土岐善麿著『ひとりと世界』というザメンホフの伝記がある。この本の題名は、エスペラントの本質をよくつたえていると思う。自分が、たとえば日本人という民族の一員だとしたら、その「民族をこえなくても」、いわば「いながらにして」世界と直結したひとりとして、エスペラントは使える。民族とか国家とかいうのは、簡単には「こえられない」ものである。だが、それと同時に、「他にかえられないもの」が「個」である。そういう「個」と「個」ひとりひとりを、世界のどこのひとであっても、そのまま結んでしまうのが世界語としてのエスペラントの働きである。日本国民同士でも、たとえば関西人と関東人が日本語で話すばあい、ナマリが気になったりする。そういうとき、エスペラントで話をすれば、おたがいに対等になって解放されることがある。個人を解放する点では、国内の共通語以上かもしれない。
それは外国人を相手にしたとき、いっそうハッキリとわかる。英語国民を相手に英語を使うひとは、国語として毎日使っているひとにくらべれば、あきらかに不利であろう。語学的には、腕をみがいていけば上達するにしても、心理的な不平等感は、どうしようもないだろうと思う。その点エスペラントのばあいはおたがいに民族語ではないから、個人の能力に応じた「自分の言葉」として使えるのである。この安定感は、何ものにもかえがたい。
その理由はどこにあるのだろうか。国家権力と結びついた国語でないとか、何千年だかの文化を背おった民族語でないとかの、要するに中立語だというところにあるのかもれない。言語的には、まず、「規則的な文法」とか、発音も「一字一音」であるといったエスペラントの特性にあるのかもしれない。アクセントも、「最後から二番目の音節にある」と決まっていて、単純明快である。だからといって、このことは、言葉を単調にすることにはなっていない。それどころか、アクセントの位置を、いちいち気にする必要がないから、話し手としては気楽にしゃべれるのである。このように文法が規則的な言語というのは、一面ではひとをしばるけれども、一定のワクをはめることで、その中での自由を十二分にあたえてもいる。「しばる」というのは、形容詞はa、副詞はeというように、語尾が決まっているから、それぞれ使いわけなければならない、といったようなことである。
たとえぱ「美」というコトはベル = belという語根で示すが、「うつくしい」という形容詞では、べーラ = belaとなり、「うつくしく」という副詞なら、ベーレ = beleという。「うつくしさ」という各詞はベレーツォ = belecoというが、「美」なら、単にべーロ = beloである。このエーツォ = ecoは、接尾語としては「〜さ」にあたるが、「性質」という意味で、ecoという独立の単語としても使うことができる。品詞の区別が語尾によってハッキリしているというのは、とくに耳で聞いたときわかりよいが、文法の規則どおりに使い分ける必要があるということでもある。
「美しい」に対して「みにくい」はマルべーラ = malbelaという。malは、まさにマルハンタイを意味する接頭語だが、「反対に」という副詞のときはマーレ = maleという。このmalを接頭語の代表として調べてみよう。これは「不愉快」などの「不」にあたるが、日本語で「あいつは不愉快なヤツだ」と言っても、だれも不思議とは思わない。フユカイという言葉は単にユカイの反対の意味をもつコトバというだけでなく、いわばフユカイそのものの気持ちを表現している。とくに会話ではそれこそフユカイそうに発音するから、なおさらユカイだとは受けとられないはずである。ところが、エスペラントのばあいは、malをつけて、マルアグラーブラ(malagrabla)といっても、マルのあとに愉快なことを意味するアグラーブラがあるから、あいかわらず愉快な感じしかしないというひとがいる。もうひとつ例をあげると、「長い」はロンガ = longaという。「短い」は、もちろんマルロンガ = mallongaとなる。これでは、長より短のほうがナガイことばになって、まずいではないか……というのだが、じつは、これも日本語なら、ナガイよりミジカイほうが一字分ながくても、文句を言うひとはいない。
神戸にウルグアイの領事でヴィクトル・カオというひとが住んでいた。カオさんのエスペラントは、ここちよいひびきのものであった。彼の講演を聞いていると、このロンガというのが出てきた。このときカオさんはlongaをローンガとナガークのばして言い、いかにもナガーイ感じを出すのだった。マルロンガ = mallongaのときは、きわめてすみやかに、手みじかに発音し、マルロンガをミジカく感じさせるのである。しかも、ときどき、マルロンガ・マルロンガと二度もいう。ちょうど、大阪あたりで、「みじかい・みじかい」とか、「せまい・せまい」と言うのと同じようで、たいへん実感があった。
字面がどうあろうと、ちゃんと、それらしく発音ができたら、ナガくも、ミジカくもなり、あるいはユカイにもフユカイにも聞こえる。わたしは、このmalのことは、とくにぐあいがわるいとは思わない。しかし、幸か不幸か(これは、フェリーチェ・アウ・マルフェリーチェ = feliĉe aŭ malfeliĉe)、エスペラントでは、不幸や不愉快にとどまらず、高いはアルタ = altaだから低いはマルアルタ = malaltaとなって、使われる範囲が「不」よりも広い。
