかったから」との答えであった。
結婚後も2年間、無職のままなので、たまりかねた妻が動き出し、親切な人びとのご厚意で、1965年4月、私は某団体の嘱託になることができた。仕事はエスペラントに関することなので、私にも出来た。仕事の内容が変わった時期もあるが、終始エスペラントのことだったので大いに助かった。
妻は福井県の職員から転出し、私と同居して京都で働くようになるのだが、それはまた別稿で……ということにしておこう。
当の私だが、20代の後半まで、なぜ無職であったのか。中学を出た時、上の学校へ行く気が全然しなかった。卒業と同時に家族で熊本県から京都へ引っ越してきたが、今で言う引きこもりにはならず、図書館に通い出した。これが私の学校がわりになった。そのうちにエスペラントに出あい、この習得に熱中した。やがてエスペラント普及団体に出入りして、ボランティアをするようになった訳である。その間、生活は親のスネかじりであった。
私がエスペラントに手を出したのは、この言葉なら、自分にも出来る、しゃべれる言葉だと直感したからであった。理由は、発音が明快で、文法が規則的だからである。
これだと、いわゆる丸暗記でなく、理屈で憶えられる、と思った。会話の練習としては特にしなかったが、文章の音読はした。作文もしたし、読書もした。おそらく、始めて数年後には一人前のエスペラント遣いになっていたろうし、10年では、自分で言うべきことではないが、達人になっていたかとも思われる。
ちなみに2003年12月の本誌(78ページ)に、エスペラントに訳された『ぐりとぐら』のことが出ているが、あの例文の訳者が私である。この絵本などは、やさしそうで、実際に訳してみると、大変むつかしい。それを訳しているのだから、かなりの達人と認めてくださっていいかと思われる。
なお、日本語が出来る人であれば、だれでも達人になれる可能性はある。ただし、多少の時間はかける必要がありますが......。
冒頭の「子どもが一人でもいて、よかったね」という所へ戻る。子どもの力は強い。生まれ、育って行く間に、一家の中心となる。それまでどう呼んでいようと、夫婦は「お父さん、お母さん」と呼び合うようになる。子が大きくなっても、これは残る。私も家内のことを「おかあさん」と呼んでいるが、夫婦度が落ちたからだと思われる。
子どもを得たことは、確かにいい。しかし同時に、私は妻を失った気がしている。もちろん、「お母さん」と呼ぶ家内は存在しているが。
何10年、結婚生活をしていようと、その大部分は「親」としてであって、夫婦としてではない。私はこれがさみしくてたまらない。
世の夫掃の皆様は、おたがいを「お父さん、お母さん」と呼んで安定し、それで幸せなのであろうか。
私はさみしいから、ドラマのお通などに現をぬかすのである。

