エスペラントの話 (1)

はじめに

1977年は、ザメンホフが世を去ってから60年、エスペラント発表90周年をむかえる年である。来年は、19歳のザメンホフが1878年に世界語の試作品を完成してから満100年になる。一般に、この国際語の創始者は、「ポーランドの眼科医ザメンホフ」として知られている。しかし、かれが医者になり、眼科をえらんだのは、試作品の「世界語」ができたときから何年ものちのことである。
1887年の7月、『国際語』と題する学習書のロシア語版を刊行したとき、ザメンホフはエスペラント博士という筆名を使用したが、やがてこのエスペラントがかれの国際語の呼び名となり、いまでは「共通語」の代名詞にもなっている。ザメンホフについては、近年いちじるしく研究が進んでおり、いまでも重要な手紙が発見されることがある。そのような最新の資料は入っていないが、ザメンホフの伝記でまず一冊、ということになればやはり伊東三郎著『エスペラントの父ザメンホフ』(岩波新書)であろう。この本は、エスペラントの由来について著者一流の言語観をおりまぜながら物語ったものであり、1950年ごろまでに入手できた資料については、よく調べてある。
エスペラントといえば、国際語であるということぐらいは知られているとしても「どこへ行けば通じるのだろう」など、わからないことが多いのではなかろうか。

日本人とエスペラント

日本人で、最初にエスペラントを学習したひとは、1891年ごろ、ドイツに留学中の丘浅次郎であったらしい。このように、個人的に学習していたひとは、他にもいたかも知れないし、20世紀に入ってからは、長崎や岡山で教えるひとも出てきた。それは、主としてガントレットというような外国人であった。これを「前史」として、日本では、1906年に長谷川二葉亭の『世界語』が出版され、ガントレットによる通信教育の受講生を中心にして日本エスペラント協会が設立された。そのとき以来、すでに70年の歴史がある。協会の第一回大会では早くも「世界エスペラント大会を日本で開催する件」が決められている。世界大会というのは、つい前年の1905年にフランスで第一回が開かれたばかりであった。明治の先人達の意気ごみは、たいしたものというべきであろう。この明治39年の「流行」の両大関は、浪花節とエスペラントであったとモノの本にあるのも、なるほどと思われる。だが、熱しやすく、さめやすい日本人のことである。協会の大会も、次の年に第二回を開いたきりで、その後9年間は開催されず、第三回大会が開かれたのは1916年になってからであった。その間にも、エロシェンコが来日したり、秋田雨雀、比嘉春潮といったひとたちが学習を始めたりしていた。ザメンホフがワルシャワで死去した1917年には、岡山で伊東三郎が学習を始めている。この大正デモクラシーの時代にエスペラントにふれたひとのなかには、半世紀以上たった今日でも現役というかたがすくなくない。1919年8月には「このごろ、吉野作造、日本エスペラント協会入会」と、運動史年表に出ているが、その年の12月協会は臨時総会を開き、若いひとを中心にして新しく日本エスペラント学会を創立した。それまで「協会」の中心人物であった黒板勝美の個人色のつよい運営から、すこしばかり近代化をはかったものと言えよう。鉄道技師・小坂狷二ほか学生たちの働きによって、これかちしばらくは「学会」時代がつづく。このころには、ほかにも団体ができたし、出版活動や図書の輸入も盛んであった。同時に社会主義の時代でもあって、第一次大戦後の約10年間は、日本の運動史上もっとも活動的な時期のひとつと言えるであろう。
1930年には、小林勇の鉄搭書院が伊東三郎や申垣虎児郎等の編集による「プロレタリア・エスペラント講座」全6巻の刊行を開始した。これは、内容はもちろん発行部数の上でも画期的な講座であった。いまとちがい学生の数もすくない時代なのに、およそ一万部も出たらしい。発禁になった巻もあったが、ちゃんと完結している。60歳以上のインテリのばあい、エスペラントが「国際語」だという認識は、この講座によって直接または間接に得られたものであろう。もっとも、その後たずさわっていないひとだと、「いまでもありますか」というのがエスペラント運動の現状であるかもしれない。
1930年代の後半からは、戦争の進行とともに、「プロ・エス」はもちろん、エスペラント運動がつぶされていく時代で、国際語にとっても、異常な時期が終戦までつづく。
戦後は、文化運動のひとつとして再生し、1950年ごろまでは、陣容をととのえた時代であったと言えよう。52年の9月に抄訳がでた『原爆の子』の共同翻訳に代表されるような「平和文献」の出版活動は、現在にいたるまで日本のエスペラント運動の中心的な仕事になっている。
1906年以来、念願としてきた日本における「世界エスペラント大会」は1965年に第50回大会として東京で実現した。世界の各地から1,700人あまりの出席者を迎えて一週間、エスペラントによるあつまりをしたのである。それ以後は国際的な催しに参加する日本人も多くなり、しゃべれるひとの数も増えてきた。毎年、世界大会に出席するひともいる。エスペラントの会合では、イヤホーンをつけているひとはいないから、いわゆる「国際会議」という雰囲気はない。また、出席者は、「各国代表」というのではなく、個人として参加するのがほとんどである。集まってくる人の職業も民族も背景にある文化も多様であり、文字どおり国際色豊かな集まりである。

エスペラント人口は?

エスペラントの入口はどれぐらいであるかというのは、よくきかれることだが、正確にはわからない。わたしの感じでは、世界の人口からみて、1万人にひとりと考えてみるのが、ひとつのめやすになると思う。世界の人口が約40億として40万人、日本は1億で1万人ぐらいというところであろうか。意外に少ないようであるが、これが世界中に散らばっているとなると都合のいいことがある。たとえば、国際文通の相手をさがすとか、旅行をするというばあいにエスペラントは案外役に立つのである。さきほどの数をものさしとしたばあい、東欧諸国のエスペラント人口は、もっと多い。ハンガリー・エスペラント協会の会員は5,000人、ブルガリアの協会のばあいは7,000人ほどである。とくにブルガリアは、人口850万ほどの小国ながら、エスペラントに熱心なところで、その数も、1,000人にひとりはいると見ていいようである。このぐらいいると、街をあるいていても、緑の星のバッジをつけたひとに出会うことがある。これはエスペラントが通じるという目印で、首都ソフィアでも、いなかの町や村でもこれをつけたひとをみかけた。駅や空港の人ごみのなかでは、小さな胸のバッジでは目立たないから緑星旗をもって出迎えてくれる。
わたしが初めてブルガリアヘ行ったのは、日本万国博覧会にそなえて民族資料の収集をするためであった。民族博物館のひとの案内で地方へいくことにしたが、仕事の性質上、行った先はかなりの田舎であった。羊の群があるいている道ばたで、クワをかついだオッサンに出あった。みると胸にバッジをつけているではないか。ほんとかしら、と思って話しかけてみると、ちゃんと通じたのである。むこうもまさか日本人がこんな片田舎に突然あらわれて、エスペラントで語しかけてくるとは思わず、びっくりしたようだった。民族資料のことをいうと、自分のオヤジがこしらえたという小さな椅子をゆずってくれた。別の「民俗村」をみたときは、壁に「Esperanto parolata」(エスペラントが話せます)と書いてあり、糸繰り車をあやつっている係員がその「話せるひと」であった。
このようにしてブルガリアでは、たまたま出会うということが何度かあったから、1,000人にひとりぐらいになると、こういうことがあるのかということが身にしみてわかった。

(「エスペラントの話<2>」へ続く)