それにしても、なぜ、このように、エスペラントでは、malが多用されるようになったのであろうか。それは、ザメソホフが、当時そうせざるを得なかったから、ということになろう。かれは若くて無名の人間だったから、たとえ完全な言語をつくっても、言語学者ダレソレ先生の国際語、というわけにはいかなかった。そのような事惰もあって、この国際語は、世界の各国が公認するとか、多くの使用者があるとかに関係なく、ただちに使用できるようにしておく必要があった。ザメンホフの国際語は、何年も勉強してから初めて役に立つ……というのではなく、たやすく学べて、しかも、すぐに用がたせる言葉でないとまずいのだった。そこで、さしあたっておぽえるぺき単語の数も、なるべくなら、すくないほうがよい。そのための手段のひとつがmalなのである。とはいえ時代とともに、たとえばマルロンガと平行してクルタ = kurtaという新語も使われるようになってきた。ロンガを忘れたときは、逆にマルクルタ = malkurtaも言えるから、malはやはり便利なコトバというべきであろう。
いまのところ「国際語」というと、国際会議の場面を思いうかべるひとが多いのではなかろうか。エスペラントのばあいは、数はまだすくないけれど、国際結婚をして家庭で使っている例もある。同国人同土でも家で使っているひともいるから、そういう意味では一般に考えられる国際語のイメージとはかなりちがうように思われる。
ザメンホフは、この辺のことはどう考えていたのであろうか。じつは、このひとは、ひとことでいえば「人類の統一」を生涯の理想としていたほどだから、ときたま使われる程度の国際語では満足できなかった。国際語は、「これを家族のことばとして受けいれ、親から子の世代へと伝えていく集団が出現して初めて存続が可能となる。中立語にとってはそういう人たちが100人でもいるという事実のほうが、ちょっとだけ習ってみようかと思うひとが何百万人いるより、はるかに重要である。少数でとるにたらぬほどの民でも、そこに代々つたえられることばは、何百万人に使われてはいても所属する民をもたぬことばより、はるかに安定した、打ち消すことのできない生命をもっている」と言っている。ここにいう民というのは、日本とかユダヤとかいうのではない新しい民族、「中立の民」のことである。もちろん、それは簡単に出現するものではないし、いま家族用語としてエスペラントを受けいれている少数の家庭のひとたちも、ザメンホフのいう中立の民を創造するつもりで努力しているのではあるまい。将来、ザメンホフが夢に見たような世界が来るかどうかもわからない。しかし、かれらは、別の、もっと実用的な必要から使っているだけかもしれないのである。例をあげると、夫妻ともドイツ人だが、生まれた地方がちがうので、しゃぺると方言のナマリが気になるから、ごのほうがいいのだと言ってエスペラントを使っている家庭がある。コドモは両親以外のまわりの人たちから学ぶから、ドイツ語はもちろんできる。いくら両親が使っていても、近所や学較で習う言語にくらべれば、エスペラントの立場は弱い。つまりエスペラントに「母国」がないからである。しかし、父母が使っていれば、コドモは生まれながらにして、この言葉を「母語」として育つことになる。なかには三代目という家庭もある。そういう、生まれながらのひとたちは、デナスカ・エスペランティストという。denaskaとは、生まれて以来の、ということである。デンマークで訪ねた家庭のばあいは、母親が、デンマーク語、父親はエスペラントを話すという方式をとったという。コドモは、もう立派な若ものになっていたけれど、小さいときの話をきいた。夜中にオシッコにおこすと、ねぼけながらも、父のときはエスペラント、母のときはデンマーク語で受け答えをしたという。
ところで、国際語というのは、民族語があって、それを異にする民族あるいは国民が、異国民同士で使うためのものではなかったのだろうか。エスペラントが家族の言葉になっている例は、まだわずかしかないし、ザメンホフの理想にはほど遠いのが実態である。いまのところ、エスペラントを唯一の言語とする「民族」はいないから、「平等中立の国際語」という本質は当分かわりそうにない。家庭で使っているばあいでも、こどもは「エスペラントもできる」ということであって、生まれてこのかたずっと民族語しか使わないという一般の生活とはくらべられないであろう。まして、デナスカでもなく、毎日つかう必要にせまられてもいないものには、「やさしい」ことになっているエスペラントも結構むつかしい。ただ、民族語とちがい、だれにもハンディキャップがあって、むつかしいのはおたがいさまである。このハンデの数をへらすのは個人の努力次第であり、当人の自由意志にかかっている。みんなが多少の不自由を忍ぶことによって得られる公平さが国際語にとって第一の条件であろう。エスペラントの普及ということになると、必然的に時代や社会の要求がからんでくるから、ことばとして中立語の条件をみたしているだけでは計りがたい問題である。
(図書、1977年2月号)