かさばる男

かさばる男とは、男として立てねばならぬ男、の意である。その男が、そこに存在すれば、それを認め、その男を中心に座を持つ、といったことが必要である。かさ高い男であり、かさばる男という訳である。
妻は、かさばる男は嫌いと言っている。若い時から、他家の嫁にはなれないと思っていたそうだ。嫁入りすれば、そこには大体かさばる男がいて、これに仕えねばならぬ。それは自分には耐えられない。
お見合いもいくつもしたが、結婚はしなかった。そこへ全くかさばらない男、即ち私が出て来た、というところであろうか。
かさばらないのはいいとして、私は収人が少なかった。妻は終始一貫、わが家の主な収入源であった。収入役を代わってほしい、と言われたことが何度もある。私は正規の職員であったことはなく、つねに嘱託だった。収入には限度があったし、エスペラントでは転職も不可能だった。
妻とは、結婚後も半分、別居生活をつづけていたが、66年の春、妻はようやく福井を出、京都へやってきた。頼んでいた栄養士の職は見つからなかったが、全く思いがけない大学研究室の個人秘書の仕事があったのである。
世間では、エスペラント? 今でもあるんですか、というのが通り相場であろう。ところが、この言葉の世界に入っていると次つぎに縁が生じてくるのである。前年の夏、大阪市大から転入して来られた、京都大学人文科学研究所の梅棹忠夫助教授(当時)は、研究室の開設にあたり、アルバイトでない、本格的な秘書を求めていられた。それまでにも先輩教授のお嬢さんなどが自宅へ通って来て数時間ずつ仕事はしていたが、いずれもアルバイトであった。また、仕事に馴れたころには縁談があり、結婚してやめて行く。
こんどは、そうでない人が欲しい、それには既婚者がいい。ついては藤本夫人はどうであろうか、ということに梅棹家で決まった。
じつは梅棹先生と私は数年前からエスペラントがらみの仕事を通じて旧知の間柄であった。話は決まった。
第1日目の夕方。妻が帰宅するや「あそこは、私の行く所とは違う。話されてることが何も分からない」と言った。私は、あわてたが、「やめるにしても、1日行っただけというのは早すぎないか。せめて3日行ってからにしては?」と言った。
妻は4日日も出かけて行った。ファイルボックスなど開けて見ていると、何も分からなかった事が、少しずつ分かってきたのだそうである。妻は梅棹先生が、万博跡地に出来た「民族学博物館」の初代館長として転出されるまで、丸8年間秘書をつとめた。
先に書いた、かさばる男の話だが、父親がそうであったかも知れない。戦時中、尼崎市に住んでいたが、父は帰宅時間には子どもたちを玄関に並ばせ、頭をさげて「お帰りなさいませ」と言わせた。私はこれがイヤでたまらなかった。また、終戦後は、あらゆる事業に手を出したがうまく行かず、一時は借金取りが、わが家に住み込んでいたこともある。そういう面白くない生活をしている時、父は子どもに対して「きびしくしつけ」ようとした。それはもはや通用しなかった。
母にきいた話がある。台湾にいた若い時、夕食に何かの都合でショウガを用意できなかった。すると父は、ショウガのない冷奴を食卓ごとひっくり返し、「こんなものが食えるか!」と言ったという。数10年後、母にその話をきいた私は、絶対、いやなるべく、食べ物のことでは文句は言うまい、と心に誓った。
父は物語作者となり、松方コレクションで有名な松方幸次郎氏、大谷探検隊で知られる大谷光瑞師、昔の僧を主人公とした『円仁人唐』等の作品を出した。ほかにも俳句や短歌から長唄や今様に至るまで手を出した。生徒がつき書道教授もしていた。何かの会合に呼ばれ、皆さまにお話をすることもあるようになった。この頃には、どうやら、かさばる男ではなくなっていたように思われる。人びとに「先生」と呼ばれるようになれば、別にかさばっている必要はなくなったのかも知れない。
父は子どもにとって、いい父親ではなかったが、先生と呼ばれるようになってからは、割と普通に話ができるようになった。どちらかと言えば、淡々とした親子関係であった。
ある日の夕方、父親と子ども(兄弟3人)が揃い、何ということもなしに、いわば話し合いが始まった。別に討論会というのではないが、ふだんの日常会話ではなかった。今で言えば、イスラエルとパレスチナ、イラク問題についてなど、時事問題にもわたったし、人生の問題にも触れたように思う。要するに2時間か3時間にわたり、御飯も食べずに話をしつづけたのである。内容はほとんど忘れているが、話が一段落したところで、父が、しみじみと言ったことだけは忘れることがない。
「こうして、親子として何10年も一緒に暮らしていながら、今夜のように長い間、語り合うことなんて、めったにないのだね。きょうが初めてではないか」。
父は、最初にして最後(!)となった親子談話会に満足している様子であった。私も、あれは気持ちのよい親子座談会であったと思っている。
簡単に「話し合い」と言う。家族でも、それは、よっぽどの幸運に恵まれた時でないと、できないことではないかと思う。どちらかと言えば、ニガ手な父であったけれど、あの時の話ができたことは、いい思い出として心に残っている。

うたよむ男

父は、エスペラントもいいが「日本の古典も読み、短歌なども詠んでみてはどうか」と言ったことがある。まだ、父のしていることをする気にはなれなかった。没後2年たち、2002年の9月、そろそろいいかという感じで、結杜に入会した。毎月十首投稿し、月一度の歌会にもその月から欠かさず出席している。俳句は季語など約束事が多く、性格的にも合わないと思った。
私は短歌の方が自由で性に合っているとも思った。初心者なので、まだ「作歌に苦労する」こともない。私の場合、いまのところ、歌を「つくる」とか「詠む」というより、向こうから「出来てくる」ということが多い。向こうとは宙であり、ほとんど自動的に生まれてくる感じなのである。
ところで、源氏物語は原作も訳文も、まともに読んだことはないが、ただ、中に和歌がちりばめられていることは知っている。あの形式は興味深いと思っている。
いま、短歌雑誌など、一人の作者の短歌を14首とか21首とか出してあることが多い。あれも、散文200字か400字あたり一首ずつ、歌を添えるのがいいのではないかと考える。短歌だけでは、理解するのに無理があると感じることが多い。これは単に私が素人であるという理由によることかも知れないが。
私がそう思う理由は別にもある。歌会では提出ずみの歌(この段階では、作者名は伏せてある)について各自が感想を言う。この時解釈が分かれることが多い。要は、これだけでは、分かりにくい歌が多いということであろう。ああでもないこうでもないと、時間をとることが多い。そこが面白いと言えば、それはそうなのではあるが……。
私は『小生物語』と題する小説のようなものを書いた。いまのところ400字詰原稿用紙で160枚に達している。中で主人公たちが短歌のやりとりをするところがある。これらは、作者が文章を書いているうちに「出来てきた」ものである。短歌専門誌であれば、許されないことだが、幸い、ここは「母の友」である。原文少々と短歌を紹介することをお許し願いたい。
二人が知り合って3カ月、手紙のやりとりをしていたが、ここで内容が一変する。
<いままで、お行儀のよいことばかり書いてきました。でも修子(女主人公)さんのお手紙で、あなたも、私のことを「生理的にイヤ」とは思っていなさらぬこと、むしろ好ましく思っていらっしゃるのでは……と思えること、等々の理由により、これからはもっと素直に自分をさらけ出したいと思うに至りました。あまりおどろかないように願います。>

 

好きな人程にぼんやりその姿
  あやふやとなるだから会わねば 達

思われてうれしきことは限りなし
  歌にしにくき吾が思いかな 修子

文字どおりとび上がりたりうれしさに
  修子の歌は一首にて足る 達

 

太宰治作『人間失格』の主人公は大庭葉蔵と言う。私の「小生物語」の登場人物たちは、葉蔵ゆかりの人びとである。まず、小庭律子。新橋のスタンド・バアのマダムで、名前は私が付けた。葉蔵がバアの二階にころがり込んで暮らしていた時に出来たのが娘の修子(というのが私の解釈)。その夫が短歌づいている達であり、その縁者も出てくる。小生とは、葉蔵の孫にあたる葉太郎である。
太宰の女性関係は詳しく調べられている。ところが、上の〈バアのマダム〉は、そうではない。作中と、特に「あとがき」に出てきて、作者に葉蔵の手記が書かれたノートを貸す重要人物である。架空の人物かも知れないが、私には実在の人物と思われてならない。その想定のもとに、私は『小生物語』を書き始めた。戦後生まれの作家、太田治子さんと違い、戦前生まれの葉蔵の子は、津島修治の上の一字をもらい、修子と名付けられた。
太宰治は、事実そのまま(=私小説)と思わせて、実はそうでない(=フィクション)という物語の名手であった。私は彼のフィクションを借用し、別の物語を書いたにすぎない。
実際の私は月曜から仕事に行くが、月に一度、歌会が開かれる日は休む。午後1時から5時まで、2、30名が集う。一首ずつ提出ずみの短歌がプリントしてあり、参加者に渡される。感想・批評がすむと、名が明かされる。その他、会誌には毎月10首投稿し、4首か5首は入選するが、他はボツ、というのが私の短歌事情である。

 

京都駅見せたい人が一人いて
  その人の名は大庭葉蔵

忙しく立ち働いてよく眠る
  妻にてありぬ育ちはせぬが

家にありて吾と出会えば娘は常に
  ああビックリしたと何故か言うなり

電灯を消せば私は海の魚
  眠れるまでは海底にいる

 

父は、生前はともかく、今になって私に影響しているのであろうか。そのうちに、私はうた物語というのを書くことになるような気がしている。

(完)

 

ふじもとたつお
1935年台湾生まれ。53年京都で国際語エスペラントを学習。65年より宗教法人大本(おおもと)本部勤務。日本エスペラント学会参与。著書に『興味の問題』(ロムニブーソ刊)、共訳書に『世界の人間像16 ザメンホフの生涯』(角川書店刊) - 共に絶版 -がある。

(母の友ー福音館書店2004年:7、8、9月号)
挿絵:佐藤直行